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1509年 長尾為景と越後出陣〜お屋形様、世界が整いすぎて発光(発向)

これで終わりです。

【1509年(永正六年)初夏】

越後からの報せは、血の匂いがしていた。

守護代・長尾為景が謀叛を起こし、守護・上杉房能を自害に追い込んだ。房能は、顕定の弟であった。


顕定はすでに関東で忠節を尽くす者だった。

越後上杉家は護られている。これ以上関東から口を出すことではない。ゆえに一度は為景政権を承認した。


しかし為景という男の評判は、関東の地にも届いていた。彼は理屈で動かない。儒学の教えも、主従の分も、血縁の情も、あの男の前では一切の意味をなさなかった。ただ、己の生存と権力という生々しい人欲の塊、予測不可能な混沌の具現者。それが長尾為景だった。


顕定は越後出陣を決めた。

長尾為景という男は、排除しなければならない。


家臣たちは怯えているように見えた。

「為景は化け物にございます。どのような卑劣な手段を使うか分からぬ男。出陣は、あまりにも危険が大きすぎます」

陣中を満たすのは、恐怖という名の生々しい人間のノイズだった。


だが、顕定の心は、かつてないほどの凪の中にあった。

弟・房能が死んだ。その身体的な事実に対して、一瞬だけ胸の奥が冷えかけたが、すぐに立て直した。


——悌よりも、孝が重い。


房能は弟である。だが、それ以上に越後上杉家という、我が父祖の家を構成する一部だった。為景の行為は、我が家を侵す不義。なれば、これを除くことは「斉家」であり、父祖への絶対的な「孝」の遂行である。今なら「わかった」。


顕定は、姿鏡の前に立っていた。

出陣のための具足を調える。引き締める紐の感触、鉄の冷たさ。

家臣たちが恐れる為景という「予測不可能な混沌」すらも、顕定にとっては、自らの忠孝を完成させるために天が用意した、最後の大きな標的に過ぎなかった。

あの道灌が忠を教え、兄上が孝を教え、定正の死が天理を証明した。その全ての線が、いま、越後という一つの点に向かって伸びている。


「お屋形様、出陣の準備、整いましてございます……」

側近が、震える声で報告に来た。側近の目には、敵への恐怖だけでなく、一切の動揺を見せない主君・顕定に対する、底知れない恐怖が浮かんでいた。この男は、弟が殺されたというのに、なぜこれほどまでに静かなのか、と。


顕定は側近を振り返り、微かに、本当に優しく微笑んだ。

「何を恐れることがある。世界は、これほどまでに整っているというのに」


脳内で『大学』の文字列が、黄金の光のように明滅していた。外界の恐怖のノイズは完全に消え去り、ただ一本の白い線だけが、越後の山々の向こうへと鮮やかに通っていた。

「存天理、去人欲」

顕定は、自らの人生のすべてを肯定するように低く呟き、静かに歩み出した。

(了)

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