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月蝕  作者: 檸檬
3章 加護と加護
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虚構の世界に立つ夢幻16

 カナディル連合王国首都、とある城内、兵士の会話。


「ったくよぉー、折角ハイム子爵の件が片付いて来たってのに今度は帝国との戦争かよ……。休む暇もねぇな」

「元、だろ? それに誰かに聞かれたらヤバいしもう少し声を抑えろ。戦争だってまだ確定じゃないんだ。お前だけ怒られるなら構わないが、俺まで巻き込むな」

「悪い悪い、とはいえハイム元子爵って言えばあの一戦は凄かったらしいなぁ、あっという間に決着がついたって」

「クラウシュベルグ男爵か……、あまり宮廷内で名前を出さない方が良いぞ、余計な敵を作る」

「そーはいっても平民の星だぜ、あのヒトは。一商人から成り上がって下手すりゃ子爵かもしれねぇってんだろ? すげーよ」

「その分敵も多いみたいだけどな、俺は正直あんまり関わりたく無いね。ハイム元子爵の一族も皆殺しだったらしいし」

「……まじか?」

「公開処刑に必要な分は残していたみたいだけど、老若男女問わず、だ。元々あのクラウシュベルグ自治領は首都から離れてて国の権力が及び難い場所だったから豪族連中が力を持ってたんだ。それなりにヤバい連中もいただろうさ。それを纏めたメディチ家のご当主様がその程度、眉一つ動かさないでやるだろう。それにお前聞いた事有るか?」

「な、なんだよ」

「クラウシュベルグ男爵だって最初はクラウシュベルグを安定して治めていた訳じゃない。反対する者だって多かった、一人だけ上手くやって出世したんだ、そりゃ妬みも出るだろうさ。実際メディチ家の使用人が拉致されて人質にされた事もあったらしい。噂だけどな」

「そいつぁなんて言うか相手が無謀だな、皆殺しにでもされたのか?」

「まぁ、結果は、ね。けれどクラウシュベルグ男爵が恐ろしいのはそこじゃない。人質を目の前に出され、交渉の場に出た時クラウシュベルグ男爵は一つの袋を持ってきたそうだ。その中から出て来たのは何だと思う? 言うまでもないが金じゃないぞ」

「……」

「指だよ、指。クラウシュベルグ男爵は一つづつ指を目の前に並べて行きながら告げたそうだ。これは貴方の母親の、これは貴方の妹の、これは貴方の家の料理人の、こちらはその料理人の両親の、あぁ、使用人全員の家族の分もちゃんとありますよ。ってな」

「……、まじかよそれ……。やり過ぎだろ……」

「そしてにっこりと笑って告げたそうだ。相手の当主にじゃなくて回りの連中にだ。今からそいつを殺せば助けてあげましょうって」

「……そいつは……、なんというか」

「言うまでもなく、その場で回りに居た使用人に八つ裂きにされたそうだよ。……当主の後に傍に居た連中も全員クラウシュベルグ男爵の私兵に後で殺されたそうだが」

「……」

「知ってる連中は誰もクラウシュベルグ男爵に手を出しはしない、金も有る、力も有る、ハイム元子爵を潰せるだけの軍も持っている。危険視する者が多くて対抗勢力となってるけれど、実際彼が頭となっている場所は真っ当な統治がされている。身内、っていうか真っ当な連中は他の領土の数倍マシな生活出来るしな。けど正直、深くは関わらない方が身のためだ。一応目付役としてグリュエル辺境伯が傍に居る事だしな」

「あぁ、……そうするわ……」


 はぁ、と一つ兵士は深い溜め息を吐いた。命が軽いこの世界とはいえど、恐ろしい者は恐ろしい、関わりたく無い者は関わりたく無い。

 幸せすら逃げ出しそうなため息を付いた兵士、名をロイスというこの男がふと視線を映すと知り合いの侍女が居た。 

 ロイスからすれば侍女とは言えど、その女性はかなり上の立場であったが、気さくな性格が幸いしてか、気軽に話しかけられる程度には仲が良かった。とはいえど、隣に立つ同僚の視線はきつくなったが。


「っと、ありゃ、おーい、リシャさんじゃないか、なにしてるんですか?」

「あ、ロイスさん。えーっと……、なんか時間が余ってしまいまして……。おかしいな……」

「うん? ここ暫く一人でなんかやってると思ってたけど、めんどくさくなっちまったのか? いけねぇーなー城勤めがそれじゃ直に首になるぜ」

「……え? 一人で?」

「うん? お前ここ数週間この時間居なかっただろ。準備があるとか何とかで……、内容は教えられないって言ってたけれど、終わったのか?」

「……? 何の事?」

「……へ?」


 沈黙、怪訝な表情を浮かべる二人、答えは直ぐに出なかった。


 ○


 人生とはつねに選択の連続だ。

 繰り返される選択の先に求めるものが有るとは限らない。けれど、ヒトは選択しなければならない、そして今ルナリアは生と死、人形かヒトかの選択を強いられていた。


「刻印を……、消す、ですって……?」


 困惑の色を含んだその言葉がルナリア自身の耳に届き、それを理解するまで数秒要した。

 冗談でそのようなことを言う様な男ではない、いや、もしそうであったとしたら一瞬でも奇跡を見いだし、そして絶望の底に落とす手法としては最高の手だろう。小窓から見えるゆらゆらと揺れる以前渡した王家の紋章が入ったネックレスが忌々しくもルナリアの視線を誘導した。


「はい、その通りです」

「……ッ」


 下唇を噛んだ、縋りたい、縋り付きたいその言葉に。けれど――

 もはや、ルナリアは全てを決断出来る程強くは無かった。


「まぁ、消す、という言葉は少々語弊が有りますが。実際起点となっている部分は魔石を溶かし込んだ物を直接打ち込んでいますのでそれを綺麗に消すのは難しいでしょう。しかし、その概念は殺す事が出来ます。――ルナリア王女様が私を信用して頂ければ、ですが」


 ギシ、と小窓の枠が軋んだ。ルナリアの腕に力が入った為だろう。射殺さんばかりに睨みつけるルナリアの視線を胡散臭い笑みで返しながらルナリアを真っすぐと見つめる。


「その部屋に居れば安全、だがその安全を保障しているのは信用ならない王家の連中。かといってその刻印技術を盗んだと思われる私の指示に従ったとなれば、私に操られているのではないか、という疑念。そこは本当に安全なのか、私が言っている言葉を信じたとしても、信じなかったとしても、それは本当に自分の判断だったのか――」

「……うるさいッ!」


 部屋一杯に響く様な悲鳴の様な声にスオウは肩を竦めた。


「選んだとしてもそれは自分の意志ではなく、決めたとしてもそれは自分の思いではなく……、そう、全ては“誰か”の思惑通りに動いているだけではないのか……、自分は一体何なのか、自分は一体誰なのか、ゲシュタルト崩壊ですか、いや、少し違うか」

「黙れ……」

「……ヒトをヒト足らしめているのは一体何なのでしょうかねルナリア“王女様”、肉の体に包まれていればヒトなのでしょうか? 自分の意志すら奪われ、ただ都合のいい様に動かされるのは人形と何が違うというのか。エネルギー補給と排泄が必要な程度でしょうか? それがヒトである証なのでしょうか、ね?」

「黙れぇぇぇぇッ!」


 僅かに首を傾げたスオウの首元にルナリアの細腕が迫った。小窓から伸び出る様に出て来た腕はスオウの首を掴み、ギシギシと締め付ける。


「何をしに来たッ! 貴様は何をしに来た! 場を乱し、事を起こし、貴様は一体何をしに来たァッ! 殺されたいのかッ!」


 ぎりぎりと握りつぶさんとばかりに首を締め付けるその手の平、爪はぼろぼろで、ささくれ立った一部がスオウの首の皮を裂き、血か滲む。

 気道が押しつぶされ、僅かに苦し気な表情を浮かべたスオウはそのぼろぼろの手を掴み、そのまま手を包み込む様にしてルナリアにされるがままにした。


「貴様はッ、貴様はッ!」


 締め付ける力は依然として変わらず、締め上がる首はスオウの顔を赤からそしてやや蒼白へと変えて行く。

 場が動いたのはルナリアの体力の問題であった、悲鳴の様な叫び声は途中から咳き込みが混じり、ずるずるとずり落ちる様に崩れ、ぜぇぜぇと扉の先で荒い息づかいだけが聞こえてくる。それと同時に手もスオウの首から離れて行った。


「げほっ、ごほっ、ごほっ……」


 赤く、くっきりと手の跡が付いてしまった首を撫でたスオウは一頻りむせた後、扉の向こう側で崩れ落ちているルナリアへと話しかけた。


「結局の所、信じてくれ、と言った所で無駄にしかなりません。その信じれる材料が、根本的な所が何も無いのですから。王女様、ですから選んで下さい、簡単な話です、私に操られるか、今まで通り国に操られるか」


 部屋の中で踞っていたルナリアは声にならぬ嗚咽を漏らした。もう限界だった、もう無理だった。

 何故だ、せめて一言、信じてくれと言ってくれればそれだけでよかったのに、それだけで良かったのに。そんな甘えすら許してくれないというのか。だがもう一方でスオウの言っている事も理解していた。


 甘い言葉で囁いて、希望を伝え、縋り付いた相手を思う通りに動かすのと何が違うのか。それは操られ自分の意志等無いという事と相違無いのだ。

 殺してやる、とルナリアは呟いた。この世全てが憎かった。


「もう……、嫌だ……」


 ぼそり、と呟かれた言葉は産まれて来て初めて出て来た弱音であった。僅かに目を見開いたスオウ、そして直に眉を顰め、ルナリアに聞こえない様に一つ偽善の言葉を吐いた後、告げた。


「望む様に伝えましょうか? 助けて上げます、これからずっと貴方を守ってあげます、安全で幸せな場所を提供します。まぁ、現実国外逃亡も含めれば出来ないとは言いませんが……」

「……殺してやる」


 口の端から漏れ出た言葉は殺意の篭った怨念であった。自分の弱さをこれでもかと指摘したスオウの言葉はルナリアにとって最悪でしかなかった。しかし、スオウの言葉は止まる事は無い。


「ルナリア“王女様”、一緒ですよ、きっと何もかも変わらない。策を巡らせ、思う様に誰かを動かす事と、刻印によって意思を奪われ、都合のいい様に動かされるのも、きっと“動かされる側”としては何も変わらない。では、動かされる側がどうすれば言いかと言えば、知識を付けるしか無いでしょう。いつの時代も知恵の無い者は食われ、奪われ、搾取される。無知は罪とは良く言った物ですが、私としては無知を知りながらもそう居続ける事が罪だと思っています」

「……何が、言いたいのかしら」

「信用出来ないのでしたら簡単です、信用出来るだけの知識と情報と資料をお渡ししますよ。確かにルナリア王女様本人の意思であるという事を、刻印が間違いなく機能していない、という事が証明出来るだけの知識を」

「……笑わせないで欲しいわ……、その情報そのものが本物であるという証拠は何処にあるというのよ。そしてそれが本当である、と信じ込まされる様に操作されていないと誰が示してくれるのよ」

「それすら覆せる程知識を付けて頂くしか有りませんね」


 答えは辛辣であった。ルナリアは乾いた笑い声を上げた。


「最初に信じてくれと言ってくれれば良かったのに……。少しくらい……、甘えさせてくれたって……」


 かすれた声はスオウには届かない。けれどルナリアには、自分自身には届いた。

 ぐぃ、と拭った涙。ルナリアの目には淀んだ狂気の光が漂っていた。


 僅かな沈黙の後、押し殺した様な声がルナリアから上がった。


「聞きたい事が、あるわ……。学院で殺したのは必然かしら……? アルフロッドかリリスを拘束する為に」

「さて、どうでしょうか」

「どちらかが学院に残ればもう一人は必然的に帝国側への牽制へと動かなくてはいけない。まさに王城はもぬけの殻、ね。即ち加護持ちさえ居なければどうにでもなる、という事かしら」

「ご想像にお任せ致します」

「近衛兵が周囲を守り、挙げ句に王城の結界まですり抜けてここに来ている時点で、普通じゃない。そんな事、“ゴドラウ”ですら難しい。ねぇ、スオウ貴方、“加護持ち”なの?」


 “そんな事”が出来る存在など、想像するに容易い。しかしながら後天的に加護持ちになった者は居ない。であるならば、目の前の男は一体何だというのか。

 問われた言葉にスオウは皮肉気に口角を上げただけで答えは返さなかった。

 そしてスオウの後ろがゆらり、と動き、そこには“漆黒”の髪と“紅目”の女性、フィーア・ルージュが立っていた。


「王族の地下通路を使わせて頂きました、ゴドラウ師長から聞きまして」

「……ッ」


 言葉と同時にパキン、と音がした。部屋の錠が外れた音だ。入念に入念を重ねた魔術を用いられた鍵とは言えど、フィーア・ルージュの前には紙切れよりも脆い存在に過ぎない。ゆっくりと開いて行く扉、ルナリアは1ヶ月ぶりに侍女ではない者を部屋の中へと招き入れた。


「フィーア……、ルージュ……」


 入って来た銀の少女を見てぽつりと呟いたルナリアの声。髪は染めた為だろう銀では無く漆黒であったが、その顔を忘れる筈も無い。

 部屋の中に佇んでいたルナリアの様相は酷いものだった。毎日侍女に清められているとはいえど、半場監禁されている様な状況で健康的な姿を保つ事は難しい。ほつれた髪、やつれた頬、艶のあった髪はくすみ、白魚の様だった指はささくれて見るに耐えない。


 ハ、とルナリアは薄く笑った。フィーア・ルージュの様相は以前見た様な機械的な表情はそのままであったが、その姿はまさに人形であったからだ。操り人形を一人抱えた男が操り人形である自分を解放しようと嘯く、それを信じろという方が難しい。そんな状況が滑稽だとルナリアは嗤ったのだ。


「θγ」


 ぽつり、とスオウが呟くと同時にルナリアが淡い光に包まれた。

 所詮気休めにしか過ぎない、けれどささくれた指は暖かな温もりに包まれ、ささくれた皮が少しづつ癒えて行く。ルナリアは癇癪を起こしそうになるのを必死に耐えていた。同時に泣きそうになるのも必死に耐えていた。そしてようやく出て来たのは何の意味も無いただの感想だった。


「治癒魔術……、短縮詠唱ショートスペル禁忌魔術ロストマジック、その年齢で……、化け物ね……」

「ルナリア“女王陛下”の部下としてこれ以上無い褒め言葉として受け取っておきます。さて、時間もそれほど無いので取り急ぎ、刻印の繋がりを殺させてもらいます。フィーア、やれ」

「御意」


 スオウの言葉に応える様に軽く頭を下げたフィーア・ルージュはその色白の肌をルナリアの背中、その中央に添えた。

 同時にスオウがルナリアの正面に立ち、そして目の前に布でくるまれた木の棒を差し出した。


「何かしらこれは」

「噛んで頂けますか、かなりの激痛が伴うそうですので」

「……聞いていないのだけれど」

「アイリーン・レイトラのお墨付きですよ王女様」

「……コンフェデルスで行方不明になっていた魔工学の先駆者がなんで貴方の所に居るのかしら」

「攫ってきました」

「目撃者は?」

「皆殺しです」

「なるほど、あれはそう言う事だったのね。……そう、わかったわ。やって頂戴」


 ふ、と笑みを浮かべたルナリアはスオウから布でくるまれた木の棒を口に噛んだ。

 ぎり、と目を瞑り、くるであろう激痛に耐えるべく、ベットへと移動しようと思ったらスオウに腕を掴まれた。


「?」

「ご無礼をお許しください。――こちらへ」


 声と同時にルナリアは抱きしめられる様にして顔をスオウの肩へ乗せさせられた。既に体力の落ち込んでいたルナリアであったため、抵抗する気も起きずされるがままだ。口にくわえていた木の棒を外し、ルナリアはからかう様に薄く笑い告げる。


「あら、珍しく積極的じゃないスオウ。ようやく私の魅力に気が付いたのかしら」

「調子が戻って来て何よりです。治癒魔術を掛けながら同時に私から魔素の配給も行ないます、この後直ぐに行動しなくてはならないので、このまま何もせずに普通にやれば2、3日は動けなくなりますのでご了承ください」

「そ、じゃあ宜しく頼むわ」


 そしてルナリアは来る激痛に耐える様に目を瞑った。

 背中に触れる手、激痛は直ぐにやって来た。背中を皮ごとべりべりと剥がす様な痛み、耳元に有るスオウの口から漏れる言葉は短縮詠唱の魔術だろう。激痛のためその声すら遠くに聞こえるが同時に行なわれる治癒魔術によって意識を失う事すら出来ない。一体何の拷問だと言うのか。背中に熱した鉄棒を突き刺され、それで強引に肉を剥ぎ取る様な痛み。痛みから逃れる様に腕は暴れ、歯は噛み締められ、そして手近にあったスオウの背中に爪を突き立てる。


「ッッ――ギッ――ッッ!」


 ミシミシと歯に挟んだ棒が悲鳴をあげて限界まで目が見開かれた。ぶわり、と全身から立ち上がる黒い陽炎、ルナリアは気が付いていないがそのスオウの背中へと突き刺した手、その腕に刻まれている刻印がうごめき、そしてすぅ、と消えて行った。まるで元から何も無かったかの様に。けれどその痛みはまだ続く。じりじりと骨が焼かれる様な痛み、臓腑が焼かれ、心臓が取り出される様な恐怖。


「ぁッ――! ィ――ッッ!」


 ミシミシと音が鳴る程にルナリアはスオウを抱きついた、いや、締め上げた。それでもスオウの口から漏れる短縮詠唱の言葉には何の揺らぎすら感じられない。1ヶ月における監禁生活においてルナリアはやつれ見窄らしくなっているとはいえど、それでも一般的な観点から見れば絶世の美女だ。そんな美女に抱きつかれ、更に言うならば今刻印を直接いじる為だろう、ルナリアの背中ははだけている。服だってそんなに厚着という訳ではない。そんな状態で抱きつかれているのに眉一つ動かさないスオウの顔にどこか苛立ちを感じつつ、ルナリアは冷や汗と激痛による涙と、噛み締めすぎて僅かに切れた唇からの血を感じながら苦笑した。そして直ぐに激痛で歪んだ。


 時間にしては凡そ10分程であった。ルナリアにとってはその時間は数時間にも感じられたが。

 ずるずるとずり落ちる様にスオウの体から剥がれ、地面へとへたり込んでしまった。ぜぇぜぇと荒い息づかいだけが聞こえる。数刻して漸く息を整えたルナリアはぐったりとした体勢はそのままでゆっくりと顔を上げた。そしてその視界、ぼやけた視界の端に映った自分の腕を見て、ルナリアは目を見開いた。


「あ……、あぁぁぁぁああぁぁッ!」


 そこには何も無かった、呪われた証が、刻印の証拠が、全ての元凶が、死の恐怖が何も無かった。


「背中の中心点である刻印は消えておりませんので、失礼かと思いましたが焼かせて頂きました」


 スオウの言葉通りルナリアは見る事は出来ないが、ルナリアの背中、刻印の中心点は酷い火傷の傷で覆われていた。女性の肌にそのような真似をする事自体とても褒められたものではない、だがしかし、ルナリアにとっては刻印が無いというだけ、それだけでこれ以上無い喜びであった。


「いい、わ、別に、構わない、わ……」


 全身を覆う倦怠感、未だ残る背中の鈍痛。それを忘れる程一心不乱にルナリアは自分の体を見ていた。

 袖を捲り、腹を捲り、スカートを上げ、ぺたぺたと自分の肌を一心不乱に触っていた。そして一頻り見終わった後、「はは」と笑った。


 それはまるで脱力したかの様な声だった。喜びの声とはまた違ったその声はどこか空虚な物を感じさせる物であり、そしてルナリアもまた虚空をただぼぅ、と見つめる様にして項垂れていた。


「あっさりと……、本当に、取れるのね……」


 それはどこか諦めの混じった声だった。スオウは僅かに眉を顰め、ルナリアの次の言葉を待つ。


「この10年間、別に何もしなかった訳じゃないわ。それなりに、私なりに調べたわ、勿論、操られていたため知る事が無かった、という可能性が無い訳じゃないけれど」


 そう言ってルナリアは目を瞑った。これすらもあるいは夢かもしれない、これすらもあるいは幻想かもしれない。自分が刻印が見えない、という暗示にかかっているだけかもしれない。けれど、実際に自分の体に刻印が無いという事を見て、ルナリアはそれでもいい、と思った。そう思わされているという可能性が無い訳でもない、けれど今はこの思いに包まれていたかった。


「呪刻印は正直現在のカナディル連合王国の魔術技術レベルでは実現出来る筈の無い技術です。調べたアイリーンも同様に答えていましたがね。カナディル連合王国では歴史書を紐解けば一目瞭然では有りますが、加護持ちの王は建国当初から“居ません”。加護持ちが何人も長い歴史の中で産まれていますが、一人として居ません。それはおかしい。恐らくこの技術は建国当初からあった。あるいは建国して直ぐ、か。それとも、この技術があるからこそ、建国したのか……。まぁ、謎解きは後にしておいて、ここから出るとしましょうか姫様」


 そう言ってスオウは踞るルナリアに跪き、手を差し伸べた。ややはだけていた肩を上げ、ルナリアはスオウの手を取った。


「王族の誘拐は死罪よ? 一族郎党全てに置いて」

「おや、姫様。フィーア・ルージュにリリス王女二人抱えておいて現在王城にアルフロッドは居ない。誰の発言が“正しく”なりますか?」

「酷い男ね、面倒事は私に全て丸投げかしら」

「それがお仕事です“陛下”」

「最初の仕事は貴方の死刑執行から始めるとするわ」


 ふん、と鼻を鳴らしたルナリアにスオウは肩を竦めて返した。変わらず暗い色を宿したルナリアの瞳に気が付かない振りをして。


 ○


 10日前 クラウシュベルグ領。

 大きなテーブルの上、埋め尽くされる様に置かれているのは大きな1枚の魔術刻印が描かれた洋紙。

 綿密に描かれたソレは言うまでもなくルナリア王女の体に描かれている物と同様だった。


 険しい顔をしながらそれを睨む様に見、ぶつぶつと呟く女性は白髪の女性、アイリーン・レイトラだ。


「私の専門は魔工学なんだけれど……」

「文句を言っている暇があれば仕事をしろ」


 文句を言ったと同時に返って来たのは声は幼さが残るが、その視線はヒト一人軽く殺しかねない程物騒な表情を浮かべたスオウ・フォールスであった。仕える相手、もとい攫われる相手を間違えたかもしれない、ともう何度思ったか解らない事を考えながらアイリーンは別の机の上に積上っている古書を見て諦めにも似た溜め息を吐いた。


「しかし、刻印の制御が青月、だと……? 加護持ちと同等の存在に? いや、加護持ちに刻む事を念頭においている以上青月に干渉できなければならないという事か。国王の思考、ゴドラウの記憶から考えればやはりルナリアに刻んだというのは例外中の例外と言うべきか」

「……何の事を……?」

「お前には関係のない話だ」


 スオウの突き放す様な言葉にアイリーンは眉を顰めた。


「それで、可能なのか?」

「……貴方が持って来た古書の内容と、貴方が言っていた事が正しいのであれば起点となった刻印以外はどうとでもなるわ。フィーア・ルージュに手伝ってもらえればより確実でしょう」


 そう言ってアイリーンは部屋の隅にひっそりと佇むフィーア・ルージュを見て表情を歪めた。ヒトの意思を奪うその行為に自身もまた奪われていた過去を持つため、とてもではないが良い感情が浮かぶ筈も無い。使えば、ではなく、手伝って、という言葉を使う点にもその思いが現れている。


「恐らくフィーア・ルージュに刻んだときの様な方法が正しいのでしょうけれど、貴方の推測通り、青月の影響を受けていない私たちでは刻印を直接体に刻まないと認識されない、と言う事かしら」

「その直接刻まれた刻印だけが残るという事だな。しかたがない焼くとするか」

「背中一面よ!? 正気なの!?」

「見えなくなる方が大切だろうさ、思考誘導が無くなった今、自殺しないかそっちの方が心配だ他の案を考えている余裕は無い」

「女性よ!? 女性の肌にそんな傷を!」

「お前はわかっていないな。自分の意志が自分ではないのではないかという恐怖を、自分という存在が本当に自分であるのか、という恐怖を。まぁ、俺が言っても説得力は無いが……」

「何の、事を……」

「まぁいい、それで? 文句が有るなら後1日やるぞ、そして代案を出せ」

「……ッ」


 ギッ、とスオウを睨んだアイリーンだが、固く目を瞑り、重々しく首を横に振った。

 その答えにスオウは鼻で笑い、話を変える。


「それと言っていた物は用意出来たか?」

「……」

「出来たかと聞いている」

「……外道ッ」


 アイリーンは忌々し気に吐き捨てた後ポケットに入っていた一つの魔道具をスオウへと投げつけた。

 それを危なげなく手にしたスオウは一瞥して説明をアイリーンに求める。


「……魔素を流し込めば自動で起動するわ……。後はコレを飲ませれば大丈夫、痛み止めとでも言えば良い」


 それはスオウが持ち込んだ、いやカナディル連合王国の秘奥、他者を操る技術、それを魔道具へと流用した技術であった。


「ふぅん、思ったより小さいんだな。というより出来るとは思わなかった」

「言っておくけど長時間は無理よ。それに常時傍に居る必要が有る」

「まぁいいさ、最初に植え付けさえしておけば構わない」

「……ッ」


 ギリ、とアイリーンは歯を食いしばった。それを見たスオウは片眉を上げ、告げる。


「会った事も無い他者の心配が出来る程に余裕ができた事は何よりだ。だがアイリーン、君は自分が大切だと思える存在の幸せを第一に考えておけば良い。子供達が笑顔で居られるこの環境を捨てたくは無いだろう? まぁ、その感情は正しいし間違っていない、褒められるべき事で責められるべき事ではないと思うよ」

「そこまで解っていながら何故貴方は……ッ!」

「それを答える必要は無いな」


 そう言ってスオウはヒラリ、と手を振って部屋を出て行った。

 同時にアイリーンは机の上に積み立てられていた本を乱暴に払う。バサバサと激しい音と共に地面へと本が落ち、そして虚しさだけが後に残った。


 そして時間は戻る。


 城外、忌々し気な表情で礼を述べて来たニールロッドに返事を返し、スオウはルナリアとニールロッドが何事かを話し込んでいる他所でフィーア・ルージュを傍に置き、ぼんやりとそれを眺めていた。ルナリアは既に着替えており、それこそ初めて、と言っても良い腕の開けた服を着ていた。勿論背中は開けていないが。


 ぽん、とスオウは一つの宝石を片手で放りながら呟いた。


「甘さか、いや、これはスオウの感情か……。アイリーンには無駄な仕事をさせたか? 恩を着せる事で十分だと判断したか?」


 宙に浮かび薄暗い暗闇の中でも魔術の光を反射し、妖艶に煌めいた宝石。スオウの手の平に戻り、そして同時に魔方陣が発生すると一瞬で手の平から消えて行った。

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