第3章 夜 ~旅立ちの前夜~
ノンアルコールビールの缶を持って、自分の書斎の椅子に座る。
本当はアルコールを注入したいが、時間は午前2時を回った。
もうすぐ始まる業務に差し支えるとマズい。
結局、会社を出たのが午前1時。
タクシーで帰ってきて、風呂に入り、今に至る。
今日も疲れた。
結局、彼との話は、1時間近くかかってしまい、部長との打ち合わせに、遅れてしまった。
しかし、私が忙しいことは、百も承知であり、これ位の遅刻で、怒るような器の小さい女性ではない。
資料を作成したかったが、その時間がなかったので、合同説明会用の資料の中身を、頭の中で思い出しながら、口頭で部長に、説明をした。
15分ほど説明をして、部長から「分かりました。進めてください。」の一言で、終わった。
本当に、頭の回転が早い女性で、助かる。
この人の下で、働けることは、幸せだと思う。
しかし、部下との話は、1時間付き合うのに、上司との話は、遅刻した上に、15分で終わらせるとは。
きっと私は、可愛くない部下なんだろうなと思う。
部長との打ち合わせ後、今日は本当に忙しかった。
中東情勢が、一気に悪化して、合同説明会に参加予定であった金融機関や、投資家たちから、次々に欠席の連絡を受けた。
しかし、私だけでなく、部長自らも、電話で説得してくださり、メガバンクや政府系金融機関、国際開発金融機関など、こちらが期待していた、最低限の投融資候補先は、来てくれることになり安心した。
しかし、恐らく、石油自体やそれ由来の製品の価格高騰、サプライチェーンの変更などで、今後、プロジェクトの計画に、変更が生じるだろう。
部長と再度、協議をして、弊部内だけの未だ、非公式の事業計画や、財務計画の変更案を、複数作成していた。
その為、彼との話の内容は、今に至るまで、思い返すことが、できなかった。
「一度きりの人生、夢を追いかけても良いですよね?」
真剣な眼差しで、言われたこの言葉を反芻する。
この言葉が、正しいのかは、分からない。しかし、今は、ゆっくりと頭の中で、考えることができる。
落ち着いて現実的に考えてみる。
社会人2年目とはいえ、彼には、弊社で働いたキャリアができた。
大学も良い所を出ているし、英語で商談も一人でまとめられる。
バンドでうまくいかなかったとしても、恐らく、再就職先は幾らでもあるだろう。
最近は人手不足だし、彼のこれまでの成果や能力を考えれば、ビジネスパーソンに戻ることは、そこまで難しいことではないだろうと思い始める。
そして、自分の発言も思い返す。
『芸術の道で食べていきたいと思ったこともあるんだ。』
これを人に明かすのは、人生で初めてだった。
大学生の頃、文学が大好きで、小説ばかり読んでいた。
自分も、人を感動させたり、勇気づけられるような、小説を書きたい。本気でそう思っていた時期があった。
しかし、実際に小説を書くことは難しく、周りに流されるように、就職活動を始めて、今の会社に入って、そして順調に、昇進もできた。
入社20年目か。私には、彼と同じことはできない。
ただ、それは何故だろうか。
彼が未だ24歳で、私が既に42歳だからか。
しかし、独身で、それなりの貯金もあって、将来の不安と言えば、強いて挙げても、親の介護くらいだろうか。
そう考えると、自分が背負っている責任のようなものが、あまりないような気がしてくる。
いや、課長としての責務があるだろう。と思うが、それすらも、あの部長がいれば、私の代わりは充分にできるだろう。
そう考えると、やはり、何故、私には、彼と同じことが、できないのかと、考え始める。
恐らく、地位や安定した生活を手放すのが、怖いのだろう。
ビジネスパーソンとして、20年間という長い期間を経て、自分で「変化」を起こすことが、できなくなってしまったのだろう。
彼の話を聞いた時は、頭がおかしいのではないかと思ったが、自分の夢に、素直に、飛び込んでいける勇気が、羨ましくも、今は思えてきた。
私は、20年間で、それなりの地位やお金も、得ることができたが、忙殺される毎日で、自分が、一体何がやりたいのかを、見失っていた。
しかし、彼との会話で、思い出すことができた。
未だ、眠れそうにない。
興味本位で、PCで、新人が、応募できる小説の賞を、検索し始めた。
そんな中、賞レースではないが、一つの面白いウェブサイトを見つけた。
小説家になろう
日本最大級の投稿型小説サイトで、アマチュア作家でも小説を自由に掲載したり、掲載された小説を無料で読めるようだ。
私は、アカウント登録をすると、昨日起きた出来事を、物語として書き始めていた。




