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ビデオレター

作者: 矢沢馨

家族の絆、夫婦愛のお話です。私の小説ではどうかわかりませんが、ホッとしたい方、泣ける小説を読みたい方にお勧めします。

 早く再婚でもしたら。これは最近の母の口癖だ。

 親はいつまでたっても子どもの心配をし続けると聞く。僕は今年で三十一歳なのだが、娘が同じくらいの歳になっても僕は娘のことをずっと心配し続けるのだろうか。

 今でも充分すぎるほど娘のことを心配しているし、生活と育児に追われて僕には未来を想像する余裕がない。

 口数が少ない父も、あれから三年近く経つんだなぁと、孫であり僕の娘であるヒカルを抱きかかえて、そういうことを言う。

 それは暗に、早く再婚してヒカルに新しいママを、と言っているのだと思う。それは僕にだってわかっている。母親はいたほうがいいに決まっているが、再婚というのは簡単なものではない。

 僕が小学生のとき、同級生に両親が離婚してしまった子がいて、仕事のせいで参観日に母親が来ないと悲しがっていた。事情は多少異なるが、このケースは僕ら親子と似ている。僕も参観日のために仕事を休むのは難しい。

 このままヒカルと父一人子一人で歩んでいくのかなと思うとき、ヒカルと当時の同級生の顔がダブッてしまうことがある。パパは一度も私の参観日に来たことがない。そう言って泣くヒカルの顔だ。

 その他にも、母親がいないことによってヒカルに色々と寂しい思いをさせてしまうかもしれない。今はお祖母ちゃんが母親代わりとなっているが、それも限界があるんじゃないか。同じ血が流れていても、やはり母親には敵わないと思う。


 妻の玲子は三年前、細かく言うと二年九ヶ月前に亡くなった。

 玲子は生まれつき心臓が弱く、死因も心疾患だった。

 交際スタートから結婚までの間に、ネットや直接医師のところに出向いて情報を得たところ、性行為には軽度の運動と興奮、血管拡張、多呼吸などを伴うが、重症とされる疾患でも正常な性行為であれば、心臓の状態の悪化、急変などは起こらないとのことだった。

 しかし、玲子には数種類の不整脈が存在していて、それらの不整脈は経時的に悪化することもあり、妊娠による負荷のために急激に悪化する可能性もあると知った。

 もしも僕と結婚せずに、ヒカルを出産しなかったら、玲子はもっと長く生きられたかもしれない。妊娠・出産は、心臓の弱い玲子にとっては非常に危険な行為だったのだ。それでも妻は僕との子どもを産みたいと言ってくれた。

 子どもを設けることは夫婦にとって最大の賭けだったが、宝物を残して玲子は逝ってしまった。ヒカルがまだ生後三ヶ月のときだった。

 ヒカルが誕生し、夫婦が最も懸念していたのは、ヒカルにも心臓の病が遺伝していないか、というところだった。幸いに、とでも言っていいのだろうか、ヒカルの心臓は健康そのものだった。

 公園に連れて行くと、成人の僕がダウンしてしまうぐらい走り回るし、転んで膝を擦りむいても泣きもせず、短い足でトテトテと鳩の後ろを追ったりする。何度首輪をつけてやりたいと思ったことだろう。

 ヒカルのこの元気な姿を、玲子に見せてやれないのは非常に残念だ。

 娘は母親の顔を覚えているのだろうか。激しい夜泣きをすることはあるが、母親不在の寂しさを訴えることはしなかった。僕の母がヒカルを世話してくれているから、寂しさも半減しているのかもしれない。

 だがそれも今のうちだ。幼稚園に入る年頃になれば、あれ、私は他の家と違うぞと思うだろう。そういう時期が来たらきちんと写真などを見せてあげ、この人がヒカルのママなんだよ、パパが世界で一番好きな人だ、でも死んじゃってママとはもう会えないんだ、と教えるつもりだ。果たして娘は母親の死というものを理解できるだろうか

 話は戻るが、そういったことよりもやはり再婚してヒカルに新しい母親を与えるのがベストなのだと思う。それは、とても難しいことだけれど。


 天気のいい朝だった。いつもどおり僕とヒカル、僕の両親の四人で朝食をとり、出勤の準備をしていたときだった。これは僕の躾で、ヒカルには自分の使った食器は自分で片付けさせている。

 キッチンで洗い物をしている祖母に食器を渡した後、ヒカルはトコトコとテレビまで歩み、ビデオデッキの前で座り込んだ。その下の段にあるビデオラックを指差し、「パパ、ビデオ」と言った。

「ヒカル、ビデオ観たいの? じいちゃん観たいテレビあるんじゃないの?」

 父は新聞に落としていた目を上げ、老眼鏡越しに僕らを見ながら言った。

「いいよ、じいちゃんあとで出かけるから。アキヒコ、観させてやりなさい」

 僕は本棚から「天空の城ラピュタ」のDVDを取り出した。ヒカルの一番のお気に入りで、三日おきに再生しているのだが当の本人は全く飽きもせずに観る。プレイヤーにセットしようと思ったら、「パパ、ビデオ」ともう一度言った。

「なに、ラピュタじゃないの? ナウシカのビデオは壊れちゃったでしょ」

 ヒカルは頭を振った。

「ちがうの、ビデオなの」

「ワンピースがいいの? ビデオはあとドラえもんかちびまる子ちゃんしかないよ」

「ビーデーオーなーの」

 これは困った。もうすぐ三歳だからある程度喋れるのだが、いかんせんボキャブラリーが少なすぎる。もしかしたら母親なら理解できるのかなと、また意味もなく落ち込んだ。ヒカルの言葉の翻訳に悩んでいると母が助けてくれた。

「あとでレンタルビデオに連れて行くよ。なんか違うアニメでも観たいんじゃないか。私がなんとかするからあんたは早く着替えなさい」

 毎朝恒例となった行ってきますのキスをしても、ヒカルはどこか上の空で、ビデオラックを見ながらまた「パパ、ビデオ」と呟いた。なにかが引っかかってしょうがなかったが、時間も押しているので僕は家を出ることにした。

 

 玲子と僕は同じ高校に通っていて、玲子のほうが二年先輩だった。卒業式の日に、僕から玲子に告白して付き合いが始まった。玲子とは美術部で知り合った。

 校則で生徒は必ずなにかの部活に所属しなければならなくて、僕は運動も苦手で頭もそれほど良くないから文科系も敬遠した。

 唯一残ったのが座っていて適当に絵を描いていればいい美術部だけだったのだ。なにしろ僕の美術に関する造詣は水不足にあえぐ川よりも浅いのである。

 他の部員も僕と同じ目的で入部したらしく、絵筆を口に咥え時間を持て余しているやつらばかりだった。

 そのなかで、一人だけ真剣に絵と向き合っている玲子は新鮮に写った。彼女の父、つまり僕の義父にあたるのだが、サラリーマンをしている傍ら絵を描き続け、小さいながらも個展を開くような人だった。

 娘を失い、会社も退職した今は、車で飯能まで行って秋には紅葉の風景画を描いたりしている。

 玲子はそんな義父から厳格に、そして優しく育てられた。どこか浮世離れした美意識の持ち主で、付き合い始めてから結婚して亡くなるまで、妻は僕のことを「きみ」とか「アキヒコくん」と呼び続けた。上から見下ろすような「あんた」とか、なになにちゃんという愛称で人を呼ぶのは嫌いだったみたいだ。

 その反面、彼女は思いやりがあり常に謙虚な人で、社会に出た僕のことを支えてくれた。

 いつも顔色が悪く、階段を上り下りしただけで息切れを起こしていたので、体の弱い人なのだろうなと思っていたけど、心臓に病を抱えていると知ったのは付き合ってから半年ほど経ってのことだった。そのときの僕には知識が全くないせいもあって、玲子の人生は残り少ないんだと勝手に思い込んでしまった。

 それならば、と思い、玲子の人生を背負えるようになるまで僕は彼女のそばにいようと決めたのだった。お互いにとって最初の異性であり、玲子にとっては僕が最後の異性となってしまった。


 五時の終業のベルが鳴ったので、僕は帰り支度を始めた。玲子の病状が悪化し、ヒカルが物心ついてからは残りの仕事を持って帰って家で残業することにしている。なるべく家族との時間を作りたいからだ。部長も僕の家庭の事情とかそういったことを理解してくれている。

 ホールでエレベーターを待っていると、同じ人事課に所属する栗山ミドリに声を掛けられた。歳はたしか僕の三つほど下だ。

「お疲れ様です、高橋さん」

「ああ、お疲れさん」

「もうお帰りになられます?」

「うん、そうするつもりだけど、どうして」

「よろしかったらなんですが、駅前に新しいカフェがオープンしたみたいなので、ぜひご一緒したくて」

 栗山ミドリは丸い目で控えめに僕を見上げている。先週の金曜日と少し雰囲気が違っているから、休みの日に美容院へ行ったのかもしれない。

「栗山さん、髪型変えたかい」

「そ、そうなんですよ、ちょっと前髪切っただけなんですけど、おかしいですか」

 後輩の女の子は肩に垂れている毛先を指でくるくる回しながら言った。耳が赤くなっていて、目も少し潤んでいる。

「おかしくない、とても似合っているよ」

「嬉しい、それでどうでしょう、少しだけでいいから付き合ってもらえませんか」

「コーヒー飲むだけ?」

「はい、ちょこっとお話しするだけで」

 僕は栗山ミドリから目を離し、考えた。今朝のヒカルの様子が気になっていた。娘は明らかに僕になにかを訴えていた。祖母が解決してくれているだろうか。

「わかった、いいよ、娘が待っているからあまり長い時間はいられないけど」

 栗山ミドリはホッとしたような笑顔になって、もちろんですと言った。彼女は僕の事情を知っているし、彼女が僕をどう思ってくれているのかも知っている。

 祖母の、早く再婚でもしたら、という声が蘇ってくる。

 栗山ミドリは若々しく、顔も美人の部類に入る。よく気が利くと上司の評判もまぁまぁのものだった。玲子の葬儀も彼女は手伝ってくれたし、ショックでテンションが落ち込んでいる僕を懸命に慰めてくれたのも彼女だ。

 大げさだが日常生活に戻ってこれたのはヒカルと両親と、この栗山ミドリのおかげだと思っている。だがそれと彼女との再婚を結び付けるのに、僕はまだ至っていない。正直な話、僕はまだ死んだ妻のことを忘れられない。

 今日のように、栗山ミドリから誘われることは何度もある。してはいけないことなのだが、どうしても彼女と妻を比較してしまう。食事をしているときも、玲子はこんなときお絞りを差し出してくれたとか、玲子は待ち合わせに遅れたことなど一度もなかったとか、そういったことだ。

 口にはもちろん出さないが、彼女は薄々感づいているのかもしれない。近頃僕に対しての積極性が薄まってきている感じがする。それならそれでいいと、僕は思っていた。まだ妻のことを引きずっている男なんか忘れたほうがいい。

 玲子を失ったとき、僕はとてつもない無力感に襲われた。乳児のヒカルを抱き、遺影の前で数時間以上座り込んでいたこともあった。おそらくうつ病になる一歩手前まで行っていたのだと思う。

 喪失感に押し潰されないよう、ヒカルを自分の手で育てるのだという課題を自ら設定し、それだけを目標に僕は突っ走ってきた。がむしゃらに働くと、寂しさは一時的にだが軽減される。

 休日にヒカルと二人で過ごすとそれだけで疲れた体が癒されるが、ぽっかり空いた心の穴はなかなか埋まらなかった。ヒカルは間違いなく僕の宝だ、娘の存在が僕の支えなのだ。だが玲子とは十年以上、いつも一緒にいた。隣にいるはずの人がいない。それはとても深く悲しいことだ。


 会社の外に出て、栗山ミドリを少し待たせて家に電話することにした。三回ほどコールした後、母が電話を取った。

「高橋でございます」

「もしもし、僕だけど」

「あらお疲れさん、帰ってくるんでしょ」

「うん、同僚とコーヒー飲んで帰るから、少し遅れるかな」

「なによ、女?」

「どうだっていいだろ」

「早めに紹介しなさいよ」

「違うってば、それはそうと、ヒカルはどうした、ビデオ借りてきたの?」

 受話器の向こうがしばし沈黙する。僕はなんかいやな感じがした。

「それがねぇ、おかしいのよ」

「なにが」

「レンタル屋に行ったことは行ったんだけど、なにも観たくないらしいのよ。そしたら泣いちゃって、パパのビデオ観るってうるさかったんだから」

「なにそれ、どういう意味」

「わかんないよ、あれからビデオデッキのほうずっと見てて、指差しながらビデオビデオ、パパのビデオって言うの、どうしちゃったのかしら、ヒカルちゃん」

 電話を切って、僕は立ちながら考えていた。ヒカルはなにを訴えかけているのだろう。寂しさだろうか、それとも不満や不安だろうか。栗山ミドリには申し訳ないが、早く帰ってヒカルの様子を見てやりたかった。娘の具合が悪いらしいんだと告げると、彼女は一瞬残念そうな表情を浮かべ、すぐにしょうがないですねと言った。

「具合が悪いって、風邪なんですか」

「わからない、とにかく帰ってやらないと」

「そうしてあげてください」

「すまない、明日か明後日にはコーヒー飲むから」

「私なら平気です、娘さんを優先してください」

 池袋の駅から西武池袋線に乗った。僕はひばりが丘で、彼女は手前の石神井公園で降りる。帰宅時間はいつも混んでいるので僕らはつり革に掴まりながら喋っていた。電車が揺れるたび、栗山ミドリからシャンプーの香りがする。

「もうすぐ奥さんの三回忌ですね」

「そうだ、早いもんだ」

「私もお線香をあげさせてもらってよろしいですか」

「いいよ、両親と娘と一緒で悪いけど、車で墓地まで行こうか」

「いいんですか」

「栗山さんには手伝ってもらったからね、お世話になったから」

「そんなこと、いいのに」

 彼女は少し唇を尖らせた。なにか気に障ることでも言っただろうか。昔、玲子に、あなたは女性の気持ちに鈍すぎると説教されたことがある。車内アナウンスがまもなく石神井公園駅に到着しますと告げた。

「お疲れ様でした、娘さんのそばにいてあげてくださいね」

「うん、栗山さんも気をつけてね」

 電車が停まり、出口のドアが開く直前、栗山ミドリはぽつりと言った。

「高橋さん、あの」

 言いづらいのか、小声で消え入りそうだった。

「奥さんのこと、まだ愛してらっしゃいますか」

「えっ?」

「高橋さんの心に、私が入れるだけの隙間はありませんか?」

「どうしたの、突然」

 僕は動揺してしまった。栗山ミドリは発車ベルでハッとし、僕と同じように焦った顔になって手を振った。

「ごめんなさい、なんでもないです、忘れてください」

 そして「お疲れ様です」とお辞儀をして、半分ほど閉まりかけたドアから滑るようにして降りた。発車して姿が見えなくなるまで、栗山ミドリはホームに立って僕を見つめていた。心臓の高鳴りが止まらなかった。

 さきほどまで彼女は僕の左横に立っていた。

 つり革を掴んでいる左手の薬指には、玲子と交換した指輪が光っていた。


 家に帰ると、ヒカルは泣きつかれて眠っていた。襖を開けると、光が細くなって入り込んできたので寝ている娘は身をよじった。目尻と鼻の頭が赤くなっている。額にそっと手をやると、泣いていたせいで体温が高い。じっとりと汗をかいている。背後で様子を見ている母が言った。

「さっきまでずっと泣いていたの、パパのビデオ、パパのビデオって」

 母はため息をついて、僕の横に座った。

「アキヒコ、あんた心当たりないの?」

「心当たりって、なに」

「うん、たとえばさ、昔観たビデオを思い出して、それを探してくれって意味なのか、撮っていて忘れたアニメとかないの?」

「覚えてないよ、そんなの」

「私もラックから色々なビデオ取って再生したんだけど、違うみたいでね。DVDも同じだった、子どもにはビデオとDVDの区別つかないだろ、そうかと思ったんだけど」

「わかんないな、だいたい観ながら撮るからな」

「それより、あんたデートだったんじゃないの」

「なんだよ、それよりって、ヒカルよりデートのほうが大事か」

「そんな意味じゃないよ、まぁデートなんかいつでもできるからね、風呂入ってご飯食べて、ヒカルと寝てやりな」

「ヒカルはメシ食ったのか」

「まだだよ、腹減ったら起きるでしょ」

 ビールを飲みながら両親と三人で食事をしていても、ヒカルは目覚めなかった。夜中に起きたらどうしよう、食べさせてもいいのだろうか。食事のときも風呂に入っているときもずっとヒカルのことを考えていたので、布団に潜って一息つくまで、栗山ミドリのことは忘れていた。彼女はたしかこう言っていた。

「奥さんのこと、まだ愛してらっしゃいますか」

「高橋さんの心に、私が入れるだけの隙間はありませんか?」

 鈍い僕にもわかる、あれはきっと、気持ちを見せないでなかなか振り向かない僕に対する苛立ちから出た言葉なのだと思う。

 このままいいようにかわし続けていたら、彼女は僕のところから離れていくだろう。

 解放された、というよりも、僕って男は本当に情けないな、という気持ちのほうが強かった。栗山ミドリは、学生時代に保母さんのアルバイトをしていたらしい。以前彼女と昼食をとっていたときにそう聞いた。美人で気が利いて子どもの面倒見がいいとなると、再婚相手にはうってつけなのだろうが、僕はどうしても踏み切れないでいた。

 僕は亡き妻に、君が死んでもずっと一緒だと告げた。一緒に死にたい、という意味ではなく、たとえ肉体が消滅しても心は変わらないという意味だ。

 玲子は僕に命を預けてくれたし、僕も玲子にできるだけのことは尽くしたつもりだ。三年で心の傷を回復させ他の女性を愛せるほど僕は強くない。

 中途半端な気持ちで栗山ミドリと接していたら、振り向かないでいるよりもそっちのほうが彼女に対して失礼なのではないか、余計傷つけてしまうんじゃないかと思うのだ。

 この先ヒカルにもっと寂しい思いをさせてしまうかもしれないが、僕は栗山ミドリとも他の女性とも再婚するつもりはない。と言うよりも、できそうにない。僕は玲子の意思を継いでヒカルを育てようと決めたのだ。このまま親子二人で二人三脚で歩いていこうと思っているうちに、僕は眠りに落ちた。


 寝返りをうって薄目を開けると、隣で寝ているはずのヒカルの姿がなかった。寝ぼける間もなく、僕はガバッと布団から起きた。

「ヒカル……、ヒカル?」

 あの小さな体はどこにもなかった。トイレにでも行ったのだろうか。それはないと思った。ヒカルは夜一人でトイレに行けない。必ず僕か祖母を起こして一緒じゃないとダメなのだ。

 キョロキョロしていると、襖が三センチほど開いていて、隙間からリビングの光が漏れていた。テレビの砂嵐のサーという音が聞こえる。

 まさかと思って襖を開けると、リビングのテレビの前でヒカルがチョコンと座っていた。僕はホッと胸を撫で下ろした。多分お腹が空いて起きたのだろう。

「ヒカル、ご飯食べたいの? でももう遅いから朝まで我慢できる?」

 僕は面積の狭い娘の背中に向けて言った。ヒカルは振り返り、なにかを求めているような目で見上げた。砂嵐の音がうるさいのでリモコンに手を伸ばすと、ヒカルが「パパ、ビデオ」とまた始めた。

「だめだよ、もう遅いでしょ。ビデオはまた明日だよ」

 娘の申し出を聞かずにテレビのスイッチを消すと、リビングは一気に暗くなった。寝室へ漏れていた光はもっと強いような気がしたが、きっと寝ぼけていたんだろうと思った。寝かしつけようと思って抱き上げると、娘は「ビデオ、あったの」と意味不明なことを言った。そしてまた「ママ言ったの、パパのビデオあるって」と続けた。

 僕の思考と体は固まった。僕の顔と四センチほどの距離にヒカルの顔がある。幼児独特のミルクの匂いのする息が僕の鼻にかかった。

「マ、ママって?」

「ママ、パパのビデオあるって、うしろにあるって。ヒカル観たいな」

「ビデオあるって、ママが言ったの?」

 ヒカルはニコニコしながら頷いた。そしてビデオラックを指差した。

「パパのビデオ、ヒカルとパパと二人で観てって、ママ言ったよ」

 僕は訳がわからなかった。それよりも、初めてヒカルの口からママという単語が出たので、そっちのほうに驚いた。

 ヒカルが最初に覚えた単語はマンマで、それは一般的にはママとご飯の両方の意味を持つ単語だが、母親を知らないヒカルにとってはご飯という単一の意味だったはずだ。そう思っていた。

 玲子に関する情報、たとえば玲子が写っている写真やビデオなどはヒカルの目に触れさせなかった。僕は母親の存在を隠し続けていたのだ。可哀想だとは思うが、母親不在の現実を教えるにはヒカルはまだ幼すぎる。

「なんで、ヒカルはママを知っているの」

「うんとね、寝るとね、ママいつもいてくれるよ。いーっぱい遊んでくれるの。ヒカルね、ママがいるから泣かないんだよ」

「ママが、いるのか?」

「いるよ、でもおしっこはパパかバァバに連れてってもらってねって言うの」

 僕は抱いていたヒカルを下ろし、リビングの明かりを点けた。僕は必死に娘の言葉の意味を理解しようとした。まだ大して言葉も喋れない娘が考えられる嘘とも思えない。娘はどうしたのと問いたそうな目で見上げている。

「ママが、ビデオあるって言ったの?」

「うん、あそこ」とヒカルはビデオラックを指差した。

「あそこのね、うんと奥だって。ヒカル取れないから、だからパパにお願いしたのに」

 娘はプクッーと頬を膨らませた。僕は考えがまとまっていなかったが、手はビデオラックに伸びていた。取っ手を引くと、縦十列にビデオテープが並んでいる。他のテープにはワンピースやドラえもんのラベルが貼ってあるが、一番後ろのテープだけにはなにもラベルは貼られていなかった。

 逆に、その真っ黒なテープは強烈な自己主張を示していた。僕もそうだが、母もこのテープに気づかなかったのだろうか。

 僕は胸騒ぎを覚えつつ、テープをデッキにセットした。デッキの電源は自動的についた。これは霊的なことでもなんでもなく、テープを入れると電源が勝手につく仕様なのだ。それをわかっていたが、僕はなぜかドキッとした。

「ヒカル、いいんだね、パパも一緒に観ても」

「パパのビデオ、パパのビデオ」

 ヒカルははしゃぎながらピョンピョンと跳ねている。テレビのスイッチを入れた後、僕は再生ボタンを押した。画面は一面灰色になった。そこに三本ほどノイズの波が走り、突然映像が始まった。僕の胸は締め付けられるようにキュンと苦しくなった。生前の玲子の笑顔が見えたからだ。

「ママー」

 ヒカルはいつの間にか僕の膝の上に座っていて、画面に手を伸ばした。玲子が生きていたとき、ヒカルは生後三ヶ月足らずの赤ん坊だった。

 驚いたのは、写真も見たことがないのにヒカルはどうして一目でママだとわかったのだろう。その乳児のときの記憶がまだあるのだろうか。

 テレビの中の玲子の背後にはベビーベッドがある。とても懐かしい代物だった。あれは乳児だったヒカルが世話になったベッドだ。玲子は淡いイエローのTシャツとジーンズという、過去に見慣れた部屋着姿だった。玲子は正座のまま明るい声で言葉を発した。

「えーと、ちゃんと撮れてるかなぁ。機械は苦手なんだよなぁ、まぁいいか」

 画面の中の玲子は生きている。ちゃんと呼吸もしているのだ。

「では始めます、アキヒコくん、ヒカル、お義父さん、お義母さんこんにちは。みんながこれを観てるってことは、私はもう死んじゃったってことだよね。ごめんなさい」

 画面の玲子はこちらに向かって頭を下げた。

「そちらの調子はどうですか。アキヒコくんは元気ですか、風邪とかひいてませんか。お義父さんとお義母さんもお元気ですか。腰はまだ痛みますか。ヒカルは今いくつかな、幼稚園かな小学生かな。それかもっと大きいのかな。すくすくと育ってるみたいでママ嬉しいです。がんばってヒカルを産んで、なんとか生きてるけど、多分無理っぽい。アキヒコくんの顔見て言えないから、ビデオに撮って告白します。私はもう三ヶ月も生きられません。あと数週間したら、入院すると思います。昨日、お医者さんにそう言われました」

 玲子は一旦区切り、天井を見上げた。彼女も死と懸命に闘っていたのだ。それが報われず、無念そうだった。できることなら今すぐ画面の中に飛んでいって、玲子を抱きしめてあげたかった。

「せっかくアキヒコくんと結婚してヒカルと出会えたのに、やっぱ悔しいわ、うん。でもこんな私にも子どもを産めたんだから、それができただけでも私嬉しい」

 玲子の言葉を遮るように、赤ん坊の泣き声がした。ヒカルの声だ。玲子はちょっと待っててと言いながら正面にセットされてあるカメラに手を伸ばした。一瞬画面が暗転して、戻ったときには玲子は小さなヒカルを抱えていた。僕は娘の肩に手を置き、「あれがヒカルの赤ちゃんのときだよ」と言った。ヒカルはどういうことと言わんばかりに首を捻った。赤ん坊の寝顔をカメラに向け、玲子は続ける。

「ヒカルー、観てますかー、ヒカルの赤ちゃんのときですよー。可愛いなぁ、うん、やっぱ可愛いよ」

 と、玲子はまた言葉に詰まった。涙を堪えているのか唇をきゅっと引き締め、カメラから視線を逸らした。玲子は生きているとき、人に涙を滅多に見せない女だった。

 そのときに、僕も泣いていることに気づいた。どうして画面が揺れているのだろうとしか思わなかったのだ。

「パパとママはいっぱい愛し合って、愛し合いすぎちゃっていつヒカルができたのかわからないの。ヒカルって名前はね、パパが考えてくれたんだよ。せっかくこんな可愛いヒカルと会えたのにね、もうお別れしなくちゃいけないんだ、ごめんねヒカル、こんな弱いママでごめんね」

 僕はそんなことないと心の中で叫んだ。心臓に病を抱えていて出産に挑んだ君は立派だ。僕たちの宝物を元気に産んでくれたじゃないか。

 そこでまた玲子はカメラを止め、次に戻ってきたときは一人で正座していた。ヒカルをベッドに寝かしつけたのだろう。妻の目にもう涙はなかった。

「さて、アキヒコくん、ここからはきみに宛てるメッセージです。お仕事がんばってますか。今も残業分を家に持ち帰ってますか」

 僕は頷いた。

「聞きたいけど、私はきみにとって、いい妻でしたか。心臓が弱くてわがままで意地っ張りで可愛くなくて、きみは苦労したでしょうね」

 今度は首を横に振った。そんなこと一度たりとも思ったことない。

「こんな弱い女と巡りあっちゃって、なんか私が申し訳なく思うのもアレなんだけど、ごめんね、アキヒコくんの負担になりすぎちゃった。でも、一緒にいてくれて、結婚してくれて、愛してくれて、本当にどうもありがとう。短い人生だったけどとても幸せでした。いつかアキヒコくん言ったよね、いつも仏頂面でデートしてて本当に楽しいのかって。ごめんね、私って感情表現下手だからさ、うん、すごい楽しかった、きみといるときが一番楽しかった」

 しばらく玲子のメッセージは続いていたが、僕は耐え切れなかった。寝ている両親とヒカルに気づかれないよう嗚咽を噛み殺すのに必死だったのだ。ヒカルが僕の様子に気づいて、「パパ、ポンポン痛いの」と頭をさすってくれた。大丈夫だと答えて、僕は娘を抱きしめた。

「ただね、アキヒコくん、私には心配していることが一つあります。それはきみの今後のことです。きみはすごい一途で、ずっと私のことを愛してくれたから、もしかしたら、今もきみは私のことを引きずっているんじゃないかな」

 僕の今を見透かされたようで、思わずどきりとした。

「言ってくれたよね、私が死んでもずっと一緒だと。すごい嬉しいけど、それはよくないよ。きみのためにも、今後出会う可能性のある女性にも、そして私にもそれはよくないよ。もう私は死んでいるの、もう愛し合うことはできないの。もし私のせいで好きな人ができなくなっていたら、お願いだから私のことは忘れて。死人に愛情を向けるぐらいなら生きている人に向けてあげなさい。これ以上きみの負担になりたくないの。健康な女性と結婚して、ヒカルと一緒に幸せになってちょうだい。えっ、もう好きな人がいるって? ごめん、それだったらいいの、大きなお世話だったね」

 玲子はじっとカメラのレンズを見つめている。僕は決してその視線を外さなかった。とても強い意志のこもった視線だった。玲子はふっと緊張を緩め、力のない笑顔を浮かべた。そして長いため息をつく。

「喋りすぎて疲れちゃった。なんか心臓がドキドキするからこれで終わりにするね。アキヒコくん、一日も早く私を忘れて、早く幸せになって。それが私の最後のわがままでお願いです。ヒカル、元気でね。新しいママができても、たまにはママのことも思い出してね。みんなの幸福をママは遠い場所から祈ってます。ばいばい」

 僕は行かないでくれとすがりつきたくなった。だが画面は玲子が登場する前の灰色一色に変わっていた。静寂の中、ヒカルの声が響いた。

「ママ、また遊ぼうね、ばいばい」

 泣きじゃくる僕とは反対に、ヒカルは実にあっけらかんとしていた。もしかしたら、と思った。玲子はずっと僕たちのことを見守ってくれていたのかもしれない。僕の苦しんでいる姿を見るに見かね、ヒカルの夢に現れたのだ。

「ママ言ったの、パパのビデオあるって」

「パパのビデオ、ヒカルとパパと二人で観てって、ママ言ったよ」

「うんとね、寝るとね、ママいつもいてくれるよ。いーっぱい遊んでくれるの。ヒカルね、ママがいるから泣かないんだよ」

 このヒカルの話を聞く限り、僕にはそうとしか思えなかった。信じられないが、それしかないと思う。

 パパのビデオというのは、僕が持っているビデオという意味ではなく、パパのためのビデオ、という意味なんじゃないだろうか。多分玲子は僕に宛てたメッセージを聞かせたくて、娘の夢の中で教えてくれたのかもしれない。言葉をあまり知らない娘が、自分なりに僕に伝えようとしてくれたのだ。

 娘が記憶にあるはずのない母親の顔を知っていたのも、それで説明がつく。ヒカルは夢でずっと玲子と会っていたのだ。頻度はどのぐらいかわからないが、寝れば夢で会えるからヒカルは寂しさで泣かずに済んだ。

 こんなにも僕のことを心配してくれているなら、素直に生前に伝えてくれてもよかったのに。きっと言いづらかったんだろうなと思った。

 もし僕が逆の立場だったら、愛している人間に早く自分を忘れろだなんて言えるわけがない。だから、自分の死後にいつか発見してもらえるよう、回りくどい方法でメッセージを撮り、ラックの一番奥にしまい込んだのだ。

 僕は玲子のメッセージを噛み締めていた。僕は玲子のためと思って好きな人を作らなかったのだが、それが逆に玲子の負担になっていたんだなと気づいた。

 玲子の死後、果たして彼女は僕と結婚して幸せだったのだろうかと何度も悩んだ。玲子はなぜか、病気のせいで僕に負い目があった。僕はそんなこと微塵も思っていないのに。

 遺してくれたビデオを観てわかったのは、彼女は僕との結婚に満足していたということだ。それが聞けて僕も嬉しかった。

 僕はどうしても玲子のことを忘れることができない。忘れてしまったら、今まで彼女を愛していた事実はなんだったのだろう。でもそれと、幸せな再婚は別物だと思う。

 玲子は誰も知らない遠いところで、僕たちの幸せを願ってくれている。たとえビデオを通してでも愛する人に忘れてくれと頼むのは並大抵のパワーではできないことだと思う。それならそれに応えてあげなくてはならない。僕はもう一度ビデオを再生してほしいとねだるヒカルを抱きしめながら言った。

「ねぇヒカル、もう一人のママ欲しくない?」

「もう一人のママ?」

「そう、ビデオのママと、ヒカルとパパと一緒にいてくれるママの二人だよ」

「うーん、よくわかんない」

「みんなはね、ママは二人もいないんだよ。みんなママは一人なんだよ。ヒカルはすごいんだよ、ママが二人もいるんだから、すごいなー」

「ほんとにすごい? エリちゃんのママは一人なの?」

「そうだよ」

「じゃあさ、みっちゃんもこうちゃんもひろちゃんも、みんなもママは一人?」

「そうだ、みんなママは一人しかいない。パパもバァバの一人だけだしね」

 娘は口に手を当て、クスクスと笑った。

「ヒカル、ママ二人だ」

 僕たちはもう一度ビデオの再生ボタンを押した。いつまでも変わらない玲子の笑顔と姿が映し出された。ヒカルは「ママだ、ママだ」と僕の膝の上で跳ねている。

 僕は手を伸ばし、画面の中の玲子の頬をそっと指でなぞる。温かくなったブラウン管の向こう、玲子は僕たちに笑いかけていた。

初投稿なのに長くてすいません。いかがだったでしょうか。ご意見・ご感想などありましたら、ぜひともよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 自分が主人公なら逆に亡くなった妻を引きずりそう(泣)
[一言] 結構感動できました。 しかし、同じことを繰り返さなければもう少し短くできると思います。 例えば、ヒカルが小さすぎてあまり言葉を話せないという内容が文章中に3回ほど出てくると思います。(違った…
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