第7話
バルガスが、船の先にある錨を軽々と引き上げる。
その盛り上がった筋肉は、まるで鋼のようだ。
俺は舵輪を握って、船が進む方向を決めた。
「よし、準備はいいな。リバーサイド号、出航だ!」
俺の合図に合わせて、船はゆっくりと岸から離れていく。
港町アクア・ポートのにぎわいが、少しずつ遠ざかっていった。
船の先頭にはルナが立ち、小さな手を振っている。
「ルナ、誰に手を振ってるんだ?」
「お魚さんたちだよ。またねーって言ってるの」
ルナは川の水面に向かって、にこやかに手を振り続けた。
魚たちが、見送りに来てくれているのかもしれない。
「おーい、ミナトの兄ちゃん。また美味い燻製を、売りに来いよな!」
岸から、威勢のいい声が聞こえてきた。
そっちを見ると、魚屋のおやじが大きく手を振っている。
その周りには、燻製を買ってくれた町の人たちが何人か集まっていた。
「ああ、今度は新しい商品も持ってくる。楽しみにしててくれ!」
俺も大声で返事をして、手を振り返す。
短い間だったけど、俺はこの町が好きになった。
いつかまた、必ずここに戻ってこよう。
船は港を出て、大きな川の流れに乗った。
これから上流にある、鉱山の町ロックベルを目指すのだ。
これで、三日間の船旅が始まる。
「さて、と。俺は仕事に戻るぜ」
バルガスはそう言うと、マストに付いている縄のはしごを、するすると登っていく。
あっという間に、てっぺんの見張り台に着いた。
用心棒としての役目を、さっそく果たしてくれている。
「天気は良いぞ、前方にも異常なしだ!」
見張り台から、バルガスの明るく元気な声が響いた。
頼もしい仲間がいるというのは、とても心強いものだ。
俺は船の運転に、意識を集中させる。
船は順調に、川をさかのぼっていった。
しばらくすると、ルナが俺のそばにやって来た。
そして、じっと川の流れを見つめている。
「どうした、ルナ?」
「ミナト、この先で少しだけ川の流れが渦を巻いているの。だから、船をもう少し右に寄せて」
「渦だって、ここからじゃ何も見えないが……」
俺が不思議に思っていると、ルナはこくんと頷いた。
「うん。でも、お魚さんたちが教えてくれた。水の中は、そうなってるって」
魚からの情報、ということか。
半分信じて半分疑いながらも、俺はルナの言う通りにした。
少しだけ、船の進む方向を右にずらす。
すると、どうだろうか。
数十メートル進んだ先で、確かに水面が不自然に揺れている場所が見えた。
ルナが、言っていた通りの場所だ。
もしあそこに突っ込んでいたら、船が大きく揺れていたかもしれない。
「すごいな、ルナ。本当に魚と話せるんだな」
「えへへ。わたし、昔からそうなの」
ルナは、少し恥ずかしそうに笑った。
この能力は、船の旅において、とてつもない武器になる。
浅い場所や、水の中にある岩、急な流れの変化。
そういった危険を、前もって知ることができるのだから。
「これから、水先案内はルナに任せるよ。頼りにしているぜ、航海士さん」
俺が少しからかうように言うと、ルナは嬉しそうに胸を張った。
「うん、任せて!」
昼が近づくと、船の中に良い匂いが漂い始めた。
バルガスが、キッチンで昼ご飯の準備を始めたらしい。
やがて、見張り台からバルガスが降りてきた。
「ミナト、昼飯ができたぜ。少し休憩にしよう!」
「おう、助かる!」
俺は船を、自動操縦モードに切り替えた。
これも、【万能造船】の力で、追加した機能の一つだ。
簡単な進路を保つくらいなら、船が自動でやってくれる。
俺とルナは、リビングへと向かった。
テーブルの上には、すでに湯気の立つ料理が並んでいる。
厚切りのパンに、チーズと野菜を挟んだサンドイッチだ。
それから、魚介の旨味が詰まった温かいスープもある。
「うわあ、美味しそう!」
ルナが、嬉しそうな声を上げる。
俺たち三人はテーブルについて、食事を始めた。
バルガスの作るご飯は、本当に最高に美味い。
「それにしても、快適な船だな。風も波も、ほとんど感じないぜ」
バルガスはサンドイッチを食べながら、満足そうに言った。
「だろ、俺のスキルは見せかけじゃないんだ」
「違いないな。こんな船、王族だって持ってないだろうよ。騎士団にいた頃が、馬鹿らしく思えてくるぜ」
バルガスは、楽しそうに笑う。
「バルガスは、どうして騎士を辞めたんだ?」
俺は前から、気になっていたことを尋ねてみた。
バルガスはスープを一口飲むと、少しだけ遠くを見るような目つきになる。
「まあ、色々あってな。一言で言えば、俺には合わなかったんだよ」
「合わなかった?」
「ああ。偉そうな貴族たちに、へこへこ頭を下げるのが、どうにも我慢ならなくてな。ある日、俺の部下を馬鹿にした太った貴族を、ぶん殴っちまったんだ」
いかにも、バルガスがやりそうなことだった。
俺は思わず、苦笑いしてしまう。
「それで、国を追い出されたってわけか」
「そういうことだ。だが、後悔はしていない。俺は、理不尽なことが大嫌いでな。それよりも、こうして気の合う仲間と、美味い飯を食ってる方がよっぽど幸せだ」
バルガスは、大きな声で笑い飛ばした。
その笑顔は、とてもすっきりしている。
彼もまた、俺と同じなのかもしれない。
窮屈な場所から自由を求めて、飛び出した人間なのだろう。
「わたしも、ここにいられて幸せ」
ルナが、小さな声で言った。
そして、にこっと笑う。
その笑顔を見て、俺とバルガスは顔を見合わせて笑った。
この船は、社会からうまくはまらなかった者たちの、小さな楽園なのかもしれないな。
俺は、そんなことを思った。
午後の船旅も、順調に進んだ。
川の両岸の景色は、だんだんと人の手が加わっていない、大きな自然へと変わっていく。
どこまでも続く、緑の森。
時々、崖の上から流れ落ちる、美しい滝が見えた。
見たこともない、色鮮やかな鳥たちが空を横切っていく。
ルナは船の先に座って、水面を跳ねる魚たちと楽しそうに話していた。
バルガスは、見張り台で昼寝をしているわけではない。
ちゃんと、見張りをしている。
俺はそんな平和な光景を眺めながら、舵を握っていた。
前の世界では、考えられなかったような穏やかな時間だ。
夕方になり、俺たちは夕食の準備を始めた。
今日の夕食は、ルナが魚たちにお願いして捕まえてもらった、大きな川魚を使う。
バルガスが、腕によりをかけて料理してくれた。
ハーブと一緒に、丸ごとオーブンで焼き上げた豪華な一品だ。
「うめえ、この魚は身が締まってて、脂も乗ってる!」
バルガスが、興奮したように叫ぶ。
自分で作っておきながら、すごく褒めている。
だが、その気持ちもよく分かる。
この世界の食材は、どれもこれも反則的な美味さだった。
食事の後、俺たちは交代でお風呂に入った。
もちろん、このお風呂も俺がスキルで作ったものだ。
ヒノキで作られた、足を伸ばして入れる立派な浴槽である。
船の上で、毎日こんな贅沢ができるなんて夢のようだ。
夜になり、俺はバルガスと交代で見張りをすることにした。
空には、数えきれないほどの星が輝いている。
天の川が、はっきりと見えた。
「ミナト。少し、いいか」
見張り台にいると、バルガスが登ってきた。
手には、お酒の瓶と杯を二つ持っている。
「どうしたんだ、バルガス」
「まあ、飲めよ。お前さんの故郷の酒ってやつを、真似てみたんだ」
バルガスが注いでくれたのは、少し白く濁ったお酒だった。
一口飲むと、米を発酵させたような、深い香りが口に広がる。
故郷のお酒に、よく似ていた。
「美味いな、これ」
「だろ、セレスの町で手に入れた小麦を、まあ色々とやってみたんだ」
バルガスは、照れくさそうに頭を掻いた。
俺たちは、しばらく黙ってお酒を飲み交わした。
川の流れる音と、虫の声だけが聞こえる。
とても、穏やかな夜だ。
「なあ、ミナト」
バルガスが、ぽつりと言った。
「あんたは、これからどうしたいんだ? 金を稼いでどこかの町で、大きな会社でも開くのか?」
「いや、そういうのはあまり考えてないな」
俺は、星空を見上げながら答える。
「俺はただ、この船で自由に旅を続けたい。行ったことのない場所に行って、見たことのない景色を見て、美味いものを食べる。仲間と一緒に、笑いながらな」
それが、今の俺の正直な気持ちだった。
大金持ちになりたいわけでも、有名になりたいわけでもない。
ただ、この自由な毎日が続けば、それでいいのだ。
「……そうか。そりゃあ、いいな。俺も、その旅に付き合わせてもらうぜ」
バルガスは、満足そうに笑った。
俺も、つられて笑う。
こうして、俺たちの船旅の最初の夜は、更けていった。
次の日も、船旅は順調だった。
ルナの水先案内のおかげで、危険な場所は全て避けることができている。
午後になり、川の両岸が、切り立った岩の壁に変わってきた。
空が、急に狭くなったように感じる。
「ミナト、そろそろだぜ」
見張り台から、バルガスの声がした。
「ああ、分かってる」
地図によれば、この先が『霧の渓谷』だ。
水賊の『霧の骸骨団』が、ねじろにしているという危険な場所である。
その言葉通り、俺たちの船は、いつの間にか深い霧に包まれていた。
視界は、十メートル先も見えないほど悪い。
俺は、船のスピードをゆっくりと落とす。
辺りは、物音一つしない。
聞こえるのは、自分たちの船が水をかく音だけだ。
じっとりとした湿気が、肌にまとわりついてくる。
俺は、舵を握る手に力を込めた。
バルガスも、見張り台で戦斧を握りしめ、周りを警戒している。
その時、俺の服の袖を、誰かがくいくいと引っ張った。
振り返ると、ルナが不安そうな顔でそこに立っていた。
「ミナト……」
その声は、少し震えている。
「どうした、ルナ。怖いのか?」
俺が優しく尋ねると、ルナはふるふると首を横に振った。
そして、小さな声でこう告げる。
「お魚さんたちが、何かをすごく怖がってる……。この霧の中に、何か、大きくて黒いものがいるって……」




