第13話
夜の闇が、いよいよ渓谷を深く包んでいた。
俺はリバーサイド号の舵を握り、じっとその瞬間を待つ。
バルガスが隣で、ごくりと大きく唾を飲み込んだ。
「いよいよ本番だな、ミナト」
「ああ、最高の舞台を、派手に見せてやろう」
俺は通信用の魔法具を取り上げ、崖下で息を潜めるギルに連絡した。
「こちらミナト、予定通りに作戦を開始する」
「へい旦那、こっちはいつでも行けますぜ」
ギルの少し緊張した、頼もしい声が魔道具から聞こえる。
俺はうなずくと、ゆっくりとリバーサイド号を岩陰から前進させた。
スキルで作った濃い霧に隠され、船体は音もなく川面を滑っていく。
崖の上の砦からは、まだこちらの動きに気づいた様子はない。
俺は操舵室の機械を素早く操作し、幻影装置の魔力出力を最大にした。
船を包む乳白色の霧が、まるで生き物のように激しく動き始める。
そしてその霧の中から、とてつもなく巨大な影が姿を現したのだ。
全長五十メートルは超える、伝説に語られる水竜である。
黒くぬるりとした鱗が、雲の間から漏れる月明かりを妖しく反射している。
「グオオオオオオオオオオッ!」
俺はすかさず音響装置も起動させ、腹の底まで響くような咆哮を轟かせた。
そのすさまじい声は、切り立った崖に何度も反響し、渓谷全体を激しく震わせる。
ついに伝説の怪物が、その悪夢のような姿を現した瞬間だった。
「な、なんだ今の地鳴りのような声は!?」
「おい、あれを見ろ! 霧の中に、何かとんでもないものがいるぞ!」
崖の上から、砦の傭兵たちのうろたえた声が聞こえてきた。
よし、見事に引っかかったな。
俺はさらに船をゆっくりと前進させ、水竜の全身を濃い霧の中から現す。
空に届きそうな巨大な体が、ゆっくりと川を上ってくるのだ。
その両目は地獄の炎のように赤く、崖の上の砦をじっと睨みつけていた。
「ば、化け物だ!」
「川の主の言い伝えだ! あの話は、本当だったんだ!」
砦の傭兵たちは、完全にパニックになっていた。
ある者は恐怖で腰を抜かし、ある者は意味の分からない言葉を叫び続けている。
まとまりのない、まさしくただの集団だ。
「こ、攻撃しろ! とにかく弓を射かけろ!」
隊長らしい男が叫んだのを合図に、砦から無数の矢が雨のように放たれる。
しかし大量の矢は、何の手応えもなく幻影を通り抜けていった。
「だ、だめだ! 矢が全く効かないぞ!」
「実体がないのか!? まるで幽霊じゃないか!」
自分たちの攻撃が全く通じない事実が、彼らの恐怖をさらに大きくする。
「ミナト、すごい。みんな、すごく怖がってる」
隣に立つルナが、俺の服の袖を握りしめながら言った。
彼女には砦の人々の恐怖が、手に取るように分かるのだろう。
「ああ、作戦通りだ。もう少しだけ、脅かしてやろう」
俺はタイミングを慎重に見て、ギルに次の指示を出した。
「今だ、ギル! 派手に始めてくれ!」
「おうよ、旦那! 任せときな!」
その指示の直後、砦の真下の崖から、地鳴りのような叫び声が上がった。
「「「うおおおおおおおおおおっ!!」」」
崖下で待機していたギルと村の男たちが、一斉に力強く声を上げたのだ。
彼らは手に持った松明を激しく振り回し、大軍勢の存在を知らせる。
闇の中に揺れる、おびただしい数の炎の群れ。
それは砦の傭兵たちに、完全な絶望をはっきりと叩きつけた。
「て、敵襲だ! 化け物だけじゃないぞ!」
「下からも敵の大軍が攻めてくる! 俺たちは完全に囲まれたんだ!」
「もうおしまいだ、こんな砦から逃げろ!」
傭兵たちは戦う気をなくし、あちこちへ逃げ惑う。
指揮系統は、もはや完全に壊れていた。
俺は最後の仕上げとして、船首にあるバリスタの照準を操作する。
狙いは砦の城門の横にある、石造りの見張り塔だ。
「これで、完全に心を折ってやる!」
俺が発射スイッチを押すと、巨大な矢が音を立てて夜の闇へと射出された。
矢はきれいな放物線を描き、狂いなく見張り塔へと突き刺さる。
石造りの頑丈な塔が、まるで玩具のように大きな音を立てて崩れ落ちた。
その圧倒的な破壊力を目の当たりにして、傭兵たちの心は完全に砕け散る。
武器を捨てて降伏する者や、泣き叫びながら神に許しを乞う者もいた。
砦は本格的な戦闘を始める前から、すでに内側から崩れていたのだ。
「はっはっは! 見ろよミナト、赤子の手をひねるより簡単だぜ!」
バルガスが、腹を抱えて心の底から大笑いしている。
「ああ、思った以上の効果だったな」
俺も、その完璧な結果に満足してうなずいた。
この作戦は、文句なしの大成功だ。
その頃、砦の中では、領主のバルトス辺境伯が、豪華な自室の床に座り込んでいた。
彼は、全身をぶるぶる震わせている。
「な、なぜだ。なぜ、私がこのような目に遭わねばならんのだ……」
彼の耳には部下たちの悲鳴と、化け物の叫び声が聞こえる。
さらに攻めてくる敵の叫びも混ざり、ひどい音を立てていた。
もはや、彼には現実と悪夢の区別もつかなくなっている。
「だ、誰か! そこに誰かいないのか! 私を、この私を守るのだ!」
彼は、裏返った声で必死に叫んだ。
しかしその声に力強く応える部下は、もうこの砦には誰もいない。
部下たちは、皆あっさりと彼を見捨てて逃げ出してしまったのだ。
「ひ、ひいいい……」
バルトスは自分が一人ぼっちだと、はっきりと理解した。
その時、部屋の重い扉が、ゆっくりと不気味に開かれた。
そこに立っていたのは、屈強な体を持つ、赤銅色の肌をした大男だった。
その手には血を吸いそうな巨大な戦斧が、鈍い光を放ちながら握られている。
「よう、デブ領主。ずいぶんと探させちまったな」
バルガスが、獲物を見つけた獣のような、獰猛な笑みを浮かべていた。
「き、貴様は一体誰だ!?」
「俺か? 俺は偉大な川の主様の、使いの者だ」
バルガスは、さも当然であるかのようにそう言った。
その思いもよらない言葉に、バルトスは驚いて息を呑む。
使い。
目の前にいるこの大男が、あの伝説の化け物の使いだというのか。
「川の主様が、お前に直接話があるそうだ。さっさと、城門まで出てこい」
バルガスの有無を言わせぬ迫力に、哀れなバルトスは逆らうことができない。
彼は震える足でどうにか立ち上がると、バルガスに促されるまま、よろよろと部屋を出た。
城壁の上は、もはや見る影もなく荒れ果てている。
武器や防具が無残に散らばり、人の気配は全く感じられない。
バルトスは、恐る恐る崖の下の暗い川面を見下ろした。
そこに、それはいた。
深い霧の中から、巨大な水竜が、こちらを見上げていた。
その圧倒的な存在感に、バルトスは再び腰を抜かしそうになるのを必死でこらえる。
「な、なんだというのだ偉大なる川の主よ。私が、何か気に障ることでもしたか?」
彼は、震えでかすれた声で必死に問いかけた。
するとどこからともなく、天からの声のように立派な声が響き渡る。
もちろん、俺が音響装置で巧みに作り出した声だ。
『愚かで欲深い人の子よ。お前の数々の悪行、天にまで届いているぞ』
その神の言葉のような声は、バルトスの腐った心に、鋭い刃のように突き刺さった。
「あ、悪行だと!? 私は、領主として領民を正しく導いてきただけだ!」
『まだ、そのような嘘を言うか。お前の底なしの欲が、どれだけ多くの民を苦しめてきたことか』
その声と共に、水竜がゆっくりと巨大な首をもたげる。
その巨大な顎が、今にも自分を丸ごと飲み込むかのように、不気味に開かれた。
「ひ、ひいいいいいっ! わ、分かった! 私が悪かった! 何とぞ、許してくれ!」
バルトスは、ついに完全に諦めた。
彼は城壁の上にみっともなくひれ伏し、必死になって命乞いを始めた。
「税は、すぐに元に戻す! 村から奪った財産も、全て返す! だから、この命だけは!」
そのあまりにも見苦しい姿を、俺は船の上から冷ややかな目で見下ろしていた。
権力という鎧を剥がされた人間は、こんなにも無力で、小さな存在なのだ。
俺はもう一度だけ、スピーカーに向かって最後の言葉を響かせた。
『よかろう。その言葉、信じてやろう。だが、もしこの約束を破ることがあれば……』
水竜は、天を揺るがすほどの、最後の咆哮を上げた。
その音は、バルトスの魂を、芯から激しく震わせた。
『その時は、お前の骨の一本も、この世には残さないと思え』
「は、はい! 決して、約束は破りません!」
バルトスは涙と鼻水で汚れた顔で、何度も地面に頭をこすりつけ続けた。
そのおかしな様子を見ていたギルたちが、崖の下で、勝利の叫びを上げる。
彼らの長年の苦しみと絶望は、今この瞬間、完全に終わりを告げたのだ。




