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月蝕  作者: 檸檬
2章 魔術学院編
29/67

儚き幻想血に染まりて地に伏せる8

 People rarely succeed unless they have fun in what they are doing.

 楽しめない事で成功するのは難しい。


 ストムブリート魔術学院は寮を設けている。

 当然だろう、そも学院だけでそれなりの敷地に下手をすればそこらの街を上回る規模。他国からの留学生も居るくらいだ、寮があって当然であり、むしろ無ければおかしい。

 その寮だが別に慈善事業でやっている訳ではなく、それなりに金は取る。

 勿論その価格は格安では有るが、無料では無い。勿論そのランク、等級も存在している。世の中平等なんて物は無い。


 故に、魔術学院の生徒はその知識を用いて勉学の合間に仕事をする者もいる。

 それは冒険者として、傭兵として、あるいは薬師として、治癒師として、後者二つの方が圧倒的に割合は多いが、前者も居ないという訳ではない。勿論親の臑齧りで過ごしている者も居るのだが。


 そのストムブリート魔術学院の寮の一室に話は移る。その寮は見るからに一般的な寮に比べて備え付けの備品が充実していた。

 その分価格は割高なのだが、その部屋の主は生憎とそのような事を気にする様なヒトではなかった。


 まず第一に学年主席という立場は大きい。

 この時代背景から考えるに珍しい事では有るが、ストムブリート魔術学院は奨学金が出る。しかも成績によっては返金不要なものが、だ。故に、正直な所無料で部屋に泊まっている様な物である。


 そしてその部屋の主は部屋に備え付けられているキッチンの前に立ち、トントンとリズミカルな音をならしながら包丁を動かしていた。

 通常の寮生は学生の為の食堂へ向かうか、あるいは寮母が用意した食事を食べるのだが、この寮はその様な事は無い。

 食堂へ向かうなら別だが、生憎とこの寮からは若干遠い、其の為備え付けのキッチンで自分で作らなければならないのだ。そう言う意味では最高級レベルの寮に比べれば大分落ちるが、広さは有る。それに料理に関してはむしろ自分の好きな物を好きな時に作れるとあって本人は全く問題としてなかった。


 ――ちなみに最高級レベルは、毎日自室へ料理が運ばれてくる。更に学院に直結である。どんなVIP待遇だ、と言いたい。引きこもりになりかねない気もするが。


 兎にも角にも。


 付け合わせのトマトを形よく切り、サラダを千切り、そしてメインの焼いた鳥肉にソースをかける。パリっと焼き上げた皮にソースがかかると僅かにじゅっという音がして食欲をそそる。

 別の鍋にはスープだ。火魔石が埋め込まれたそのコンロの様な物は魔素を流し込む事によって発熱する。さすがは魔術学院、高級品でもある魔石を使うとは盗まれる事を想定していないとも言えよう。

 その魔素量を調節し、ことことと煮込んで大量の屑野菜と鶏ガラで出汁をとり、そして同様に煮込み上げとろとろになった玉葱が入ったスープ。黄金色に染まったその透明度の高いスープは自慢ではないが、食堂のスープより俄然マシであるとスオウは自画自賛する。なんせこの部屋にはあり得ない程の香辛料が揃っている。現代社会の味に慣れてしまった舌は妥協を許さないのだ。ひとくち口に含み、満足げに頷いた部屋の主、スオウ・フォールスはそれを用意していた“3つ”のカップへとよそい、そして盆の上へと乗せた。


「おーい、持ってくの手伝ってくれ」


 キッチンから部屋へと声をかける。

 生憎とメインの鶏肉のソース和えとスープ、そしてパンが入った籠を一人で持っていくのは無理だ。

 ちなみにパンは朝市で買ってきて、その後の朝食で余った物と授業の終わりに商店街へと寄って買ってきたのが有る。


 声をかけた事に直ぐに反応して顔を出したのは黒髪の少女、スゥイ・エルメロイだ。

 無表情顔が僅かに喜ばしげに見えるのは気のせいではないだろう、嬉々としてメインの皿を掴み、部屋へと運ぶ。

 そして、もう一人、腰にかかる程の金の髪を揺らしながら顔を出した少女、リリス・アルナス・カナディルが不満げにこちらを見ながら手を出してきた。


「ふん、私に運ばせるとは……」

「文句が有るならお前の分は無しだ」

「ぐっ……」

「大体、なんでお前が居るんだよ」

「……ぐぅっ」


 もはや敬語の片鱗すら見せなくなったスオウの対応。ぎりぎりと歯ぎしりでもしそうな表情でパンの籠を引っ掴んで持っていくリリス。

 その様相にはぁ、とため息をついて盆を掴み、そしてスオウは隣の部屋へと向かった。


 スオウが今住んでいる寮は3つの部屋と1つのダイニングがある。キッチンと風呂、トイレ――なんと水風呂ではなくお湯が出るタイプだ、湯船につかる習慣は無いため湯船はとても浅いのだが。トイレも毎日業者が回収に来るタイプではあるが、十分すぎる程である――も入れれば正確には3LDKといったところか。正直フォールス邸になれたこの身としては有り難いとスオウは一人ごちる。

 ダイニングは今料理を運んできた場所で、真ん中からやや左に置いてある大きめの木製の机――最初は小さいのにしたのだが人数が増えたため大きくなった――に椅子が4つ置かれており、既にその二つは埋まっている。

 そこから左手にいけば玄関で外に出るが、まっすぐいけば寝室となっており、所狭しと並べられた魔術書とベットが置いてある。

 それ以外にもスオウがクラウシュラの完全記憶能力を使って図書室の秘薬の知識を写し取り、バイト紛いの事をする為の作業室がある。これで2部屋、そして最後の1部屋はなぜかスゥイの私室となっている。


 入学して2週間。スゥイがこちらの部屋に来たのが1週間前。入学して1週間で部屋を解約したヒトはきっと前代未聞だっただろう。いや、あるいは不祥事を起こして、などであるかもしれないが。


「ほら、スープだ」


 声をかけて各自の目の前へと置いていく。

 不満げだったリリスの表情も鳴りを潜め、椅子に大人しく座っている。

 こういう所は王族らしく、食事のマナーはあり得ない程しっかりしている。本で読んだ知識と同様で、どうやらこの世界のマナーも英国のマナーに近い物があった。音を全く立てずにスプーンで掬い、スープを飲むリリスはその姿と仕草が相まってまさに王女、と言った感じだったが。ズズズ、と音を鳴らしカップに直接口を付けて飲むスオウで全てが台無しになったのは記憶に新しい。


 その時は怒られたのだが、ここはスオウの部屋であり、スオウが主であり、文句が有るなら出て行けと言うだけで話は済んだ。が、ぷるぷると震えて真っ赤になっているリリスを見て考え直した。14歳の少女相手に何をムキになっているのか、と。そしてその後スオウが妥協案を出して落ち着いている。


「ふふん、お主の作るスープは絶品だからな。これが楽しみで来ている様なものよ!」

「現金な奴……」

「なんか言ったか?」

「なんでも」


 はぁ、と再度ため息をつきながらパンをスープへと浸けて齧る。

 スープの旨味がじゅわり、と口内に広がり、パンがそれを確りとささえて旨味を持続させる。

 朝買ったパンの為僅かに固くなってはいるが、これはこれで美味い。

 そしてメインの鶏肉はパリっとした皮とソースの甘みが合わさってこれもまた美味い。米が無いのが悔やまれる。


「お前いいかげん食堂で飯を食えよ」

「うっ、良いではないか……。あそこは気疲れする故……。ここは気楽で良いのでな」

「俺の部屋なんだが……」

「まぁ、良いではないですかスオウ。御陰様で要らぬ不満をぶつけられたり、要らぬ嫉妬を受けたり、要らぬ揉め事が起きそうになったりしていますけど、それらを予測して断ったスオウの考えが全て台無しになった事が私的には痛快で満足です」

「お前はこの状況で両方に喧嘩を売るのか……」


 ひくひく、と口元が引きつるのを感じながら隣でもくもくと口を動かしながらパンを千切ってスープへとつけ込んでいるスゥイを睨む。対面のリリスもひくひくと口元が引きつっているのが視界の端に映った。


「何ですか?」

「いや、なんでも」


 はぁ、と3度目のため息をついた。

 スゥイが同室になった事に対しては然程問題は無い。いや、問題は有るのだが、元より恋人関係である、という体裁で動いている為対外的には大きな問題にはならないだろう。子供でも出来れば大きな問題になりそうだが、そも、そんな事はあり得ない。実際はただの利害関係で繋がっている間柄に過ぎない為だ。


 問題は対面で優雅にスープを飲んでるリリスだ。こうなったのはそもそも最初にリリスをばっさりと断った事から始まった。

 断った事がプライドに触れたのかどうか知らないが、その日からリリスの追求が始まったのだ。迷惑な事この上無い。


『既に注目されてしまっている状態です、大人しく受け入れた方が無難でしょう。何より彼女の傍に居た方が監視はやりやすいですし』

『大前提はアルフロッドだぞ?』

『ですがリリス王女もルナリア王女よりお願いされたのでは? 一緒に居た方が楽なのは確かです。その分面倒事も付くでしょうが今更でしょう』

『そっちは子飼でやってくれって話なんだがな』


 数日前のスゥイとの会話。事有るごとに突っかかってくるリリスを訝しみ、あらゆる方面からスオウとスゥイは目立っていた。本当に御陰様で、という枕詞が付く程に。


 そして気が付いたら夕食を同席しているという事だ。

 本人が言うには大食堂では完全な姫様扱いで気疲れするとの事だが、それは当然だろうと思う。本人としてはそういう学生生活を夢見ていた訳では無い様で、本当に我が侭な姫さんだなと思わないでも無い。国民の血税で通っているんだから多少は文句を言うなと喉元まで出かかったが飲み込んだ。彼女も彼女なりの苦労があるのだろう。


 そう、その苦労で思い出したが、アルフロッドとの婚約をさせられたらしい。今の所延期になっているが、まぁ無難な方法とも考えられる。加護持ちであれば、王族と同様何人もの妻を娶る場合が多い。リリスは恐らく正妻と言った所か、王族として、そして同じ加護持ちとして国に繫止めるという意味ではベスト、ライラはコンフェデルスへの体裁、あとは国内の貴族から数人出せば丁度良いくらいだろう。その中であまり力を持たれると困る貴族を排斥するのがスオウの仕事とも言える。だがしかしルナリア王女のやり方には少々疑問を覚えるのだが。


「他人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ぬというが、この場合も適応するのだろうかね」


 パンを千切りながらふと呟く。

 怪訝な表情を二人から向けられるが知った事ではない。


「いいかげんアルフと仲直りしておけよ、まぁ基礎講義の授業で感じられるあの緊張感のお陰で全員の効率が上がってる様だからそれはそれで良いかもしれないが」


 対面へ座るリリスへと言葉を放る。それに対するリリスは苦虫をかみつぶした様な顔だ。


「講義を聞かないで他の作業をしていたヒトの言葉とは思えませんね」


 そして予想外の所から口撃が来た。

 正直あのレベルの基礎講義は5歳の時に終わっているのだ、それならば他の作業に時間を充てた方がマシである。

 勿論褒められる行為ではない事は理解しているが。


 スゥイの追及をソースの絡めた鶏肉を頬張る事で返事とし、自画自賛の出来映えに舌鼓を打つ。

 だてに大学生かつ一人暮らしを満喫していない。この世界に米が未だ見つからないことと醤油がまだ出来ない事だけが問題だが、いずれ見つかる事、完成する事を期待して今は我慢するしか無い。さすがに麹黴の作り方まではクラウシュラも知らなかった。


 数刻後、出された料理を全て食べ終えたスオウ、そしてスゥイとリリス。スオウは作業部屋へと籠もり、小遣い稼ぎでもある秘薬と魔術刻印の刻まれた細工品作製へと入り、スゥイとリリスは食器洗いへと勤しんでいた。一国の王女が食器を洗う等、取り巻きの連中が見たら何と言う事やら、想像だにしたく無い事ではあるが、無料で飯を食わせる程スオウも博愛行為にあふれている訳ではない。


 リリスもリリスで最初は渋っていたが、なんだかんだで楽しんでいる様だ。知らない事、やった事が無い事、それらはヒトの知的探究心を刺激し、好奇心を満たす。彼女にどのような心境の変化があったかは知らないが、無駄に敵対行為を取らないのであればそれに越した事は無いし、自分の仕事が減る分には良い事だ、とスオウは一国の王女を皿洗いさせている事に全く以て後悔してなかった。


 この場を見られる事によってなんだかんだと難癖付けられる事は避けたいとは思っているが。


 故に、スオウはこの部屋に呼んだ事があるのはリリスだけだ。いや、違う、入れざるを得なかったのはリリスだけだと言うべきだろうか。まぁスゥイは勘定には入っていないが、兎に角スオウは彼女以外極力余分な干渉を控えたいと考えていた。


 だからこそ――


「4日、さてそろそろ十分だろう」


 作業部屋に設けられている窓、外はもう月が昇り闇夜に沈む夜の時間。

 乱暴に開けられるその窓、そしてスオウはそこから一気に外へと飛び出した。


 ○ 


 ブランシュ・エリンディレッドという少女が一人居る。

 彼女はAクラス在籍ではあるが、クラスメートからすれば彼女が何故Aクラスなのか最初は首を傾げるだろう。

 何故ならばその仕草はゆったりとしており、たまに膝やら肘やらを机にぶつけて悶絶しているのを見る事が出来る程どんくさく、喋り方はゆっくりとゆったりと、良く言えばほんわかとした女性。悪く言えば要領の悪い女性。しかしながら、その知識は相当であり、クラスメートの大半は恐らくそれが理由でAクラスなのだろう、と考えていた。


 そんな彼女は朝が弱く、ずるずると布団から這い出る様に抜け出して一日が始まるのだ。

 ウェーブのかかった肩口までの長さの紫の髪は寝癖でぐちゃぐちゃになっており、そしてその半場寝ぼけた表情は口から僅かに涎が垂れかけている程酷い。


「うぅー、ぅー、あさー、あーさーだーよー」


 もごもごと口を動かしながら目を閉じたまま頭を揺らしながら何事かを呟くブランシュ。

 自分自身に朝だと理解させて目を覚まさせようとしているのか、果たして本当の所は不明だが、ぶつぶつと呟くブランシュはやがて力つきたかの様に床へと倒れ込み、そして盛大に頭を打った。


「いーたーいー、よぉー……、うぅー」


 すりすりと頭をさすりながら涙目で床を睨む。

 何も床には罪は無いというのに。しかしながら御陰様で目が覚めたブランシュはのそのそと幽鬼の如く立ち上がり、外の井戸へと向かう。木製の扉をあけて廊下へ、寮の一角であるその場所からゆらゆらと歩く彼女の姿。そしてその彼女の姿を見かけた同期の生徒は挨拶をしようとしかけ、ぎょっとした表情を浮かべて走り寄って来た。


「ちょっちょちょちょっとー! ブランッ、部屋に戻って、アンタなんて言う格好して外に出てきてんの!」


 然もあらん、今のブランシュの格好は寝起きとはいえ酷い物だった。

 上着は半場ズレ落ち、谷間どころかもう少しで先端が見えそうな程であり、下はパンツ1枚と来た物だ。

 流石にココは女性しか居ないフロアとはいえどこのまま外に出れば大騒ぎになる事間違いない。

 この学友の女性はそれを見逃す程冷たくは無かった。


「ふぇー、ぇー……、ぁー。おーはよーぉー」

「はいはい、おはようおはよう。ほらいいから早く着替えにいくよ!」

「うぅー、ねーむいー」


 こしこしと目をこすりながら見上げる様に学友を見る彼女に呆れた表情をしながらその女生徒はブランシュを部屋の中へと押し込む。しかしそこで終わらない。なんだかんだで1週間以上の付き合い、このまま部屋に押し込んだだけでは2度寝する事間違いないと知っているため一緒に部屋の中に入り、服を着せる。


 そしてもそもそと服を着るブランシュを確認したその女生徒はため息をついて部屋を出て行った。

 これがブランシュ・エリンディレッドの朝の通例行事である。


 昼食。

 食堂で集まって食事をとるその光景はブランシュにとっては珍しい光景であり、そして食事の時間はブランシュにとっても幸せの一時でもあった。


 なにより、自分の仕事も含めてしやすい所でもあったからだ。

 学友に何となく誘われ、その場の席に着いたブランシュは様々な情報を仕入れる。

 彼女はルナリア王女より遣わされたリリス王女の護衛件監視役でもあった。


 没落貴族の長女であった彼女は金銭的な問題でそもそもこの学院に通える訳も無かった。だが、それがルナリア王女の目に止まったとも言える。権力闘争より排除できる存在であり、リリスと同年代、そして学院のAクラスに入れる程度の学力を持ち、本人に野心が無い。ルナリアにとってはまさにうってつけの存在だった。


 ほんわかとしたその態度に誰もが警戒を緩め、そして口も緩める。

 どこの誰が誰に惚れているだの、どこの父親が何かしようとしているだの、女の噂話は恐ろしい。

 リリス王女に関わる事だけに限らず、国内の情報収集も兼ねた形でのブランシュの仕事は重要度が高い。


「そうそう、あのスオウ・フォールスって男の話聞いた?」

「え? なになに?」

「リリス王女様のチームのお誘いを断ったって噂よ! 信じられないわ!」

「えぇぇー! 何それ、何様のつもりよ。リリス様に誘って頂けるだけで光栄だというのに!」


 やいのやいのと騒ぎだす一団。チームに入ったら入ったで文句を言うのだろうな、とこの時ブランシュは思っていたりしたのだが、表面上はにこにこと表情を浮かべてもそもそと食事をとっている。

 スオウ・フォールスの件はルナリア王女より聞いていたため然程警戒はしていなかった、が、まさか断ると思っては居なかった。それ以前にリリス王女が誘うという行為も予想していなかったのだが。

 少々情報収集する必要があるかな、と思っていた所で更に予想外の情報が入る。


「でね、こっからは本当かどうかわからないんだけど……」

「な、なによ改まって」

「……絶対に誰にも喋っちゃ駄目よ?」

「う、うん」

「リリス王女様がね、あの男の部屋に通っているっていう噂もあるのよ……」


 あの男、言うまでもないだろうスオウ・フォールスだ。食堂の一角が一斉に声を上げた事で他の生徒の視線が一気に集まる。

 そしてブランシュはこの噂はまずい、と思った。

 それが本当かどうかはわからないが、リリス王女はアルフロッド・ロイルと婚約中である。それは表立って発表されている物ではないが、宮廷ではほぼ決定事項として話は進んでいる。その状況で一生徒の部屋に通い詰めるなど問題がありすぎる。


 故にブランシュはその正否を確認する事、そしてこの噂の消火に奔走する必要が有った。

 いつもぼやっとしているその表情は一瞬で鋭利な物へと変わり移り、その噂の中心人物の探り当て、と、余計な仕事を増やしてくれたスオウ・フォールスに対して恨み言を数十回内心で呟いた後、ブランシュは食堂を後にした。


 そしてブランシュ・エリンディレッドはここ数日夜のこの時間、スオウ・フォールスの寮の傍で監視と洒落込んでいたのだ。

 幸か不幸か、スオウ・フォールスはスゥイ・エルメロイと同室であるという事実が有った為、それを流し、噂の鎮火に勤めた。スゥイ・エルメロイに会いにいく、チーム編成を断った事に対して抗議しにいくといった内容。自分でも無理が有るとは思ったがそれで納得してくれた者が大勢だった。そも、相手は王族であり加護持ち、一般的な恋愛価値観が当てはめられなくてもなんら不思議ではない。


 女性陣の大半の注目はアルフロッド・ロイルだ。そこまで引きずる程ではなかったのが功を奏した。


 ウェーブのかかった紫の髪が暗闇によって殆ど黒と同色の様に見えるその状況、木陰に潜み、リリス王女の退室を待つ。

 ここ3日見張っていたが、取り敢えず泊まっている事は無い様だと安心した。


 しかしながら――


「うー、美味しそうー……。うう、ひどいよー、私夕飯まだなのにぃー……」


 任務とはいえど辛い物は辛い。

 漂ってくる匂いがお腹の虫を鳴らしてくれる。

 しくしくと泣きながらも監視を続ける。仕事なのだ、仕方が無い。


「大体なんで中心街から離れてるのぉー……。暗いし、怖いし、うぅー、スオウ・フォールスぅぅぅ……」


 恨みを込めて呟く名。他の街に比べればストムブリート魔術学院の敷地内は圧倒的に治安が良いが、場所によっては圧倒的に治安が悪い。それはヒトの皮膚や内蔵が秘薬の原料になると信じて疑わないマッドサイエンティストや生け贄を用いて遣う魔術に傾倒する頭のおかしい魔術師が存在しているからだ。まさに魔都と言っても良いのではないだろうか。

 前任の学院長からその辺りの改革も大きく進め、危険度は大きく落ち込んだが、それでもあちらこちらに監視カメラが有る訳ではない。絶対的な物等何処にも無いのだ。


 しかしながらブランシュはこの任務に付くにあたって、ルナリア王女の子飼の間者、ニールロッドより技術を叩き込まれている。

 元より知識面ではそこらの魔術師が裸足で逃げ出す程、そして没落貴族という事もあり、自分で自分の生計を立てる為にそれを用いた魔獣討伐等の経験も少なからずあったブランシュはその様相と相反してそれなりの技能を持っている。


 学院指定のスカートの上に黒いローブを羽織っているので見えないが、その太ももには分解されている棍と、背にはその先の刃が括り付けられている。組み立て式のハルバートだ。強度に問題はあるが、彼女はそのリーチの長い武器を好んで遣う傾向があった。


 槍が好きなライラと共通項があるとも言える。


「あうー、おしっこ行きたくなってきた……。どうしよぅ……。うぅー、リリス様ー、早くかえりましょうよぉー」


 これが原因で毎日寝不足気味なのに、とヒトの所為にしながらブランシュは呟く。そも彼女が朝に弱いのはこれが原因ではない。単に弱いだけである。


 僅かに迫ってくる尿意と戦いながら、スオウの部屋を見上げる。と、何か動きがあった様で今まで暗かった部屋の明かりが点いたのに気が付いた。あそこは食事が終わった後点灯する部屋だと理解していたブランシュは食事が終わったのだと把握し、そろそろ自室に戻れる、と歓びをかみしめる。が、その瞬間窓が開け放たれ、何かが飛び出してきたのを視界に収めた。


「――なっ!」


 一瞬でローブが翻り、距離を取る。滑る様に太ももへと手を伸ばし、もう片方は背中の刃へと。

 瞬間組み上がるハルバート、物陰に隠れ、様子を見ようとした瞬間傍の木へと何かが刺さる音が耳に届く。刻印の刻まれた鉄杭が視界の端に。


「くっ――」


 気が付いた時にはもう遅い。

 閃光が辺りへと走り、眉を顰めるブランシュ。黒いローブで顔を覆い光から逃げるが一瞬だけ目に入ってしまった事により瞬間的な視界不良へと陥る。


 この後は偶然と言うべきか、それとも普段の鍛錬のお陰か、あるいはニールロッドによる叩き込みのお陰と言うべきか、自分の直感に従って振るわれたハルバートはその切っ先に僅かな感触を与え、迫ってきていた対象へと牽制できた事を理解する。が――


「えっ――」


 牽制ではなかった、その感触が手に伝わり、そのハルバートの“重さ”が変わった事を伝えたのだと理解したのは数秒後。

 既に閃光は納まり、しかしながら月明かりに照らされ宙を舞うハルバートの“刃先”を認識した時にはもう遅く、体はバランスを崩し後ろへと倒れ込む。そこへ来るのは問答無用の腹部への衝撃。叩き付けられる様に地面へと押し付けられるブランシュ。ぐぇ、という変な音が口から漏れるが生憎と相手はそんな事に躊躇してくれる様なヒトでは無く。


「さて、どこの手の者かな」


 首筋には剣、地面へと押し付け滑り込む様に流し入れたその切っ先は、自身の髪を半場切り落とし寸分狂いなく自分の首筋へと当たっている事を理解したブランシュ。見上げればそこには冷徹な目をしたスオウ・フォールスが居て、


「ひっ、ひぃっ、ふぇっ、う、うぅ。うぅー!」


 目尻に涙が溜まったのは仕方が無いとも言えようか。学院内での情報収集とリリス王女の監視、正直な所こんな圧倒的な命の危険に晒されるとは思っても居なかったのだ。それも味方だと思っていたスオウ・フォールスに、だ。彼女の考えが甘かった所は認めよう。しかしながら学院内で問答無用で女性を押し倒し、首元に剣を突きつけて脅す男が果たしていると思うだろうか。いや、実際はそう言う無茶をするヒトも居るのだが、その点に置いては彼女はちょっと楽観しすぎていた点は否めない。この件を期に彼女は心を入れ替えて常在戦場の意を示すのだが、この場では思わず驚き、そして初めての圧倒的実力差における命の危機に晒され、そして腹部への衝撃は決定的で――


「む……、この匂い……、アンモ……」

「う、うぅぅぅ……、うぇぇぇ……」

「……その、だ。すまん、いや、そうだな、取り敢えず部屋に来ると良い、食事も、着替えも、風呂もあるから……」

「ぐ、うぅ、ぅ、ひぐっ、……こ、殺す、スオウ・フォールス。絶対、殺すッ……!」


 顔を手で覆い、盛大にため息をついているスオウ・フォールスに全力で殺意をぶつけるのはやむを得ない事だった。


 ○


 最悪だ、と言えよう。

 警戒しすぎた、とも言えよう。

 だがしかし、4日間監視されていたのだ、あるいは他国の間者か貴族連中が弱みを握ろうとしてきているか考えるのが適当だろう。それに向こうから接触してこなかったのも悪い。普通リリス王女の監視役、護衛役なら予め互いの認識の擦り合わせの為に自己紹介くらいするだろう。こっちは誰かまでは教えてもらっていないのだから、向こうから来るのが筋と言うものだ。


 監視についても普段なら泳がせるのだが、面倒だしクラウシュラで記憶を覗けば早いだろう、と考えたのも早計だった。

 リリスの件でどうにも直情的になっていた事は認めよう。


 しかし、しかしだ……。


 なぜ、針の筵の様な形で3人から睨まれなければならないのだ。


 深夜に近い時刻、時間にして11時と少しと言った所だろうか。魔術の光で照らされた室内は明るいが、その空気は重い。

 備え付けられているソファーへどかり、と座っているスオウへと注がれる冷たい目線は3対。言うまでもないスゥイとリリス、そしてもう一人である。その最後の一人はスゥイの服を借り、既に風呂へと入り着替えを済ませている。


「なんだ、ほら、帝国の間者かもしれないとか思うだろ?」

「……ほぅ?」


 睨みつけてくるリリス。


「婚約してる女性が男の部屋に出入りするんだ、弱みを握られるかもしれないとか思うだろ?」

「……そうですか」


 色の篭らぬ目で見るスゥイ。


「自国に敵も多いんだ、多少過剰に考えていて損は無いと思うんだが、違うか?」

「……」


 無言で睨むブランシュと名乗った女性。


「悪かったって言ってるだろ。というかそもそも最初にそっちがリリス王女の護衛だって言わなかったのが問題だろう?」

「挙げ句の果てにヒトの所為ですかスオウ、見下げ果てたクソ外道ですね。相変わらずで安心しました、女性の髪は命と聞いた事はありますか?」

「女性を辱めた挙げ句、その対応とは。下衆にも劣るなお主、明日の言い訳を考えねばならんな……」


 ぐさり、と何かが刺さる様な音が自分の胸から聞こえた。

 14歳の少女を足で地面に叩き付けて剣を突きつけ脅す30過ぎのおじさん、挙げ句に彼女の髪の毛は半分切り落とされ不格好になってしまっていると来たものだ。これはもう決定的にアウトである。

 クラウシュラがナカで大笑いしているのが気に入らないが、兎に角この場を収めない事にはどうしようもない。

 どうしたものか、と頭を抱えた所でスゥイが助け舟を出してくれた。


「この腐れ外道は兎も角として、ブランシュ・エリンディレッド、貴方の正体もリリス王女に知れた訳ですしもう隠れて監視する必要も無いのではないですか? それとリリス王女、貴方も腐れ外道もといスオウが言っていた様に男の部屋に通い詰めるのは問題です。それで提案なのですが、折角なので二人ご一緒に住んでは如何ですか? 丁度良い事に隣の部屋が開いてますし」


 落ち込んでいるブランシュと未だにスオウを睨むリリスへと告げるスゥイ。

 隣の部屋が開いているのは当然だ、スゥイが退室したのだから。

 問題はリリスの部屋を勝手に変えてしまう事だが、それはブランシュから報告すれば有る程度は調整が利くだろう。

 スオウの部屋の隣という事もまた大きな問題になりかねないが……。


「その辺りの調整はやってくださいねスオウ。女性を辱めたのですから少しは働いて下さい」

「わかってる」


 軽く手を上げて返事を返すスオウ。釈然としてはいないが、流石に悪いとは思っているので動く事に不満は無い。


「そしてチーム編成もこれで組んでしまいましょう、スオウ、いい加減腹を据えて下さい。リリス王女もそれで宜しいですか?」

「それもわかってる」

「私も問題ない。が、その男と組むのは考え直したい所だが、な」


 ギロリ、と睨まれる視線にため息を付くスオウ。

 スゥイの提案は妥当ではある。リリスの部屋を隣にするにあたって同じチームであるというのなら話しはしやすいし、ブランシュも報告がしやすいだろう。

 今までのらりくらりと避けていたがどうやら限界の様だ。まさか自分のミスでこうなるとは思っていなかったが。

 と、ふと思った事をブランシュへと問う。


「……君は俺と一緒のチームでいいのか?」

「……良い訳ないー……、けれど他のチームに行かれてもこまるー……」


 うぇぇ、もう駄目……、髪は無くなるし……、男性の前で漏らすって、うぇぇ……。もうお嫁にいけないよ……。もうやだぁ……。と机に突っ伏して呟き泣くブランシュ。

 二人の視線が強くなる。思わず視線をそらす。

 だがまぁしかし、何となく言いたい事はわかった。相当に信用されていない事もわかった。仕方が無い事とはいえど釈然としない。

 チーム編成は出来上がったが、どうやらチーム内で早速孤立しそうな状況だ。

 そう思いながらスオウは諦めの境地へと至る。世の中本当に思い通りには行かない様だ。


 そして翌日チーム編成が提出される、スオウ・フォールス、スゥイ・エルメロイ、リリス・アルナス・リ・カナディル、ブランシュ・エリンディレッドの4名。

 もう一人入れようか、という話もあったが、スオウが余分に入れれば貴族間の牽制に罅が入る、とし保留に。

 部屋の変更に関してはほぼごり押しで、部屋の移動に難癖を付けるという事は学院が内政干渉を受けていると同義である、と告げただけだが効果は十二分にあった。

 しかしながら御陰様で学友には更に余分に嫉妬と敵意を向けられる事になったのだが。


「まぁ、これもこれで利用する方法が無い訳ではない、か」


 ふぅ、とため息を付くスオウが居たとか居ないとか。

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