虚構の世界に立つ夢幻9
ぽつ、と雫が頬に落ちたのをスゥイは感じた。
――辺りには誰もいない、避難は完了し、残っているのは数名の教師と宮廷魔術師の部隊、そして数名の傭兵。
見上げれば先ほどの晴れ晴れとした空はいづこに消えて、今は曇天が空を覆っている。
まるで今から起る事を象徴しているかの様な泣き顔で、その様相に僅かに頬が緩んだ。
――故に、ここには誰もいない。
湿気によってやや重みが増し額に張り付いた髪を上から撫で付ける様にして顔を撫でる。
ぞくぞくとした感覚が全身を覆い、はぁ、と一つため息を付いた。
――スリルが快楽へと変わりつつある。
スオウのせいだ、とスゥイは呟いた。
戦場の気配が近づいている、血の匂いが近づいている。
コンフェデルスでスオウにあってから数年、気が付けばここまで来ていた。
使われる存在である事には変わらない、だが、使う存在でもある今のこの状態に不満などあるはずもない。
踊り、踊らされ、そして最後には何が待つのか。
スゥイは一つの建物に入って行った。いつも通りの静寂が広がるその場所、ただ違いは意識的に静かであるのではなく、物理的に音を発するものが居ないという違い。
大量の蔵書が置かれている本棚の間を縫う様に歩き、そして目的の場所へと着く。
目の前には自身の二倍はあろうかと思える扉。その扉の前でスゥイはポケットから一つの掌サイズもあろうかと思える古ぼけた鍵を取り出し、鍵穴へと差し込んだ。
ガキリ、と音が響いた。
開けた錠が何の抵抗も無く、地面へと落ちる。
それをやや薄らと笑みを浮かべてみた後にスゥイはその扉の隙間に一つの刻印が刻まれた金盤を差し込んだ。
バチリ、と一際激しい閃光が目を焼く。その刺激に目を細めるが、手は止まらない。
ぶすぶすと煙を上げて半場溶けてしまった金盤を無造作に地面へと放り、次は2枚の金盤を取り出し先ほど差し込んだ場所とは別の場所にゆっくりと差し込む。そして直に手を離す、と、同時に金盤は真っ赤に赤く染まりどろどろと溶けて行った。じゅぅ、と床を焦がし、煙を上げた金盤であった物を見た後スゥイは扉を開いた。今度は何も起きず、歓迎するかの様に開いた扉、するり、とスゥイは隙間から中へと入った。
パタン、と扉は閉められた。
「次は……」
扉が閉められた事により辺りは真っ暗であり、数メートル先を見る事も出来ない。
ぶつぶつとスゥイが短縮詠唱を唱え、掌の上に光源が出現する。同時に明るくなる周囲、床は石畳、壁も石造り、等間隔にロウソクの燭台が設けられている。
スゥイはそのロウソクに火をつける事無く暗闇の先へと進んだ。
一定間隔ごとに今度は薄く伸ばした細長い銀の棒、いや針を石と石の隙間に刺して歩く、数十メートル歩いた所でスゥイは立ち止まり、後ろを確認しながら歩く、そして数個目の針を刺し後ろを見た時に異変があった。
そこには刺した筈の針が消えていた、その状況にスゥイは眉を顰め、その場に針を差し込み、数歩戻った。どうやら感覚を狂わせる幻影魔術だ、気が付かぬ間に曲がり通路へと歩かされていたらしい。気が付かねば一生この場所を回り続けた事だろう。
一個前の針へと戻ったスゥイは再度先へと進む。
そうして暫くしたら地下へと下りる階段があった。
「見つけた」
ふ、とスゥイは安心するかの様に笑った。場所は学院の図書館、その最深部であった。
所謂、禁書エリアである。ざらり、と地下へと下りる階段を撫でる。
「逆式に置ける連立利用の高位接触型反応魔術、さらに結界魔術の変則を流用して重ねがけ……。スオウなら1時間、といった所。けれど30分で解術す」
最後の防壁の前。
つ、とスゥイは唇を指先で撫でた。
○
死地
死ぬべき場所、死に場所を指す。あるいは生きて帰る事が絶望的な状況、状態。窮地の事。
死の空気を感じた事はあるだろうか? 普通は無いだろう。平穏無事な生活を営む事で味わう事がある筈も無い空気だ。つまりそれは戦場の空気でもあるのだが、戦場、戦争は普通数百人や数千人規模で行なわれるのが普通だ、それが常識だ。しかしそんな常識を鼻で笑う存在が今この場で三人も揃っていた。
たった三人で戦場と化す、バケモノ共の時間。
しかしその中で一際その死の雰囲気を醸し出している銀、アルフロッドも、そしてリリスも、自分達の中央へと飛来したその銀から目を離す事が出来なかった。
土埃が晴れるにつれ、ゆっくりと銀が立ち上がる。
それはまるで一つの彫像の様だった。ルナリアが冷酷さは有れど、太陽の様な美しさを持つとすれば、目の前の存在は機械で出来た月の様な美しさだ。さらさらとした銀の髪、色素の薄い肌に血の様な赤い目、アルビノだ。
アルビノは遺伝子疾患による突然変異だ、生存率が低く、日光に弱かったり、視力が極端に低かったりする。
だがしかし今目の前に存在している女性にその様相は見受けられない、ただ、ただ、そう、死神がいるかの様な絶対的な死を感じるのだ。
「標的確認」
ぎょろり、と目が動き、銀はリリスへと標準を定めた。
もはや疑いも無く敵である、そして同類である。
「貴様、土足で我が国に侵入して無事に帰られると思うなよ」
ギチ、と握りしめた拳、告げた言葉は向けられた視線から自身を奮起する意味もあった。
殺意すら感じないというのにこの異様な気配、それに呑まれまいとする意思だ。
「殲滅開始」
告げた言葉、ゆらり、と女性、フィーア・ルージュの体が動き、一拍の後リリスの眼前に現れた。
「――な、に!?」
振り下ろされる剣は何の変哲も無いただの剣、だがしかし、その剣にリリスは背筋が凍る様な薄ら寒い印象を受け受けようとせずに”逃げた”。
バチリ、と閃光がなると同時に掻き消えるリリス。数メートル離れた先でリリスは思わず片膝を着き、息を吐いた。
気が付けば掌にびっしりと汗をかいていた。
「馬鹿な、私が見失うだと……!」
「回避確認、対象能力上方修正、……修正完了殲滅再開」
「ちぃ」
ぎょろり、と動いた目から逃げる様にリリスは再度移動した。全力の移動だ、移動した瞬間その場に銀の少女は現れ、剣を振り下ろす。
「(馬鹿な、どんな速度だ。恐らくアレは死滅のフィーア・ルージュ、速度において死滅が迅雷を上回るなど聞いた事が無いッ!)」
バチン、と雷光が走る。白い閃光が空中を走り、瞬きの後にリリスがまた別の場所へと現れる。
「アルフロッド! なにをぼさっとしているッ、逃げろ! 貴様では荷が重い!」
声と同時に一閃、横薙ぎに払われた剣をリリスは再度避けた。
「(まただッ、どうなっている。まるで距離が無いかの様に……、高速で移動? ありえない、この私が見えない程など、転移魔術? いや、そんな小賢しい真似をするタイプではなさそうだ、――まさかこいつ……!)」
ハッ、としたかの様にリリスは地面を見た。そこに“踏みしめた”草は存在しておらず、そして先ほどまで銀の女性が立っていた場所の草は、”等加重”で潰れており、”踏み抜いた跡”が無かった。
移動するにしても必須である、重心の移動が無かったのだ。
「死滅……、貴様、まさか距離を”殺して”いるとでも言うのか!」
「再回避確認、距離補正完了、――殲滅」
こんどは振りかぶる手前では無かった。振りかぶった後でリリスの前へと現れた。
――雷化? 無理だ、防げない。
――避ける? 駄目だ、間に合わない。
死ねない、死ねる訳が無い、姉上を残して死ねる訳が無いのだ。
私が死ねば姉上はどうなる、この女は誰が止める、誰が止めるというのだ。
――認め、られるかッ。
しかし現実は変わらない。
そして振り抜かれた剣、半分に切られたリリス。そのまま死ぬかと思われた。
だがしかし、数拍後バチリ、と閃光が鳴り、リリスは無傷のままその場に立っていた。
「何、が……?」
死滅であれば、予想ではあるが、雷化していようが問答無用で殺す事が出来る筈だった。だがしかし何故かリリスを切った剣は普通の鉄の剣であった。まるで別の存在に加護が使われたかの様に。
その答えは直ぐに帰って来た。
「はぁっ、はぁっ、で、出来た……! くそ、膜ごと切り裂くなんて冗談じゃねぇぞ」
そこには膝をついて汗を垂らすアルフロッドが居た。
目を見開くリリス、そこから何が起ったかは想像がつく、だがしかしリリスは感謝より先に怒声が口から出て来た。
「何をしている逃げろと言ったであろう!」
「巫山戯んな、誰が逃げるか! お前を置いて逃げられるか! もう嫌なんだ、目の前で誰かが死ぬのはもう嫌なんだ!」
「馬鹿が、――来るぞ!」
舌打ち、一瞬で距離を取る。この男は、との悪態をつく暇もなく、同時にリリスとアルフロッドが淡い膜に覆われる。
リリスを殺せなかった事が不思議なのだろうか、何度か首をひねっていたフィーアは、ぎょろり、と目を動かし、今度は”二人”を標的にした。
ここに来て初めてフィーアは剣を構えた、いや、掲げた。
「虚構の世界を殺す者」
告げた言葉。そして剣の腹を見せるかの様に、掲げたフィーア。
漆黒が剣を染める。どす黒く、怨念と殺意を捩じ込めたよりも更により醜悪なナニカ。ざわざわとうごめき、まるで生きているかの様に剣に捩じ込まれた”死滅”が姿を現した。
そしてフィーアはぐるり、と剣を水平に持ち直し――
「――ッ! 跳べ!」
水平に切り払った。同時に飛んだ黒い漆黒の悪意。
リリスの声に従い飛び跳ねたアルフロッド、その驚異的な身体能力によって上空へと舞い上がったその下に広がる視界の光景は、直ぐに受け入れられる物ではなかった。
そこは地獄だった。不幸にも強化された聴力と視力で聞こえ、見えたのは、悲鳴だった、血潮だった。数百メートルにも及ぶ場所が全て半月を描く様に刈り取られ、後方に控えていたであろうセレスタン辺境伯の部下が一部、胴体が別れて息絶えていた。いや、ただ触れただけの者も、息絶えていた。
「う……、ぷ……」
胃液が逆流する様な感覚にアルフロッドは捕われた。
だがしかしそんな暇は与えてくれない、吐き気を催していたアルフロッドは横から強烈な衝撃を受け、吹き飛ばされたのだ。
その一拍後に今度は水平ではなく垂直に剣が振り下ろされ、地面に漆黒の“死滅”がうごめき亀裂が走る。
地が裂け、まるで地割れの様に暗く深い黒い線が地面に走った。
「なにをぼさっとしている! 死にたいのか!」
「ぐ、ッ」
蹴り飛ばしたのはリリスだった。アルフロッドは吐き気を押し殺した。そんな状況ではなかった、そんな場合ではなかった。
睨み上げる様に目の前で暴威を振るう銀の女性を睨みつけ、剣を握る。
「この場所ではまずい! 被害が拡大する、移動するぞ!」
「あ、あぁ、わかって、るッ!」
再度振り払われた黒い剣戟を躱し、アルフロッドは全力で駆け出した。
「どうする?」
「一撃なら耐えられる、はずだ。俺の膜で、そこでアンタが一撃いれれば」
「先ほどは偶々そう”認識”していなかっただけかもしれんぞ、それにアレは何かが違う、リスクが高すぎる!」
「じゃぁどうしろってんだ、逃げたままじゃ倒せねぇだろうが!」
「魔素の欠乏を待つ手も有る」
「馬鹿言うな! 先にこっちが無くなっちまう!」
リリスも自分で言っておいてなんだが、あまり現実ではない方法だとは思っていた。
元々模擬戦を行なっていたのだ、いくら本気ではなかったとはいえど、今ついさっき来た死滅に比べて保有量が少ないのは明白だ。
そもそもが階級的な観点から見ても目の前の死滅の方が大きいのだから。
「右に跳べ!」
バチ、と鳴るリリス。声と同時に全力で飛ぶアルフロッド。剣戟が通る。
それは幸運にも先ほど見せられた漆黒のおぞましき悪意では無かった。舞う様に空中で実態を取り戻したリリスは構える間もなく、一撃を放った。
「調子に、のるな!」
振り抜いた後の隙を狙い、雷撃がフィーアへと走る。
だが、その攻撃が来るのがわかっていたかの様に自身の前で剣をぐるり、と回し、雷撃を受け、”殺し”た。
「予想済みだ!」
再度震われる腕。
ヒトを蒸発させる程の熱量を持った閃光が複数、フィーアへと迫る。
しかし閃光が焼いたのはフィーアではなく、フィーアが居た地面だった。焼ける音が耳に届く前にリリスは移動する。
バチリ、と鳴った僅かな残光の後にフィーアが現れ、剣を振るう。振り払った剣の後には一拍遅れて空間すらも切り払ったかの様な残心が残り、遠方に生えていた木がずるり、と綺麗に切れて倒れる。
「(一度目は受けた、二度目は躱した。それは連続で殺す事が出来ないという事か? それとも攻撃に転じる為に偶然避ける様になったのか? どちらだ)」
どちらかは未だ不明だ。高速で転移しながら思考を巡らせる。
「ならば……」
バチバチと紫電が走る、ざわり、と地面が振動した。
黒い粒が宙へと浮かび、塊となって武器と成る。
「群体ならばどうだ!」
砂鉄の塊が高速で回転してフィーアへと向かう、同時に細かい粒が周囲を覆い、小さな小さな飛礫と成る。
周囲を覆う砂鉄の軍、物理的な壁ともなりてフィーアを襲う。
「(距離を殺すか? 空間を殺しているのか? そうであるならばその空間が消えるのならば、大気の流動があるはずだ。砂の動きがある筈だ。動かなければそれで良い、死は一つに与えられるのか? そうではないのか?)」
一瞬も見逃さない、とばかりに目を凝らすリリス。
そしてその時はやって来た、フィーアへと攻撃が着弾する寸前、自分とフィーアの間の砂鉄が消え失せた。
ずるり、と宙を舞う飛礫がそれに引きずられる様に動き、瞬間フィーアが出現する。
「くッ」
予想は当たっていた。ギリギリで躱した剣、そしてリリスは転移する。
しかし、同時に疑問が発生した。空間を殺せるのであれば、リリスを取り込み一緒に殺してしませばいい、あるいは、リリスを引き込み隙を作れば良い、それが出来ないのは理由があるのか? 遊んでいる様子は見受けられない、考えられるのは射程距離か。
リリスの考えは一部に関してはあながち間違っては居なかった、しかしフィーアはそれを出来なかった。能力的な問題ではない、思考回路の問題だ。
つまり、その程度の思考が出来ないという事だ。
それが出来ていれば絶望的だったかもしれない、初撃でリリスはあっさりと殺され、アルフロッドはなす術も無く死に、全ては終わっていたかもしれない。だが、所詮は仮定の話。リリスは生きているし、アルフロッドも生存している。
「(殺せるのは”一瞬”か、”一つ”か、複数なのか)」
リリスは賭けに出た。とはいえ勝算がなかった訳ではない。
「アルフロッド」
リリスはやや離れた場所で肩で息をしているアルフロッドに声をかけた。
魔素の消耗もそうだろうが、命が脅かされる状態というのを初めて味わったのだろう、緊張から来る疲労、それは容易く体力を奪い取る。
額を流れる汗がそれをより顕著に表し、握りしめられた剣の柄がその事実を訴えていた。
「なんだ?」
だがそれを口に出さないのは褒めるべき所だろう。生憎とリリスも余裕が無いためそんな事に思い至らないが、年齢を鑑みれば、十分に褒めるべき内容だ。いや、そもそもが子供二人に全てを任せている時点で異常なのだが。
「貴様、一撃は耐えられると言っていたな?」
「さっきアンタが否定しただろうよ」
「そうだ、だが貴様が攻撃を食らう役でないのならば考えは有る」
「なんだって?」
「球体状の膜から内部に居る肉体まで攻撃が届くのに若干の猶予がある」
「はぁ!? ふっざけんな! あの速度見てなかったのかよ、破られてからの猶予なんて1秒にすら満たないぞ!」
「問題ない、最初から破られる事がわかっているのならば、可能だ」
リリスの最高速度は光速にほぼ近い。
移動中は異常速度による過剰な情報量を制御出来ない為に、リリスにとっても瞬間移動した様に見えてしまうのが難点ではあるが、流石に光速で移動しているときも状況が把握出来ているとなると時を止めているに等しい。さすがにリリスもそこまで反則ではなかった。
「ふざけんな、そんな博打「生憎と話し合っている時間はない、黙って、見ていろ!」ま、待てよ!」
言葉と同時にリリスは地面に雷撃を放つ。舞い上がる粉塵。
そしてまたフィーアが消えた。
巻き上げた粉塵がフィーアの軌跡を一瞬だが映し、場所を予測する。コンマ数秒の間、リリスはアルフロッドが張った膜の中でその軌跡の最後を睨みつける様に見、そしてフィーアが出現する。
無表情の顔、こちらを確認するかの様にゆっくりと動く目、振り下ろされる剣。
「(成る程、”そう言う事か”)」
膜と剣が衝突し、一瞬でアルフロッドの加護が死に、剣がリリスへと迫る。
リリスは全力で離脱を、しなかった。振り下される剣に向かって膜と同じ位置に張っていた紫電を放電した、フィーアを覆い尽くす程の雷撃、地面を焦がし、大気を揺るがし、閃光が辺りを埋め尽くす。
フィーアはその無表情の顔を初めて僅かに歪めた。そして剣を盾にする様に構え、放電を殺した。しかし、衝撃を殺せなかったのか、フィーアは後方へと吹き飛ばされ、そして空中で一回転した後地面へと着地した。
「……成る程、言われてみればそうだ。光速で移動している私が移動中対象を把握出来ないのと同様に、一瞬で移動している貴様も標的が補足出来ないため、近くに出現して切っているという事か。そして殺せるのは一つの概念、か? 同時には不可能という事だ、同時に殺せるのであれば私の紫電も消えていた筈。空間ごと私を殺さなかったのは、それでは膜を殺せなかったからか? 移動中に把握出来るのであれば一度現れる必要は無い、そして距離もあるな、先ほどの漆黒の一撃、あれは離れていたから使ったのだろう?」
返答は無かった。
すぅ、と細められた目は初めて感情らしい感情を見たという驚きがリリスの中で産まれた。明らかに敵であるのにも関わらず余裕のある事だと内心で苦笑する。
「思考を続けろ、検討を放棄するな、常に頭を巡らせて最善を求めろ。諦めるべきは死んでからで良い。ふざけた”友人”の言葉だ」
呟いた言葉はリリスの中にじんわりと染み込んで行った。
「ヒトとして尊敬は出来ない、信頼は出来ない、だが有用である。ならば使う、姉上の言葉だ」
そしてリリスはアルフロッドの襟首を掴み、強引に距離を離した。
「卑怯と言うか死滅? 遠距離からの狙撃戦術は得意とする所。消し炭になるまで付き合ってもらうぞ」
距離を離せばフィーアからの攻撃を受ける事は無い、はずだ。
何もフィーアと同じ土台で戦う必要など無いのだ。アルフロッドを連れて行動するのは手間だが、空間を殺して直線的に移動するフィーアに比べ、リリスの移動方法は柔軟性に溢れている。攻撃範囲の距離は大体把握した、であるならば一定距離を保ち、攻撃を繰り返し、そして待てば良い。
「姉上が、ゴドラウ師長が来ているのだ、何もしていない訳は無い」
アルフロッドもその言葉に頷いた。襟首を掴まれているのは不満気であったが。そしてそれは間違っては居なかった。
混乱の最中ではあったが、鍛え抜かれた精鋭だ。彼らは指示通り配置に付き、準備を整えていた。ただ、それはゴドラウが予想した物とは、リリスが予想していたものとは違っていた。
そして同様にリリスは大きく勘違いしていた。そもそもが、フィーア自身もリリスとアルフロッドだけを狙う必要は無いのだと。
そしてリリス達にあって、フィーアには無いもの。その差は歴然であり、何よりも重大な違いであった。
距離を取り、雷撃を放つリリス。それを”右手”を掲げただけで殺した。
僅かに目を見開くリリス、だが予想の範囲とばかりに再度雷撃を放とうとした所で、フィーアの剣が漆黒に染まるのを見た。
「それか! 直線的な攻撃など!」
振りかぶってから躱す事など訳は無いリリス。だが、フィーアの攻撃方向は別の方向を向いていた。
「まさ、か……!」
その剣の先、視線の先、そこにはルナリアがいるであろう部隊が存在していた。
何をするか一瞬で理解したリリスはフィーアへと攻撃を仕掛ける。バチリ、と鳴る雷光、振り落とされるアルフロッド。眼前に迫るフィーアがぎょろり、と迫りくるリリスを見て、――無表情の顔がリリスには嗤ったかの様に見えた。
○
おかしい、とルナリアは思った。
特殊部隊が来るのは予想の範疇と言える、だがしかし、なぜこんなに少ないのだ?
これでは無駄死にも良い所だ、これが帝国の思惑ならば理解も出来る、だが何の思惑だと言うのだ?
部下を殺す事に意味が有る? 一体何があるというのか。
「ニールロッド」
「問題ありませんなぁ、練度は高いですがね。やはり一番はあの銀髪でさぁ、死滅のフィーア・ルージュでしょうよ。うちらに手出しされる前にリリス王女とアルフロッド少年を殺すってのならまぁわからんでもないですが、それならもっと戦力を裂くでしょう? まぁ、ここまで潜入された事もどうかと思いますがね。グリュエル辺境伯があとで責任問題を問われなければ良いですがねぇ」
「それは貴方が考える事ではないわ、沈黙を貫いていたのは宮廷も同様だし。まぁ、犯人は予想が付いているし、それを槍玉に挙げればうやむやになるでしょうよ。兎に角、死滅については、アルフロッド・ロイルとリリスに任せるしか無いわね」
「ゴドラウ師長は? なんか準備していたようですが、ね?」
「あぁ、そういえば居たわね……、今何を……? ニールロッド、アレは何?」
ルナリアの視界、そこには手首を切り飛ばされたゴドラウが居た。
「おいおいおいッ! どうなってやがる、誰だアイツは!」
「……。ニールロッド、鮮血は何処」
「はぁ? 何言ってんですか王女様、直ぐ助けに――」
「答えなさい、鮮血を貴方は今までで一度でも見たかしら?」
「そ、そりゃぁ……。見て、ません、な……、ッ!」
突風が走る、舞い上がった髪を、結い上げた一部を抑え、ルナリアは空を見た。
そしてソレを睨みつける様にして呟いた。
「やり過ぎは許さないわよ、スオウッ」
○
「副師長、だと? ……貴様、誰だ? 貴様ら誰を連れて来た」
ぽたぽたと雨が降る、怪訝な表情を浮かべる部下、その言葉にフードの下で笑みを浮かべる少年。
そう、部下が連れて来たのは少年、いや青年ともいえそうな男だった。
副師長、部下はそう言った。だがそんな事はあり得ない、何故ならば副師長は今宮殿に居る筈だからだ。
そして自分が見間違う筈も無い、彼は似ても似つかない、つまり、副師長であるはずがない。
ゴドラウは無詠唱で混乱、洗脳、錯乱系の魔術を疑い、部下へと解呪の魔術を掛けた。この間三秒、まさに師長の面目躍如と言った所か。
ぶわり、と部下の髪が魔素の流れで揺れ、だがしかし結果はゴドラウが求めている物ではなかった。
「馬鹿な、弾かれただと!」
加護に勝てる者は加護でしかない。
青年は、いや、スオウはフードの下で笑った。違和感が積もる、違和感が溜まる、そろそろ期限の時間だろう。
「師長、何、を?」
一瞬の出来事だった。解呪の魔術をかけられた男は困惑顔でゴドラウへ問いかけた瞬間、スオウによって足を刈り取られ、無様にも地面へと転がった。
慌てて状況を確認しようとした所で視界に収めたのは剣だった、ざくり、と地面に刺さった剣は自分の首から数ミリ離れた所だった。
その意味を理解出来ない訳ではない。ぴたり、と動きを止めた男にスオウは一瞬だけ目をやり、そしてゴドラウを見た。
「副、師長? 違う、違う! 誰だ、貴様!」
声と共に首筋に赤い線が走る、激昂と同時に状況を再度把握した男はわなわなと口を震わせながら体を硬直させた。
周りに立っていた者も同様だ、異常に気が付いた。だがしかし既に遅かった。人質となってしまった仲間を見て、フードを被った男、スオウを見て、彼らは一歩も動けない。
その様子を見ていたスオウ、右手には剣、左手にも剣だ。シャムシールと呼ばれる曲刀、首の横へと突き刺した剣とは別の方をゆっくりと持ち上げ、ゴドラウを指し示し、
「そこが良い、その位置がとても良い。ゴドラウ魔術師長、あなたがここに来るのは確定していた、貴方が自主的に来るか、ルナリア王女の周りがそれを催促するかの差異は有れど、貴方はこの場で一番動き易い実力者であり、そして貴方にとってルナリア王女は生きていなければならない存在だ。
学院で問題が起れば誰か送るのは間違いなかった、貴族の子息でも人質に取られれば状況は酷い事になる。十分に護衛を付けていたとしても、潜伏の間者を入れていたとしても、王女はそれを良しとはしない。信用していないからだ、自分の部下以外を。
そして信用していない方を自分の傍に置いて護衛にする可能性は十分に高かった。それを売り込むか、買い込むかの違いだからこれは必然だ。
そして今この状態はとても良い状態だ、帝国の狼にただでさえ減ったルナリア王女の傭兵は取られ、貴方の信頼する部下は下準備へと走っている。今、この場に居るのは少数だ、ほんの少数だ、ほんの一握りだ」
そう告げた。
いつの間にやら空は曇天となり、ぽつぽつと雨が降る。フードを被ったスオウは笑みを隠そうともせず浪々と話を続ける。
「この時を待っていた、この瞬間を待っていた。外装をはぎ取る贄も用意した、手順は全て用意してもらった、後はキーだ、最後のキーだけで全ては完成する」
「何を言っている、貴様」
「犠牲は出たな、それが果たして必要な犠牲であったのか、不必要な犠牲であったのか。必要とは何か? ヒトが死ぬ事に必要などない。が、それは後の歴史が判断してくれる事だ。個人的な感傷と感情においては受け入れられる事は無いかもしれない、ただ、黙して黙るのは生憎と性に合わない」
く、くはは、とスオウは笑った。
「原点に戻る事にしたよ、そう、全ては力があってこその第一歩だ、誰もが手を出せない様な力を手にしてからの第一歩だ。後ろ盾に怯えず、権力者に左右されず、国というバケモノに食われる事の無い、圧倒的な力だ。
最初はそんなつもりは無かった、彼女に従い、使える存在として傍に置いてもらう事から始めた。しかし、だ、貴様らがヒントをくれた、貴様らの考えはまさに正しい、加護持ちとは、力持つ者とは、ヒトの身に余る力とは、ヒトが管理してこそ意味が有るのだと。
そこから始めるべきだった。甘かった、そう、甘かった、だからアルフロッドは失敗した、けれどそれもまた良い。それはそれで、俺が俺として最後に残した良心なのだろう。俺が、俺である為に良心は必要なんだ、壊れない為に、俺が、俺であったという証明の為に」
ゆっくりとスオウは手を広げた。ゴドラウはその異質な空気に呑まれていた、嫌な予感がする、ざわざわと自分の経験から来る危機的感覚が警報を鳴らしている。
ぽたり、と雨の雫が頬に辺り、涙の様に流れて落ちる。
「波乱を呼ぶか? 元々揺れ動く世界に波乱など直ぐに消える」
剣先が揺れて、そして止まる。決意の表明、決別の時。
「ねじれ歪んだ思惑の中で、使われるか、使うか、俺は後者を選ぶ」
世界はいつまでも、どこまでも、優しく等無いのだから。
「手に入れてみる。”陛下”の望みも、最強の力も、この世界の真実も。その為の犠牲ならば踏み抜いて行く、自分の身の丈以上の望みが身を滅ぼすのか? そんな事は無い、”この程度”丈以上ではない。踊れ、俺の為に」
「(なんだ、この少年……、狂っているのか? 面倒な、こんな事で時間を取られている訳にはいかん。後で処理しなくてはならんな。多少のイレギュラーはやむを得んか)ふん……。色々と聞きたい事があるが、手間だ――、消えろ」
焦りだったのだろうか、それとも空気に呑まれたのだろうか、ゴドラウは一番短絡的とも思える行動を起こした。幸運にも、いや、不幸にもゴドラウの体に染み付いた動きはその感情を表す事無く動き、対象を殺傷しようとした。
ヴン、と魔方陣が掌に広がり、
「遅い」
そしてその掌が宙に舞った。
「な――。ぉッ……、ぐ、ぐぉぉぉぉぉッ」
血が舞う。鮮血が吹き出して赤く赤く染めて行く。
「長らくトップに居たせいで鈍ったかゴドラウ、無詠唱で、高速射出でどうにかなるかと思ったのか?」
ひゅん、と剣を振る。僅かに付いた血糊が飛び、雨によって黒く染まった地面を濡らす。
「おっと、お前は動くな。まだもう少しだけ、動くんじゃない」
手を跳ね飛ばされたゴドラウを見て、立ち上がろうとした男に剣を押当てた。周りに立つ者も同様に動こうとしたがその状況に足を止める。つぅ、と首筋に僅かに食い込んだ場所から血が滴り落ちる。
首筋から血を垂らした男は烈火の如く怒り狂った目で睨みつけて来た。
「ぐ、うぉぉ……、ふぅ、はぁ、ふぅ、ふぅ……。き、さま、狂っているのか! 何をしているかわかっているのだろうな? 私を殺すつもりか? これだけ目撃者が居る場所で逃げられると思っているのか!?」
「殺す? 逃げる? いいや、俺はアンタを”貰う”とする」
ぶわり、と魔素が放出した。
驚愕に見開く目、ゴドラウは自身の感覚が狂ったのかと思った。それほどまでに異常な量の魔素を今目の前にいるスオウから吹き出しているのだから。
「し、師長、ワイバーンが!」
「ぐ……、なんだ!?」
腕の痛みで視界が歪む、声、それはスオウを囲っていた部下の一人の声だ。
見上げた、答えはそこに有った。
「まさか……」
「空のデートと洒落込みましょうかゴドラウ師長。拒否権はありませんが」
首筋から離れた剣、一瞬の後に周囲を囲っていた魔術師がそれを確認すると同時に魔術詠唱を唱える。
ゴドラウは無詠唱で短距離転移を発動しようとするが、一拍、喉に鉄杭が突き刺さる。
血へと伏せていた男はスオウの足を掴もうと無理矢理腕を動かす、が、首に添えていた剣がくるりと回り、そして腕ごと地面へ突き刺さった。そして悲鳴が上がり――
「遅くなりましたスオウ様」
「いいや、ぴったりだよアリイア」
声は悲鳴で聞こえない。声は竜の羽ばたきで聞こえない。
地面すれすれへと滑空したワイバーンは、飛び上がったスオウと血を吐くゴドラウを強引に攫い、空へと飛び立つ。
そしてスオウが居た場所に魔術が炸裂した。
どうでもいい加護持ちのお話
オードリッヒ
3階級 粛正
現保有者 帝国アールフォード 最高権力者 皇帝
己の加護を埋め込んだ兵が殺した相手と埋め込んだ兵が死んだ時、それらの魔素を乗算で吸収する事が出来る。
それは青月からの対価であり、報酬であるため、距離は関係ない。それ以外にも自身が殺した相手も吸収可能。
加護持ちの中で最大級の魔素保有量を持つ可能性がある。数千年前の戦いでは100万の生け贄とともに巨大儀式魔術を完成させ、龍の片翼を焼いた。
ミーナリフィ
4階級 死滅
現所有者:帝国アールフォード フィーア・ルージュ
死と滅の概念を操る。前者は漆黒のおぞましき物質となって世界に顕現し、触れた物を問答無用で殺し尽くす。干渉能力が高すぎるため、一時的に視界にも影響を与え、知覚する事が出来る。
生命力を数という事ではなく、青月に干渉し、世界そのものから書き換えているため死という現象からの回避は不可能である。回避か、あるいは別の生命物を当てて盾とするしか無い。後者は自分が触れたものを消滅させる能力、フィーアはそれをやや発展させ、剣で切った場所も消滅させる事に成功している。
一度に消滅出来るのは一つの概念であり一つを消している時、別の物を消す事は出来ない。




