虚構の世界に立つ夢幻1
魔獣は動植物が魔素によって変質した生物である。
素体による変動は勿論あるが、その影響した魔素量によっても大きく変動が起る。
その魔素が齎す力だけを凝縮し、指向性を持たせて結晶化させたのがアイリーン・レイトラの技術だ。
その魔素ではあるが、魔素だけで魔獣が発生する場合が有る。
それは以前スオウが生贄召還を使用して呼び出したリッチがそうであったり、レイス、と呼ばれる怨念が現象化した魔獣であったり。
厳密に言えば魔素だけではなく、怨念や意思等が影響してはいるのだが、所謂目に見えてわかる素体がある訳ではない。
曖昧でありながら、現象の理由はある。
そして遥かなる過去、世界の頂点として君臨していた龍もまた、魔素に大きく影響を受けていた存在であった。
○
降り注ぐ陽光は木々の間から暖かく降り注ぎ、緑一色に染まる大地を染上げている。
薄らと漂う霧はヒトを迷わせる幻想の物ではなく、ただ単に朝露の混じった自然現象の一つだろう。
だがしかし、その平穏とも言えるその場所に生き物の息吹が聞こえる事は無かった。誰も彼も、もの言わぬ植物ですら息をひそめる様に、――いや、まるで敬意を払うかの様に厳粛にその身を包んでいた。
そんな中、一カ所だけ異質な場所があった。赤く赤く染まったその場所の中央。一人の女性が横になっていた。その女性がむくり、と上半身を起こし、きょろきょろと周りを見渡した後くぁ、とあくびをした。美しい顔立ちに金糸のごとき美しき髪、さらさらと流れ陽光を反射させながら流れるその髪はまるで一つの芸術作品の様だ。初めて見れば誰しもが絶世の美女だと言っただろうか。しかしその姿形、ふくらみの無い胸、僅かに見える引き締められてはいるが鍛えられた筋肉、彼女、いや彼はまごうことなき男であった。
「んー……、あぁ、寝すぎたか」
声はどうやら性別通り男らしい声、品の有る声ではあるが、少なくとも女性的ではなかった。
もう一度くぁ、とあくびをしたその男は立ち上がる。地面が赤く染まっているその大地の上で何事も無かったかの様に立ち上がる。
「ぁぁー、ったく、あのでか物のせいで服に血がついてんじゃねぇか。ったく、洗うのめんどくさいんだよなー」
僅かに着いた袖の血をめんどくさそうに眺めた男はまたもや面倒くさそうに周り一面に広がる木々の間から見えるであろうナニカに向かってぼやく。同時にゆらり、とナニカが動いた様な気がしたが男はまったくといって気にしない。
「めんどくせーめんどくせー。あぁせめて綺麗な美人で巨乳の女性とかだったら喜んでここに居るんだけどなー」
こきこきと首をならす。ゆらりとゆらめくナニカが視界に納まる。それは巨大な生き物だった。まるで島一つが動いているかの様に錯覚できる程の巨大な生き物。周りの生物は生きとし生けるものは全て頭を垂れ、許しを請い、ただその厄災ともいえる現象が逸れるのをじっと待つ。
ぐぱ、と口が開いた。そこには漆黒が居た。漆黒の中で妖艶に輝く美しき鱗、そしてそのナニカの口が開きまるで研ぎ澄まされたダイヤモンドの様な美しい牙が並ぶその中には僅かに赤、そう、血が残っていた。
ちらり、とその口へと視線を向けた男は笑みを浮かべて呟く。
「ここにいるのは畜生にすぎねぇし、美女に変身でもして――」
そして男の上半身は吹き飛んだ。
ぐちゃり、とその牙に、口に、そう強大な龍の顎の餌食となった。
盛大に血を噴き出して地面へと倒れる男、金糸のごとき金の髪はその強大な龍の牙の隙間から垂れ下がっており、ぽたぽたと血を垂らす。
死んだ、と誰もが思っただろう。上半身を食われて生きているヒトなど居ない。だがしかしその男はヒトという枠組みに存在する物ではなかった。
「――――ってぇなぁ、癇癪もほどほどにしとけよ?」
ぎゅるり、とまるで時間が巻き戻されるかの様にそこには“何も無かったかの様に”佇む男が居た。
傷も、いやもはや服までもが全て元に戻っており、ただめんどくさそうな顔をその正面に鎮座する龍へと向けた。
『黙れヴェルトライ、殺されたいのか』
「おーおー、返事が有るとは思わなかった。さすがに何百年って一緒に居ると会話くらいはしてくれる様になるもんかね」
『……矮小な存在ごときが……』
「くっく、矮小な存在に消されたけどなー」
返答はブレスだった。ごぅ、という音と同時にヴェルトライと呼ばれた男は一瞬で骨まで燃え尽き、それだけに留まらず吐き出されたブレスは周囲に広がる森全てを焼き尽し、地は溶岩と化し、焼けた空気は酸素が消失し、もはやそこは地獄とも言える死の空間へと化した。が――
「疲れるからやめてくれよ、なぁ?」
僅か数秒、世界は元に戻っていた。すべてが“再生”され、何事も無かったかの様に佇むその森。深遠の森が変わらずそこに有った。
いまいましげにふん、と鼻を鳴らした龍は牙の隙間からしゅるしゅると火を噴き出しながらそこに佇む。
ずん、と地面を鳴らし土埃を上げて横へと伏せる。あれだけの巨体が動けば当然軽い地震は起きて当然でもあり、ヴェルトライは揺れる地面の上で楽し気に笑う。
「俺はアンタを殺せない、アンタも俺を殺せない、仲良く二人でやってこうぜ? なぁ?」
『……愚かな。罠に嵌めた張本人が仲良くだと、ふん、貴様は三百年経っても変わらんな』
「そりゃークラウシュラに言ってくれや。騙されたのはアイツ以外全員だぜ? アンタもそうだろうし、いやむしろこの世界がそうだろうさ。それがわかってるからアンタもここから出てかないんだろう? 夢幻を支配した所で所詮嘲笑の的であり、ただの滑稽な道化に過ぎない」
しゅるしゅるとただ吐き出した息だけが答えだった。ぎょろり、と睨まれるその漆黒の目。
「おお、怖い怖い、そんなアンタに朗報だ。クラウシュラ、戻って来たらしいぜ?」
肩を竦めて告げるヴェルトライに漆黒の龍はここ数百年で初めてとも思える程思考に間を作った。
そして僅かに遅れて膨れ上がる殺気。だが、それもすぐに萎んで消えた。
そんな様子に怪訝な表情を向けるヴェルトライだが、返事はわかり易い程に簡潔だった。
『ふん……。もはや興味等無い。千年前であればあの女の首噛み千切ってやろうかと思ったが……。もはや我の本体は残っておらぬだろうよ。魔素の無い世界で我が存在できる理由は無い』
「ふぅん……。ま、いいけど。でも俺は用事があるんだよね、オードリッヒやミーナリフィは後からぐだぐだ言わないだろうし? クィツラヴィフェンは初っぱなから壊れてたしどーでもいいけど、他の連中は結構恨み辛み有ると思うんだよね。あぁ、でもロルヴェはどうかな、惚れた弱みも有るだろうし」
そう言ってくっく、と笑う男。
そんな男に最早興味は無い、と龍は目を閉じる。
「ま、それでも2000年、既に自我もない奴も居るかもしれんけど。さてはて、どうすっかなー」
ヴェルトライは楽し気に笑う。長く長く、長すぎる程に長いその年月を過ごした彼はもはや、それが恨み辛みでない事にすら気が付いていない。ただ、それだけが彼を構築する上で必要な事であり、それをしなければならないという僅かに残った強迫観念に引きずられているに過ぎない。
「あぁ、クラウシュラ早く、早く、会いたいよ」
この数百年ただただ君を殺す事だけを夢見ていたのだから――
狂気に彩られた男の顔を僅かに見た龍は再度顎の隙間からちりちりと火を出し、吐きかけようと思った所でそれはため息へと変わった。
○
カナディル連合王国 首都定例会議
①自国の有する加護持ち、リリス・アルナス・カナディル及び、アルフロッド・ロイルの処遇に関する議題。
・現在一時的な緊急対処処置としてストムブリート魔術学院にて保護。
・リリス王女に関してはアルフロッド・ロイルが万が一反旗を翻した場合の監視役、兼、王家に取り込む為の婚約者として配置。
上記2点はルナリア王女より強い要望が有って実現された物とする。尚、国王の了承は既に得ている。
連名としてグリュエル辺境伯、クラウシュベルグ男爵の他数名。またセレスタン辺境伯も書面ではないが口頭にて同意を示している。
同年ハイム元子爵家より過剰な干渉があり、それに基づき“王家”より討伐部隊が派遣。
ハイム元子爵領は臨時として王家直轄領土とする。尚、代理領主はクラウシュベルグ男爵の助言を聞く事。同様にクラウシュベルグ男爵は逐一王家へと報告をいれる事。
追記(早急案件)
クラウシュベルグ男爵より一時的に王家へと権利が譲渡。クラウシュベルグ男爵は自領へと帰還済み。現在まだ治めるべき領主は未決定である。
②バルトン伯爵とハイム元子爵家との接点について。
・クラウシュベルグ男爵より両者が通じていたと思われる手紙を元ハイム家にて確認。グリュエル辺境伯より王家へと提出。
上記の件は証拠に乏しく、偽造の可能性も有る為決定的な物ではないが、当時のキルフェ・ハイムとジルベール・バルトンとの接点が有った事は証言されている。
調査継続として以後の報告を待つ。
③学院への帝国間者の潜入について。
・魔弦のツェツィーアを確認。学院の教師が対応したが逃亡。帝国への厳重抗議を検討中である。
・手引きをしたのはハイム家であることは確認済み。しかし、同時に潜入したと思われる暗殺者は何物かによって殺害されている。犯人はいまだ調査中。魔弦である可能性も有り?
・遺失されていたと思われる魔術技術が発見された可能性が有り。これに関しては未確認であり、魔術学院からの報告も滞っている。情報隠蔽の可能性があるかどうかこちらの調査員を送る事。
・この件でコンフェデルス連盟より報告を催促されているが、適宜妥当な対応とする事。
・同時期に発生したリッチの事件に関して。討伐を行った生徒4名に報酬を与える事とする。
④アルフロッド・ロイルの配置について提案。
・第一候補としてセレスタン辺境伯預かりとする。主な職務は深遠の森側“からの”防衛任務。
・帝国からの備えとしてグリュエル辺境伯との臨時的対応規約を結ぶ事とする。
・上記二点に基づき、リリス王女は変わらず王家預かりとする。
○
ぺらぺらと捲られた中に書いてる綴られた内容を再度確認したルナリアは僅かに微笑んだ。
報告書を持って来た侍女に退室を促しルナリアは再度思案へと沈む。
報告事項であるがためにその状況は口頭からの報告を纏めただけに過ぎないが、実際この項目の殆ど(特に最後)に他からの強い反発を得た事は間違いなかった。
殆どの貴族は自領土の繁栄、いや自分の贅だけに注目しており、加護持ちを配置する事によって起こりうるメリットの争奪戦である為にだ。
魔獣討伐とて無料ではない。今回の件であればセレスタン辺境伯にすりよる者が増えるであろうし、近接している領土の者は討伐範囲の拡大を望むだろう。
ガウェイン辺境伯に至っては猛烈な抗議と批判が発生していると聞いている。あの男を中心とした派閥が出来上がる可能性も高いだろう。いや、既に出来上がっているのが表面化する、と言うべきだろうか。しかしながら、セレスタン辺境伯ともそうだが首都とも一番離れているクラウシュベルグ男爵が抗議を上げておらず、同様に近場の、所謂グリュエル派とも言える者が何も抗議していないため、ただの我が侭であると取られている節も有る。放っておけばそのうち鎮静するであろう。当然燻る者はあるだろうが。
同様に発生したのがセレスタン辺境伯へと加護持ちを預ける事の危険性を無くす事、セレスタン辺境伯へと王家が頭を垂れる様な形になる事を防ぐ事の二点だ。
加護持ちを預けるという事は信頼の証ともとれるが、そもそもがカナディル連合王国は中小国が集まって出来た連合国家である。故に、セレスタン辺境伯が王として立つと言った場合明確に反対できる理由が無い。かの家も王となる資格を持っているがために。
「最悪国が割れるでしょうし、そうならない為に手を打つのが私たちの仕事なのよね」
可能性としては当然少ない、セレスタン辺境伯が立った所で着いて来る連中がどれだけ居るか想像するまでもない。なによりあの男はそこまで愚かではない。何の為にこの国を設立したのか、少し考えればわかる筈だ。
誰もいない為か上着を脱いだルナリアはその美しい白い細い腕を天へと掲げた。僅かに見える二の腕は刻印が覗いている。目を細め学院で過ごしているであろうリリスを思い。そして目を瞑った後、頑張ってね,リリス、と呟いた。彼女の机の上には先ほどの報告書とは違い、乱雑に書きなぐられた手紙が有った。内容は明白。
最大の力は王家が保有しているという事をわかり易く示す為に、そしてアルフロッド・ロイルの戦力がどの程度であるのかを明確に示す為に――
リリス・アルナス・カナディルとアルフロッド・ロイルの模擬戦が決定されたのだ。
そう、本人達の意思など関係無しに。
そんな事を考えていた所で、コン、と扉が叩かれる音がした。
椅子に掛けていた上着を羽織り、刻印が見えないのを確りと確認してから返事を返す。入って来たのはニールロッドだった。
「あら、丁度良かったわ。学院に入れた目の報告も受けたかったのよ」
「それはそれは、丁度資料を纏めた所でさぁー。ま、さして重要な情報はねーですけど。リリス王女は上手くやってるみたいですぜ」
「当然よ、スオウを付けたんだから上手くやってもらわないと困るわ」
「……問題も呼び込んでる気がするんですがねぇー」
くすり、と笑うルナリアはニールロッドから渡された資料に目を通す。
それはスオウが実家に戻ったときの行動報告書であった。
「クラウシュベルグに戻って何かするかと思ったけど特に何もなかった様ね」
「あそこはクラウシュベルグ男爵の庭ですからねぇ、そんなに深くは調べられませんて。ま、あの子供に目をつけておきたい気持ちはわかりますがね」
「そう言ったのは貴方でしょうニールロッド。私はスオウを信じているわよ?」
肩を竦めて返すルナリアに苦笑を浮かべるニールロッド。
本心であるかどうかは別として確かにルナリアは言っていなかった。
「ブランシュ・エリンディレッドはどうかしら?」
「問題有りませんわ、予定通り動いてますよぉ」
「……そう、じゃあそちらも並行して報告を上げなさい。国の諜報部隊もそろそろ我慢の限界がきそうだしね」
「了解でさぁ、と、まぁ学院の方の報告は以上として、最近コンフェデルスとカナディル国内で少々キナ臭い動きをしている連中が居ますぜ」
ひらり、と手を振ったニールロッド。軽薄な表情はそのままに次の報告へと移る。
キナ臭い、と言っておきながらその姿勢は緊張感が無い。その様子からソレが何なのか有る程度掴んでいるという事だろう。
そんな事を考えていた事を察したかニールロッドは苦笑を浮かべ、ルナリアへと報告を上げる。
「最近“蠍”と呼ばれる連中の名を聞きまさぁ。隠し切れなくなったと見るべきか、表に出て来たと見るかはルナリア様にお任せしますがねぇ」
「ふぅん……、名前の由来は何かしら?」
「さぁて、そこまでは。裏の連中の話題に少々上がっている程度で、あえて言うならあの鮮血の一撃必殺的な所でも含んでるんじゃないですかね?」
「蠍は別に一撃必殺ではないでしょう? まぁ、でもそうね一度刺したら絶対に死ぬというのは合ってるかもしれないわね」
そう言ってルナリアはくすり、と笑った。
所詮比喩表現に過ぎず、蠍に刺されたとして確実に死ぬ訳ではないが、高確率である事は間違いない。
「蠍より蜘蛛の方がお似合いないじゃないかしら?」
「あぁ、あの餓鬼はそっちのが似合いそうですねぇ。ま、ともかくコンフェデルスの連中も動向に目を見張ってるらしいんで接触は程々にしておいたほうがいいですぜ」
「そこを何とかするのが貴方の仕事でしょう?」
困った子ね、とでも言いたげな表情でニールロッドを見るルナリア。それに対して特に何も返さずひらり、と手を振りニールロッドは部屋を退室していった。
ゆっくりと閉められた扉、それをルナリアはじっと見つめていた。
そして数秒、いや数分。静穏が部屋に満ちる。ルナリアはゆっくりとまた目蓋を閉じた。
首筋を撫でる、冷たい鉄の温度を思い出す様に。
――クラウシュベルグ自治領。
あの時自分が殺されていたらこの国はどうなっていただろうか。
あの自治領はどうなっていただろうか。
この国に縛り付ける鎖を無くしたリリスは果たして何をしただろうか。
消滅するクラウシュベルグ、始まる内乱、帝国による介入――そして、カナディル連合王国の衰退。
「それはそれで構わなかったと、心の奥底で思っていた、のかしらね? ふふ、たしかにあの剣は蠍の毒針の様に私に今もまだ突き刺さって体を蝕んでいる」
それは燻っていた世界を見たいと思える様に、この静まっていた憎しみが、蓋をしていた世界への理不尽が、その毒で溢れかえるかの様に。
ふ、とルナリアは笑った。
「私が楔であると知ればスオウもあんな事はしなかったかしら? したかしら? 所詮は仮定の話……」
閉じていた目を開き、虚空を睨む。
カナディルは不安定になりつつ有る。以前から既に不安定であったカナディルではあるが、それは最近になってより顕著となっていた。
台頭してきたカリヴァ・メディチ・クラウシュベルグ。商人の出に関わらず生粋の貴族を討った暴虐者。
あの領土が自治領であったのは資源に乏しいという事ではなく、首都からの統治が難しいという所にもある。距離的な問題だ。
それは他の領土にも言える、あまりにも遠い距離、王家だけで治めるのが厳しいからこその貴族であり、その与えられた領土であるのだ。
だが、発達した蒸気機関車により移動時間の短縮がはかられ、視察という方法も簡易にできる様になった。
それらもまた反対派が導入に二の足を踏む理由となっているのだろう。
「得体の知れない技術など取り入れる事は出来ない。魔術主義者の言いそうな事ね」
“未だに”そう言うことを言う連中が減る事は無い。
だが本質はどうだろうか? 金になるかならないか、リスクがあるかないか。プライドもまた関係して来るだろう。本当にそう思ってる連中は一握りに過ぎない。
カナディル連合王国は西と東に分たれつつある。言い換えればガウェイン辺境伯とグリュエル辺境伯との対立とも取れる。ガウェイン辺境伯との繋がりの強いコンフェデルス連盟はガウェイン辺境伯の肩を持ちたいだろうが、蒸気機関車の技術を売り渡した王家の意見を無視する事は出来ない。そして王家は中立であるが、ルナリアはグリュエル辺境伯寄りである。
蒸気機関車の技術、国王が売り渡す前であればその技術を元により強く言えるのだろうが、既に売り渡した後であれば少々厳しい物があるのも現状だ。
いや、考え方によっては売り渡したからこそ王家との繋がりを無視する事は出来ない、と言うべきだろうか……。
王家の次女であるナンナがあちらに居るとは言えど、果たして“ルナリア”にとってはどれだけ意味をなすのかは不明瞭。
「面白くなって来たわ」
コンフェデルスとて信用できる物ではない。国と国であるがために。
ぺろり、とルナリアは唇を舐め、そして机の上に置かれた資料へと目を通していく。
「さて、スオウ。段取りはしてあげるわ。期待しているわよ」
さらさらと書き記されるその書類にはニールロッドによって調べ上げられた王家からの両者模擬戦の観戦出席者名が記されていた。ルナリアの名前は勿論、ニールロッドもそこにあり、そして――宮廷魔術師長、ゴドラウの名も記されている。
宮廷魔術師長が出端る理由など想像するに容易い。首輪を付けるつもりなのだろう、自分と同じ様に、リリスと同じ様に。ルナリアの権限を使えば止める事は可能だ、やめさせる事も可能だ、しかしルナリアは見逃した。彼女はその名を見た時に嗤ったのだ、薄く、それでいて壮絶に。
「楽しい余生を」
ピッ、と記されたサイン。僅かに力が入ったかインクが撥ね書類を汚す。黒い色ではあったそれだがルナリアにはまるで血が跳ねたかの様に見えた。
○
クラウシュベルグ領 カリヴァ男爵邸
ちろちろと揺らめく魔術の光。夜という訳ではないが日も落ちたこの時間、春ではあるがこの時期この地域日が落ちるのは早い。
くすんだ赤い髪を撫で付けながら眼鏡の端をやや持ち上げて書類仕事に勤しむ男、言うまでもなくこの領土の主、カリヴァ男爵である。
「宜しかったのですか?」
声をかけて来たのは初老の男性だ。カリヴァは書類から目を離さずに返事を返す。
「塩山の事ですか?」
「私ごときが意見するのは差出がましいかとは思うのですが……」
恐縮した顔で告げる言葉、困惑と同時に畏怖も僅かに見える声。カリヴァは僅かに笑い、そして答えた。
「別に構いませんよ、献上と胡麻擂りは必要不可欠な仕事ですから」
カリヴァは塩山を王家へと献上した。
それも何の見返りも求めずに。
それはクラウシュベルグ領の生産する塩の出荷量が激減する事をも意味しており、その事からクラウシュベルグ領が得るべき税も減る事は理解できた。
塩を生産している生産者に対するダメージも見過ごす事は出来ないだろう。だがしかしカリヴァはそれを即断即決したのだ。
困惑気な表情でこちらをみる老執事、エトラスへと漸く視線を上げたカリヴァは諭す様に告げる。
「あれは毒にしかなりません。自領の職人には当然補填しますし別に塩だけがクラウシュベルグの特産となっている訳ではありませんので」
あまりにも少なすぎる量であれば他の方法も取りましたが、と付けてまたカリヴァは書類へと視線を戻した。
塩山の量は確かに十分すぎる程あった。元ハイム子爵が豪語するのもわからないでも無い。
最初はカリヴァも出来るだけ採取するべきか、利益に噛むべきか、それとも占有権を主張すべきか、と検討したがすぐさま“まったく”手をつけずに王家へと献上する事を決めたのだ。
数ヶ月全ての裁量を任されていたカリヴァではあったが、それはあからさまな越権行為だ。任されているとは言えどカリヴァの領土ではない。
それを咎める者は当然出て来る。それがカリヴァが報酬を求めていたのならば。
カリヴァは何も求めなかった。故に王家も訝し気ではあったが直ぐにその意味を知り受ける事にした。実は宝の山であった元ハイム領、そしてその一番の宝は何もしていない王家へと渡される。そして最大の功労者は何も受けようとしない。
“何も出来なかった”他の貴族はただ遠征費だけが掛かり、そして精々が感謝程度の僅かばかりの報奨金だけで自領へと帰っていった。
「あそこであの塩山の権利を主張すれば他貴族も一口噛ませろと手を出して来たでしょう。その時王家がこちらを手助けしてくれるでしょうか? 可能性としては限りなく低い。そんな事に時間を取られてあの領土に縛られていてはクラウシュベルグ領がどうなるかわかった事ではない」
ただでさえ帝国からの間者に目を光らせなければならないという状況で、長い間クラウシュベルグ領に穴をあけるわけにはいかない。
「で、あるならばさっさと火種を全て放り出してしまえばあとは王家に話を投げる事が出来ます。私にそんな権利は無い、と言われた所でそれも全部王家に言って下さい、とね?」
くっく、とカリヴァは笑った。
現にそう言って来た連中は多数居たのだ。だがこちらにしてみればそんな事は私に言われても困るという話。既に王家へと献上済みであり、それに対して不満があるという事は王家に対して献上する事に不満があるという事なのだから。
『俺達の金を王家にやるとはどう言う事だ、とそう言う事ですか?』
そう告げてやった使者達が黙りこくったのは記憶に新しい。
そうであるならば横領の可能性有り、と元ハイム子爵と同様にその場で首をはねれば良い。そうで無いのならば早々にお帰り願うだけ。
“王家”による派遣。この一文が何より力を有した。
幸か不幸かカリヴァが一時的に借りていた元ハイム子爵の部屋がさらなる血で汚れる事は無かった。
その場所を教えてくれた哀れな女性の血も含めて。
「敵は増えましたが、元々敵の様な物でしたからさして変わりませんね」
「カリヴァ様程々にお願い致します。あなた様の命はお一つです」
理解、と同時に沈痛な表情を浮かべ頭を下げるエトラスに対し、カリヴァは満足げに微笑んだ。
「そうですね、気をつけるとしましょう」
返事と共に初老の男性エトラスは深々と頭を下げて退室していった。
彼が入れてくれた紅茶に口をつけるカリヴァ。僅かな苦みと芳醇な香りが凝り固まった体を癒していくのを感じた。
「さて、今年も忙しくなりそうです。警邏隊と、諜報部の増員をしなくてはなりませんか」
小さく、四角く固められた砂糖がソーサの上に置かれている。それをカリヴァは掴み、持っていたカップの中へとぽちゃんと入れた。
ややオレンジに近い色の中、さらさらと溶けていく砂糖を眺める。
一緒に置かれていた小さな銀のスプーンでくるりと廻すと砂糖は四角い形をもはや維持できず溶けてなくなった。
そして一口。
「うーん、少し甘過ぎましたかねぇ」
そう言ってカリヴァは呟いた。机の上に置かれていた書類の一つ作成者の名前、それは彼の秘書として一人、女性が増えている事を示していた。
○
ストムブリート魔術学院
圧倒的な実力差、圧倒的な知識量の差、地位で上回っていたとしてもそれを歯牙にもかけず、教師陣もなぜか強くは出て来ない男。そういう奴に対して起こり得る結果は自ずと知れていた。
幸運というべきか、その男には友人は少なかったし何より商人の息子であるという地位の低さも理由の一つだった。
直接文句を言った連中は消え、あげくに死人まで出ている為その方法はより狡猾で、陰湿となっていたがその結果自体にスオウは笑っていた。怯えすら見えるその行為はいじめという結果として現れていた。
「またか」
隣で呟くスオウの声、スゥイは僅かに眉をひそめ、そしてその席を見る。
自由席、とはいえど教室の座る場所というのは不思議と決められて来る。仲の良い者で集まったり、窓際が好きな奴がいたり、でそれぞれではあるが大体の位置が決まって来る。日本人であればその辺りはより顕著であったのだろうが、それでもそれなりにそういう結果は出ていた。
「はぁ……。リリス王女の近くであるという認識があるのでしょうか」
「さてな」
誰にも聞こえない程度の声でぼそりと呟いたスオウは何らかの液体で汚された机の上を軽く撫で、僅かに目を伏せた後、ふ、と笑い手を離した。
「成る程」
「……? 何か?」
「いや、今日の講義は休むとしよう」
薄い笑いはそのままで席にすら座らず場所を後にする。ざわ、と一瞬だけ既に居た生徒達からざわめきがあがったがスオウは一瞥すらせずに外へと出て行く。
「優等生様が公然とサボリか」
「お、おいよせ」
ちらり、と振り向いた先には一人の少年が忌々し気にこちらを見ていた。スオウは足も止めずに扉を開けて既に外に出ていってしまっているが。
僅かに合わさる視線、チ、と舌打ちとともに少年は目を逸らした。スゥイは軽く頭を振り、急いでスオウの後を追った。
幸運にもスオウは廊下に出て直ぐの所で捕まっていた。
今から始まる講義の教師と鉢合わせたのだ。スゥイですらわかる程度に嫌悪感が僅かに滲んでいる教師の顔を薄く笑い見上げるスオウ。
先に声を発したのは教師だった。
「スオウ君、どちらへ行かれるので?」
「あぁ、先生どうにも体調が悪い様で本日は欠席させて頂きます」
「……顔色は悪く無い様ですし、どう見ても体調が悪い様には見えないのですが」
「中々顔に出難いもので、スゥイも付き添いで来て頂きたいのですが?」
「それはそれは仲が宜しい事ですね。それでしたら一生お休み頂いても構いませんが?」
「宜しいのですか? ありがとう御座います。では今後一切先生の授業はお休みさせて頂きます。助かりました」
「……貴様」
ギロ、と睨む視線をスオウは笑って受ける。後ろで聞いているこちらが憂鬱になりそうな会話である。
こいつに言っても無駄だと思ったのかその教師はスゥイへと視線を向けて、半場怒鳴る様に告げて来た。
「スゥイ君、君はこの様な男と一緒に居るべきではないと思うがねッ。君も欠席するというのならこちらにも考えが有る!」
「……スオウ」
助けを求めた訳ではない、どちらかというとどうにかしろ、という意思を込めてスオウを睨んだ。
先ほどまでの笑っていた顔は鳴りを潜め、はぁ、と一つため息を付いたスオウはカリカリと頭を掻いた後、
「いつも“リリス王女”が座られている席が汚されていました。王家に対する侮辱行為です、犯人扱いされたく無いため退席させて頂きました。先生も教室には入られない方が良いかと思いますよ、犯人扱いされるかもしれませんから」
「……なッ」
「リリス王女が来る前に退席しましたが、まぁもしかしたら私を犯人扱いするつもりかもしれません。“そう言う事”でも私は構いませんが、どうされますか? そういえば……、リリス王女もそろそろ来られるかもしれませんねぇ」
「……ッ、そこで待っていろ!」
言い放つ様に駆け出した先生は、がらり、と乱暴に扉を開けた後その現状を確認した後こちらを睨みつける様に一瞥し、一瞬開きかけた口を閉じ、そしてどこかへと走っていった。
「どうやらそこまで馬鹿では無かった様だ」
「どう言う事ですか?」
「お前がやったんだろう、とでも言いたかったんじゃないか? だが俺にはメリットが無い。そうしそうな連中も予想できる。でっち上げようと思えばでっち上げられるが、キルフェ・ハイムの件もあるし、学院としてはあまり事を大きくしたく無いだろうしな」
そう言ってくっく、と笑いスオウは寮のある方向へと歩き出した。
待っていろという指示は聞く気がない様だ。はぁ、ともう一つため息を付く。スオウを犯人役にした時のリスクの大きさを教師も理解していたのだろう。
学院長のスオウに対する態度から普通の商人の子供ではない事くらい想像がつく、触らぬ神に祟りなし、いつぞやスオウに聞いた言葉を思い出したスゥイだった。
「さて、折角時間が空いた事だしケーキでも焼くか」
「ティラミスがいいです」
「ティラミスか、材料余ってたかな」
「途中で買っていきましょう、今の時間なら店も空いているでしょうし」
「そう言えば欲しい本もあったんだよな。そっちも寄ってくか」
「あぁ、本で思い出しました。以前読んでいた収束魔術の効率運用に関する論文、貸して頂けますか?」
はいよ、と片手を上げて返事を返すスオウ。
スゥイは一度だけくるり、と後ろを振り返った。唯事ではないと理解したのだろうか、教室からは小さく無いざわめきが聞こえ、誰かを糾弾する様な声が聞こえる。
ストムブリート魔術学院はエリートの集まりだ。カナディル連合王国の中でもトップクラスの連中が集まっている場所だ。とはいえ彼らはまだ13歳、14歳、羽目を外す事もあるし、道を違える事も有る、だが……。
「(彼に関わった事自体が不幸だと思うしか無いのでしょうね)」
そんな子供の命を軽々と生け贄に利用し、そして他では誘拐し、あげくに取引条件に使用したスオウはけしてまともではない、狂っている。だが、スゥイは自分の顔に笑みが浮かぶのを感じていた。それが先ほどの他愛のない会話が理由なのか違うのか、それはスゥイにはわからなかった。




