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第2章 日中 ~いつもと違う朝~

第1会議室で、お互い、向かい合って座る。


「お忙しい所、お時間を頂戴して、申し訳ありません。」彼は、丁寧に言う。


『大丈夫だよ。それより急にどうしたの?表情も硬いけど、何かあったのかい?』


彼の雰囲気を察して、優しい言葉から入っていく。


彼は、スーツの胸ポケットに手を入れ、何かを取り出した。

そして、居住まいを正して、私にそれを差し出す。


「課長。退職させてください。」


退職願と記載された封筒を目の前にして、私は、思考が一瞬停止する。


『ちょっと待ってくれ。急にどうしたんだ?まずは、理由を先に、聞かせてくれないか?』そう言うと、彼はそのまま真剣な眼差しで答えた。


「親友たちとバンドを組んで、メジャーデビューを目指します。」


想定の範囲外すぎる回答に、思考が再度停止する。


『もう一度ちょっと待ってくれ。バンドを組むということは、それはつまり歌手を目指すということなのか?』


私は、当たり前のことを聞く。


「はい、課長のご認識の通りです。」


私の当たり前の質問に対しても、真剣に回答する。


彼は、本当に性格が良く、誠実だ。だからこそ、誰からも愛され、信頼される。

彼がミスを犯しても、他の課員たちが、こぞって手を差し伸べる。


これまでも、退職をしてきた課員たちは、何人かいた。

しかし、大体は、違う会社に転職をするとか、家業を継ぐとか、きちんと将来が見えている退職だった。


バンドでメジャーデビューを目指すと聞いて、びっくりしてしまったが、もしかしたら、既に彼には、きちんと将来が見えているのかもしれないと思い始める。


『差し支えなければで良いんだけど、もう歌手として、メジャーデビューが、決まっているのかな?』


『私は、音楽の世界は詳しくないけど、例えば、オーディションに合格したとか、どこかの芸能事務所にスカウトされたとか、そういうことなのかな?』


真っ当な質問をした所、真っ当ではない回答が返ってくる。


「いいえ、何も決まっていません。これから動画配信サイトで、音楽を投稿していこうと考えています。」


「それで、オーディションに出たり、芸能事務所に声をかけられて、デビューができればと考えています。」


ダメだ。疲労が溜まっていて、いちいち思考が停止する。


『ちょっと、それは現実的なのかい?仕事をしながらでも、バンド活動を続けることも、できるんじゃないのかい?』


『君は、仕事は良くできているし、何も決まっていないバンド活動に、全て賭けるより、仕事をしながら、デビューに向けて、少しずつ進める方が、良いんじゃないのかい?』


質問なのか、諭しているのか、自分でも分からないようなことを、私は言う。


「いいえ、そんな甘い気持ちでは成功しません。自分を奮い立たせる為にも、バンド一本で、生きていこうと考えてます。」


昭和生まれの私よりも、昭和的な発想だなと思う。


『まあ、そういう考え方もあるとは思うけど。所で、バンドを組むと言ったけど、君は何か楽器ができるのかい?』


『これまで、あまり君から、音楽の話を聞いた記憶がないのだけど、大丈夫なのかい?』


もう一度、質問なのか、諭しているのか、自分でも分からないようなことを、私は口走る。


「高校の3年間バンドを組んで、ドラムをやってました。でも、それ以降はやめていたので、6年位ブランクがあります。だから今は、殆ど出来ないので、練習を再開します。」


彼は真剣な眼差しで、私を見る。


君はバカなのか?それともイカれてるのか?もしくはその両方か?いや、両方とも同じような意味か。


マズい。疲れすぎて、良くない思考回路になっている。

一旦、深く呼吸をして、自分を落ち着かせる。


彼の人生なので、彼の好きにすれば良い。しかし、そうは言っても、老婆心ながら、自分の部下が、明らかに、イバラの人生を歩むことが分かっているのに、放っておくわけにもいかないだろう。


『なあ、少し考え直してみたらどうだ?私も学生時代に、一時期、芸術の道で食べていきたいと思ったこともあるんだ。でもそんなに甘い世界じゃない。私は、音楽には詳しくないけど、音楽だって、そんなに甘い世界じゃないんだろう?』


『仕事をしながらドラムの練習を再開して、その友人たちと動画配信サイトで、音楽を投稿すれば良いじゃないか。それで、オーディションに呼ばれたり、どこかの芸能事務所にスカウトされたりして、メジャーデビューが決まってから、会社を辞めるのでも遅くないんじゃないか?』


今度は、意図的に彼を諭す。しかし、彼は真剣な眼差しで答える。


「いいえ、先週末、久しぶりに高校時代のバンド仲間たちと、朝まで飲み明かしたんです。バンドで売れたかったよなって話しあって、今でも心がくすぶっていて、今度こそ、本気でやろうと皆で、誓いあったんです。この会社には、感謝をしていますし、課長にも、本当にお世話になりました。」


「でも、僕は心の底から、バンドだけで生きていきたいんです。一度きりの人生、夢を追いかけても良いですよね?」


私に、同意を求めてきた。私は、その場しのぎで、誤魔化すしかできない。


『とりあえず、この退職願は、私の方で、一旦預からせて欲しい。しかし、君も知ってる通り、すまないが、金曜日の合同説明会が終わるまでは、時間が取れそうにないんだ。』


「勿論です。合同説明会が、終わってからで、結構ですので、部長や人事部にも、課長からお話をしていただけると幸いです。」


「僕も、課長や課員の皆さんに、迷惑をかけるつもりはありません。自分のけじめとして、有給休暇を一気に消化をして休むようなことはしないですし、引き継ぎもきちんとしてから辞めます。」


彼の覚悟が伝わってきた。

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