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名無しの手紙  作者: 山本良磨
第3話 シルメリア編
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The 4th Day

 メールが目を覚ましたとき、まだ日は昇っていなかった。窓の外から見える空は群青色に染まっている。

 まだ頭はぼうっとしていたが、少なくとも苦しくはない。体の熱も下がり、風邪が治っているのが実感できた。

 とりあえず起きよう。体を動かそうとして、体中が汗でぐっしょり濡れていることに気づいた。

(服、新しいのに着替えないと)

 上半身を起こしたメールは手元を見た。右手の先には、手袋で覆われた名無しの右手がしっかりと握られていた。名無しはメールのベッドに顔を突っ伏して眠っている。思わず目を細めた。

(手。ずっと、握っていてくれたんだ)

 手紙屋の仕事があるのに。それでも一日を棒に振って一緒にいてくれた。心が少しだけくすぐったい。

 メールは右手をつないだまま、左手を名無しの方へ伸ばして、そっと頭を撫でた。いつもは撫でられたり叩かれたりしていたので、たまにはこちらからやってみたかった。人の頭を撫でるなんて、リリアーヌの子どもたち以来だった。そっと、優しく。

「目、覚めたんですね」

 突然声をかけられたことにびっくりして、聞こえた方向に顔を向ける。思わず名無しの頭から手を放してしまった。

 その先にはメールが寝ているベッドと同じ形のベッドがもう一つ。そしてそこにはメールと同じように上体を起こしている女の子がいた。

「昨日ここに運ばれたとき、すごく辛そうだったから心配で。元気になったみたいで何よりです」

「えっと、あなたは?」

 メールより二つ三つ年上に見える彼女は優しく笑いかけてきた。メールも息を呑むくらいのきれいな長髪がすらりと伸びる。

「私はリオナといいます。もしよかったら少しお話しませんか?」


          *     *     *


(で、あいつはどこ行ったんだ)

 朝、目を覚ました名無しは、結局仕事をせずに眠ってしまったことに後悔した。さらにそれもつかの間、ベッドへ前のめりに倒れていた体を起こそうとしたところで、手を握られていないことに気づき、顔を上げてメールの方を向いたら、そこに彼女の姿はなかった。

 彼女がいたであろう位置には、わずかにぬくもりが残っていたことから、いなくなってからはそう時間が経っていないようだ。

 すでに日は高い位置まで登っており、強い日差しが窓越しに名無しの体へ容赦なく照りつけた。昨日名無しが覚えている最後の光景では茜色の空が窓から見えていた。つまり、ほぼ丸一日寝ていたことになる。

(寝不足だった反動がきたか)

 そう思いながらメールの行きそうな場所を考えていたとき、

「お目覚めですか。随分ぐっすりと寝られていましたね」

 と声をかけられた。もう一つのベッドの近くで、名無しと同じように小さい椅子に腰かけていた男からだった。

「はじめまして。私はライナスと申します」

 いきなりの挨拶に名無しは会釈で応じた。

「いきなりで悪いが、ここのベッドに寝ていたやつが、どこ行ったのか知ってるか?」

「ああ、そこにいた子なら、あなたが起きる前に娘と外に行きましたよ。短い間にどうやらすっかり仲良くなったようで、重たいのに娘の車いすを押していくと聞かなくて」

 元気なお子さんですね、とそう付け加えた。彼の口調はとても丁寧で、物腰もとても柔らかかったので、名無しも初対面の彼に対して好感をもてた。

「おそらく一階の庭園にでも行ったのではないでしょうか。娘には病院の敷地内から出ないように言っていますし。そこか、そこに行くまでの道中にいると思いますよ」

「わかった」名無しはだるい体に鞭打ち、部屋の出入り口へと向かう。

「失礼ですが、あなたはあの子の保護者ですか?」

 まあそんなもんだ、と名無しは小さく返答する。

 それだけで質問は終わったようなので、名無しは再び出口へ歩き出した。


          *     *     *


 病院の扉を抜けたその先には、緑があふれる庭園があった。病人だろうと健常者だろうと、来るものを拒まないこの場所は、あるときは入院患者のリハビリの練習に使われ、またあるときは暇を持て余した子どもたちの遊び場や犬の散歩コースに、そして来訪者と患者たちの憩いの場として市民から圧倒的な支持を得ている。庭園入り口の看板にそんなことが書いてあった。

 探し出すのにそこまで苦労はしなかった。少し目を凝らしただけで簡単に見つけることができた。

 庭園の中央、『水の都』という二つ名を象徴するにふさわしい立派な白い噴水のそばに、メールはいた。彼女は長髪の少女が乗った車イスを力の限り押しながら進んでいる。おそらく、少女は病室で話した男性の娘だろう。薄い水色のパジャマを着ていた。

 すぐにそばに行ってもよかったが、名無しはひとまず、二人に見つからないギリギリの距離から傍観することにした。

声が聞こえてくる。「メールちゃん、大丈夫? 無理しなくていいんだよ?」

「へーきへーき、私が好きでやってるんだから気にしないで」

「でも……」

 少女はじわりと汗の浮かぶメールの腕を横目で見た。気になって仕方がないようだ。

 それに対してメールは屈託のない笑顔を見せた。

「私ね、今すっごく楽しいんだ。リリアーヌを出てからお姉ちゃんと名無しさん以外の人と話すことってあんまりなかったから。こうやって一緒にお散歩しながらお話しできるだけで私嬉しいんだ」

 嬉しい理由はそれだけではないだろう、と名無しは思った。メールは故郷のリリアーヌに友達こそいたものの、全員彼女よりもかなり年下で、五歳以上は離れていた。見た感じ車いすの少女は、年が三、四離れているみたいだが、それでも今までで一番年が近い人と話していることが何よりも嬉しいのだろう。

「じゃあリオナお姉ちゃん、これから何して遊ぼうか?」

 このまま顔を合わせずに仕事に行くのもいいと思ったが、このまま黙って病院を出ると、後で「名無しさんがいない!」と騒ぐような気がした。とりあえず一度は顔を見せたほうがいいだろう。

「元気そうだな」

「あ、名無しさん!」

 歩み寄る名無しに向かって、向こう側からも車イスを押して近づいてきた。

 名無しは車イス越しに右手を伸ばして、メールの額に触れた。熱は下がっているようだった。

「えっと、昨日は一緒にいてくれてありがとうございました」

「気にするな」

「これから仕事に行くんですか?」

「そうだ、お前はそこの子とおとなしくしてろ」

「もーそうやって子ども扱いしてー」メールは頬を膨らませた。

「十三歳は子どもだ」

 そういう仕草もな。名無しはそう思った。

「あのー……」

 名無しとメールは同時に声の主の方を向いた。少女の大きな瞳が名無しの顔を覗き込んでいた。

「ナナシさんって言うんですか?」

 イントネーションが少しおかしい。名無しを『名前がない』という意味の単語ではなく、そのままナナシという名前だと思っているようだ。

(まあ、名前なんてどうでもいい話だが)

「こいつはそう呼んでいるな」名無しはメールを指差す。

「いろいろとあなたの素敵なお話、メールちゃんから聞かせてもらいました。私はリオナっていいます」

 名無しは、メールが彼のことを勝手に話していたことに対して、顔をわずかにしかめながらメールを睨んだ。視線を感じたメールはそっぽを向いて口笛を吹く真似をした。吹けないので空しい空気音だけが聞こえる。

「これから手紙を届けに行くんですか?」リオナは訊いてきた。

「そうだ。夕方辺りに帰ってくるから、それまでこいつのこと頼めるか?」

 メールの頭の上にぽんと手を乗せる。口笛のような何かが途切れた。

「はい、大丈夫です。メールちゃんは任せてください」

「私、リオナお姉ちゃんと、ここで待ってます!」

 メールはリオナに後ろから抱きつきながら告げた。この短時間でメールはリオナにすっかり懐いているようだった。

 メールには悪いが、一人のほうが仕事ははかどる。二人だとどうしても歩調を合わせなくてはいけなくなるからだ。特にシルメリアは、リリアーヌやエルレ・ガーデンとは比較にならないほど広いので、当然仕事量も増える。だからメールを預かってくれるのは非常にありがたかった。

「いってらっしゃい、名無しさん!」

 メールは手を大きく振って見送った。リオナもそれに倣って小さく手を振ってきた。

 適当に応じながら名無しは病院の外へ向かった。


          *     *     *


 その日最後の手紙を配り終えたのは夕方を少し過ぎた頃だった。茜色の太陽が西に沈み、辺りは少しずつ暗くなってきている。

 名無しが病院へ帰ってきたとき、入り口ではメールが待っていた。その隣には車イスに座ったリオナと、車イスのハンドルを握る父親、そして女性が立っていた。おそらくリオナの母親だろう。

「退院!」名無しが目の前まで近づいてきたときの第一声はそれだった。

「そうか」

「もっと喜んでくれたっていいじゃないですか」反応に満足しなかったメールはむくれ、顔をそむけた。

「宿屋に行くぞ」

 メールを無視した名無しは、車イスにちょこんと座っていたリオナを見下ろした。

「今日は助かった」

「リオナお姉ちゃん! 今日は楽しかったよ、ありがとう! また遊ぼうね」

 メールは手袋をはめた名無しの手を握りながら、手を振った。

 メールと手をつなぎながら病院の外に向かって歩いていると、後ろから声が聞こえてきた。

「お母さんとお父さんは、今日いつまでいるの?」

「そうだな、リオナが望むなら面会時間ギリギリまで一緒にいるよ」

「ほんと? やった!」

「あらあら。じゃあ、私は晩ご飯を買ってきましょうか」

 年の割に大人びた印象のあるリオナだったが、家族と話すときの彼女は、年相応の女の子のようだった。

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