私を捨てて別の令嬢を選んだ元婚約者が、今度は別の女性に夢中になっています
「エミリア・ロゼッタ! お前との婚約を破棄する!」
王都の劇場で開かれた慈善舞踏会。
侯爵令息のヴィクトルは、集まった貴族たちの前で高らかに宣言した。
彼の隣には、桃色の髪をした子爵令嬢、マリアが寄り添っている。
「私はマリアを愛している! お前のように可愛げのない女とは結婚できない!」
まあ。
私は思わず感心した。
婚約者に向かって、これほど堂々と恥をさらせる人間も珍しい。
「そうですか。それでは、婚約破棄をお受けいたしますわ」
「……は?」
ヴィクトルが間の抜けた声を出した。
そんな彼を前にして、私は考える。
ヴィクトル様には、かつて憧れていた時期があった。
初めて二人きりで出かけた日のことを、今でも覚えている。
彼は私の好きな花を尋ね、私が答えると、次に会うときにはその花を贈ると約束してくれた。
けれど、次の逢瀬で彼が持ってきたのは、隣にいた令嬢が好きだという花だった。
問い詰めると、彼は笑って言った。
「花なんて、綺麗なら何でもいいだろう?」
そのときは、少し悲しかっただけだ。
けれど、それからも似たようなことが続いた。
私が楽しみにしていた観劇の日には、友人との約束を優先された。私の誕生日には贈り物を忘れたくせに、気に入った令嬢にはその日のうちに高価な髪飾りを贈っていた。
それでも私は、彼にも事情があるのだと思おうとした。
婚約者なのだから、いつかは私のことも大切にしてくれる。そう信じたかったのだ。
けれど、先月のこと。
私が勇気を出して、少しだけ不満を口にしたとき、彼は心底不思議そうな顔をした。
「君は侯爵家の婚約者だろう? 何不自由なく暮らせているのに、何が不満なんだ?」
その瞬間、私はようやく理解した。
彼にとって私は、一人の人間ではなかったのだ。
侯爵家との婚姻を約束された、都合のよい婚約者。
私が何を好きで、何を悲しいと思い、何を望んでいるのか。彼は知ろうともしなかった。
そして、私もまた、彼に愛されることばかりを考えて、自分の気持ちを後回しにしていた。
もう、十分だった。
「聞こえなかったのか? お前は婚約を破棄されるんだぞ!」
「ええ。ですから、お受けすると申し上げました」
「もっと取り乱すと思っていたのだが……」
「泣いてほしかったのですか?」
「そ、そういうわけではない!」
では、何を期待していたのだろう。
私が彼にすがりつき、愛していると泣き叫ぶ姿だろうか。
残念ながら、そんな予定はない。
私は彼の顔を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「ヴィクトル様。ひとつだけ、お願いがございます」
「な、何だ?」
「マリア様と、どうぞ末永くお幸せに」
「当然だ! マリアはお前と違って、男を立てることのできる女性だからな!」
マリアが頬を染めて、ヴィクトルの腕にしがみついた。
「ヴィクトル様ったら……。でも、私、エミリア様とも仲良くしたいですわ」
「君はなんて心優しいんだ!」
……なるほど。
この二人は、ずいぶんと相性がよろしいらしい。
どちらも頭の出来が随分と酷いようだ。
ならば、もう言うことはない。
自分たちの世界に夢中の二人に対し、私は優雅に礼をしてその場を後にした。
◇
婚約破棄を受け入れた翌日、私は少しばかり考え込んでいた。
ヴィクトルは、マリアを愛していると公言した。
ならば、二人が結ばれること自体に、私が口を挟む理由はない。
ただ、婚約者という立場を失った今、私にはひとつだけ気がかりがあった。
これまで私は、ヴィクトルの隣に立つ者として、彼の交友関係にも気を配ってきた。彼が好みそうな話題を知る令嬢や、趣味の合う貴族を紹介することもあった。
もちろん、これからはそんな役目も必要ない。
けれど、先日のお茶会で、ある令嬢からこんな話を聞いていた。
「ヴィクトル様って、華やかな女性がお好きなのでしょう? わたくし、以前から一度お話ししてみたかったの」
その令嬢こそ、イザベラだった。
美しい容姿に、自分の望みをはっきり口にする性格。男性から贈り物を受け取ることにも、華やかなデートを楽しむことにも遠慮がない。
以前の私なら、彼女とヴィクトルを引き合わせることには慎重になっただろう。婚約者のいる男性に、余計な誤解を招くような真似はできなかったからだ。
けれど、今は違う。
ヴィクトルにはマリアがいる。私が彼の交友関係を取り仕切る必要もなければ、彼の好みを気にする必要もない。
イザベラにすぐ連絡し、彼と婚約破棄したこと、彼に新しい婚約が出来たことを伝えた。
それでも、イザベラは「純粋に彼と会話してみたい。もちろん深い意味はない。……今の所は」と言っていた。
ならば社交の場で紹介するくらいは構わないだろう。
その先で誰と親しくなるかは、本人たちが決めることだ。
私は父に頼み、次の茶会にイザベラ様を招いてもらうことにした。
◇
数日後、社交界で開かれたお茶会。
ヴィクトルは、イザベラを見た瞬間に目を輝かせた。
「なんて美しい方だ……!」
そしてイザベラもまた、彼の顔立ちを気に入ったらしい。
「あなたがヴィクトル様? エミリア様からお話を伺いましたわ」
「エミリアが?」
「ええ。あなたは女性を大切にしてくださる、たいへん素敵な殿方だと」
わお。
そんなこと一言も言ったことはない。
やはり、私との婚約中に合わせなくて良かった。
私の内心をよそに、ヴィクトルは得意げに胸を張った。
「もちろんだとも!」
その言葉を聞いたイザベラは、嬉しそうに微笑んだ。
ヴィクトルは更に言葉を重ねる。
会話に花が咲いていたのでボーッとそれらを聞いていたら、彼はイザベラを逢瀬に誘っていた。
「――私のお気に入りの店があるのですが、明日などお時間取れないか?」
「まあ!もちろん大丈夫ですわ」
「良かった。明日は朝――」
彼の言葉を遮ってイザベラが話し出す。
さあここからは彼女の独壇場だ。
「では、明日の朝は薔薇の花束をお願いいたしますわ。赤ではなく、白い薔薇がよろしいです」
「え?」
「それから、来週の観劇にもご一緒してくださいませ。もちろん、席は最前列ですわ」
「いや、それは……」
「わたくしのお願いを聞いてくださらないの?」
イザベラの微笑みが、わずかに冷たくなった。
「まさか、口先だけで女性を喜ばせる殿方ではありませんわよね?」
ヴィクトルは慌てて首を振った。
「そ、そんなことはない!」
「まあ、素敵! では、明日はよろしくお願いいたしますわね」
こうして、二人の交流が始まった。
……イザベラの思惑通りに。
そして三日後。
私は庭園で、ヴィクトルに呼び止められた。
「エミリア! どういうことだ!」
「何のことでしょう?」
「イザベラ嬢だ! 毎日花束を要求するし、観劇に食事に宝石に……。こちらの都合などお構いなしだぞ!」
私は首を傾げた。
「まあ。女性を喜ばせるのがお好きなのではありませんでしたか?」
「限度があるだろう!」
「それは困りましたわね」
「お前、わざと紹介したんじゃないだろうな!」
ヴィクトルの顔が怒りで赤くなった。
私は少しだけ考えてから、微笑んだ。
「私はイザベラ様が貴方と話してみたいと言うので、ご紹介しただけです。そこから先は貴方達の問題ではありませんか?」
「い、いや、それもそうだが……」
そもそも、と私は続ける。
「あなたの婚約者はマリア様のはずです。
マリア様は、あなたを立ててくださる素晴らしい女性なのでしょう? でしたら、そちらを大切になさればよろしいのでは?」
「マリアは……」
彼は口ごもった。
「マリアは、あまり金のかかることを望まないからな」
「まあ。素晴らしいことですわ」
「だが、最近は少し……」
「少し?」
「いや、何でもない!」
私はそれ以上、追及しなかった。
どうやら、彼はまだ気づいていないらしい。
マリアが彼に求めているのは、贅沢な暮らしではなく、彼が持つ侯爵家の財産と地位だということに。
彼女がそんなことを考えているのはわかり切っていること。
既に夜会でも噂になっている。
同様の手口で色々な男を誑かしてきているようだ。
これまでの男からは財産を絞り取っていた。
だが、彼に対しては、金のかかることを望まない。
彼と今まで彼女が誑かしてきた男との相違点は一つ。
公爵家とそれ以外。
つまり立場だけだ。
そう考えると、彼女の思惑も頭に浮かんでくる。
良い地位の子供を育てて周囲に自慢しつつ、そんな子供を自分の忠実なお人形にするために、今はお金をあまり使わせない。
それがマリアの算段であろう。
互いに相手の都合のいい部分しか見ていなければ、いつか不満が噴き出すのは当然だろう。
私は別に、彼らを破滅させたいわけではない。
ただ、自分で選んだ相手と、自分で選んだ人生を歩んでいただきたいだけだ。
◇
それから一か月後。
ヴィクトルとイザベラは、あっさりと破局した。
イザベラは「わたくしを満足させられない殿方など必要ありませんわ」と言い放ち、別の貴族との縁談を進め始めたらしい。
一方のヴィクトルは、マリアとの仲もこじれていた。
マリアは、彼が自分のために贈り物を買わなくなった途端、目に見えて不機嫌になったのだという。
金は掛けずとも愛されている実感が欲しい。
そんな彼女の心の内にも気づかなかったようだ。
結局、二人は喧嘩別れしたらしい。
その話を聞いた私は、紅茶を一口飲んだ。
「そうですの」
それ以上の感想はなかった。
ところが、その翌週。
ヴィクトルが我が家を訪ねてきた。
「エミリア……。もう一度、やり直せないだろうか」
私は思わず瞬きをした。
「何をおっしゃっているのです?」
「俺は間違っていた。お前は、俺のことをよく理解してくれていたんだな」
彼は真剣な顔で私を見つめた。
「もう一度、婚約を結び直そう」
私はしばらく彼を見つめた後、静かに首を横に振った。
「お断りいたしますわ」
「なぜだ!」
「ヴィクトル様。私たちの婚約を破棄したのは、あなたです」
「それは……」
「そして、あなたが私に求めていたものは、私にはないとおっしゃった。私は、その言葉を尊重しただけですわ」
「だが、俺は……!」
「ご安心くださいませ」
私はにっこりと微笑んだ。
「あなたには、きっと素敵な女性が見つかりますわ」
それは、心からの言葉だった。
ただし、その女性が私である必要はない。
ヴィクトルは何か言いたそうに口を開き、結局、何も言わずに去っていった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
ようやく、終わったのだ。
婚約者にふさわしい女性であろうと、彼の好みに合わせて振る舞い続けた日々。
自分の好きなものを好きと言うことさえ、ためらっていた日々。
もう、そんな生活に戻る必要はない。
その日の午後、私は友人に誘われて街へ出かけた。
以前から気になっていた小さな菓子店で、ずっと食べてみたかった焼き菓子を買う。
帰り道、ふとショーウィンドウに映った自分の顔を見た。
私は、思っていたよりも晴れやかな顔をしていた。
「……悪くないわね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
婚約破棄されたからといって、人生が終わるわけではない。
新しい恋がすぐに見つかるわけでもない。
けれど、少なくとも私は、もう自分を嫌いにならずに済む。
それだけで、今は十分だった。
そして数か月後。
社交界で、私がある紳士と親しげに話している姿を見たヴィクトルが、ひどく複雑な顔をしていたらしい。
その話を聞いた私は、ただ笑った。
――今さら、何を惜しんでいらっしゃるのかしら。
私はもう、自分を選ばなかった人を選び直すつもりなど、なかったのだから。




