表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/30

第1話

「それで佐伯、この仕事はいつ終わらせるつもりなんだ?」

粘りつくような声が、俺の背中に突き刺さる。

振り返らなくても、誰なのかはすぐに分かった。

俺の課長だ。


俺の名前は、佐伯湊で二十八歳。

都内の会社で働く、ごく普通のサラリーマンのはずだった。

しかし今の俺は、上司の標的にされたただの社畜だ。

「申し訳ありません、本日中には必ず終わらせます」

「今日中だと? もう夜の十時を過ぎているぞ。お前のせいで、こっちが帰れないんだがな」

パソコンの画面から目を離さず、俺はそう答える。

胃が、キリキリと痛むのを感じた。


ここ一ヶ月ほど、まともに家に帰った記憶がない。

食事はいつも、デスクで食べる栄養補助食品だけだった。

睡眠時間は、会社の仮眠室での二、三時間だ。

そんな生活を続けて、心も体もとっくに限界だった。

「……すみません」

「謝って済むなら、警察はいらないんだよ。だいたいお前はいつも……」


課長の長い説教が、また始まった。

もう聞き飽きた内容が、右の耳から左の耳へと通り抜けていく。

俺の意識は、だんだんと遠のいていった。

ああ、ひどく疲れたな。

どこか遠くの海が見たい。

のんびりと、釣りをしながら一日を過ごしてみたい。


そんなことを考えていたら、ふいに視界がぐにゃりと歪んだ。

キーボードを打っていた指から、すうっと力が抜けていく。

まずい、倒れる。

そう思ったのが、本当に最後だった。

俺の意識は、そこでぷつりと途切れた。


次に目を開けた時、俺は真っ白な空間にいた。

目の前には一人の老人が、静かに立っている。

白髪に白い髭をたくわえ、まるで神様みたいだ。

服装も、古代ギリシャの哲学者のようだった。

「目覚めたかね、若者よ」

穏やかな声で、老人が話しかけてきた。

「ここはどこですか? 俺は、もしかして死んだんですか?」

「うむ、残念ながらその通りじゃ。過労による心不全、いわゆる過労死というものじゃな」

やっぱりか。

自分でも、そうじゃないかと薄々感じていた。

不思議なことに、悲しさや悔しさは湧いてこない。

むしろあの地獄から、やっと解放されたという安心感の方が強かった。

「そうですか。あなたは、神様か何かですか?」

「いかにもワシは、世界の様々な可能性を管理する神の一人じゃ」

老人は、にこやかに頷いた。

「お主の人生は、あまりにも不憫であった。ワシの独断じゃが、ささやかな贈り物を用意させてもらった」

「贈り物、ですか?」

「うむ、お主を別の世界に転生させてやろう。そこは剣と魔法のある、ファンタジーの世界じゃ」

異世界転生。

小説や漫画で、よくある話だ。

俺も、そういう物語は嫌いじゃなかった。

「もちろん、ただ放り出すわけではないぞ。お詫びのしるしに、特別なスキルを一つ授けよう」

神様はそう言うと、俺の胸にそっと手をかざした。

温かい光が、体の中に流れ込んでくる。

「お主には、スキル【万能造船】を授ける。その力を使えば、思い描いた通りの船を自在に造り出せるじゃろう」

「船、ですか?」

「うむ、お主は海が好きだったようじゃからの。船があれば、誰にも縛られずに自由に生きていける」

神様は、俺の心を読んでいたらしい。

確かに、広い世界を船で旅するなんて最高だ。

「ありがとうございます。でも、どうして俺なんですか?」

「ワシの気まぐれじゃよ。それに真面目な者が、理不尽に命を落とすのは見ていられんかった」

神様は、優しい笑みを浮かべた。

「転生する世界は、アクアフォールという。巨大な大陸に、網の目のように川が流れる水の豊かな世界じゃ」

「アクアフォール……」

聞いただけで、わくわくするような名前だ。

「では、そろそろ時間じゃな。新たな人生を、今度こそお主の好きなように生きてみなさい」

神様の言葉を最後に、俺の体は再び光に包まれた。

遠のく意識の中、俺は新しい人生を思った。

もう、誰かのために自分を犠牲にするのはやめよう。

これからは、自分のためだけに生きていくんだ。


次に気がついた時、俺は柔らかな草の上に寝転がっていた。

頬をなでる風が、とても気持ちいい。

ゆっくりと目を開けると、目の前にはどこまでも広がる青空があった。

体を起こすと、周りの景色が目に入る。

俺がいるのは、穏やかに流れる大きな川のほとりだった。

対岸には、緑の豊かな森が広がっている。

鳥のさえずりと、川のせせらぎだけが聞こえてきた。

「本当に、来てしまったんだな。異世界に」

俺は自分の手を見つめた。少し若返った気がする。

服装はスーツではなく、動きやすいシャツとズボンに変わっていた。

ポケットには、何も入っていない。

まさに、裸一貫からの再出発だ。

だが、俺の心は不思議と晴れやかだった。

まずは、神様にもらったスキルを試してみよう。

【万能造船】。

俺は頭の中に、小さなボートを思い浮かべた。

手漕ぎで進む、一人か二人乗りのシンプルな木の船だ。

すると目の前に、半透明の設計図のようなものが現れた。

そして、その設計図に必要な素材が表示される。

【木材:10】

なるほど、素材が必要なのか。

あたりを見回すと、ちょうどいい感じの倒木がいくつか転がっていた。

俺は一番大きそうな木に近づき、そっと手で触れてみる。

すると、頭の中に声が響いた。

【木材を入手しました】

おお、すごいな。

触れるだけで、素材を回収できるらしい。

俺は夢中になって、周りに落ちている木材や石などを集めていった。

しばらくすると、スキルが要求するだけの木材が集まった。

俺はもう一度、ボートの設計図を心に浮かべる。

【素材が揃っています。船を建造しますか?】

俺は心の中で、強く「はい」と念じた。

すると集めた素材が、淡い光を放ち始めた。

光はみるみるうちに集まり、一つの形になっていく。

そして光が収まった時、俺の目の前には設計図通りの木のボートがあった。

「……できた」

俺は完成した船に、そっと触れてみる。

滑らかな木の感触が、指先に伝わってきた。

水漏れの心配も、なさそうだ。

本当に、スキルで船が作れてしまった。

これさえあれば、この世界で生きていけるかもしれない。

俺は早速、完成したボートを川に浮かべた。

乗り込んでみると少し揺れたが、安定感は悪くない。

オールも、ちゃんと備え付けられていた。

「よし、出発だ」

俺はオールを漕ぎ、ゆっくりと川を進み始めた。

どこに行くという、目的はない。

ただ、この流れに身を任せてみたかった。

空は青く、水は透き通っている。

時折、見たこともない色鮮やかな魚が水面を跳ねた。

あの窮屈なオフィスとは、何もかもが違っている。

「自由だ……」

俺は思わず、そう呟いていた。

自然と、涙がこぼれ落ちてくる。

上司の罵声も、鳴り止まない電話もここにはない。

あるのは、雄大な自然と穏やかな時間だけだ。

俺はしばらくの間、ただ夢中でオールを漕ぎ続けた。

太陽が少し傾き始めた頃、腹がぐうっと鳴った。

そういえば、最後に食事をしたのはいつだったか。

もう、思い出せないくらい昔のことのように感じる。

俺は岸にボートを寄せ、何か食べ物を探すことにした。

幸い、森には木の実や果物がたくさんなっていた。

一つ、リンゴに似た赤い果実をもいでかじってみる。

シャクッという、小気味良い音がした。

口の中に、爽やかな甘酸っぱさが広がる。

「美味い!」

毒はなさそうだ。

俺は、夢中でその果実にかじりついた。

いくつか食べたところで、少し落ち着きを取り戻す。

果物だけじゃなく、ちゃんとしたものが食べたい。

できれば、魚がいいな。

さっき水面を跳ねていた魚が、とても美味しそうに見えたのだ。

しかし、俺には釣り竿も網もない。

どうやって、魚を捕まえればいいだろうか。

俺は川の中を、じっと覗き込んだ。

透き通った水の中を、たくさんの魚が泳いでいる。

中には、五十センチを超えそうな大物もいた。

俺は、スキルを応用できないかと考えた。

【万能造船】は、船を作るためのスキルだ。

だが、船の部品ならどうだろうか。

例えば、漁に使う網とか。

俺は頭の中に、投網の設計図を思い浮かべた。

丈夫な蔓を編み込んで作った、シンプルな網だ。

【蔓:5】

必要な素材が表示された。

これなら、すぐに集められそうだ。

俺は森に入り、丈夫そうな蔓を探して集めた。

そして、スキルを発動させる。

光と共に、俺の手の中に立派な投網が現れた。

「よし、これならいけるぞ」

俺は川の中の魚の群れを狙い、思い切り投網を投げた。

ばさっと音を立てて、網が水面に広がる。

そして、ゆっくりと水中へ沈んでいった。

手応えは、十分にある。

俺は網を引き上げると、中には十匹ほどの魚がかかっていた。

銀色に輝く、とても美しい魚だ。

「大漁だ!」

俺は、思わずガッツポーズをした。

早速、捕まえた魚を調理しよう。

火を起こし、ナイフ代わりの鋭い石で魚をさばく。

内臓を取り出し、木の枝に刺して焚き火でじっくりと炙った。

じゅうじゅうと、魚の脂が滴り落ちる音がする。

香ばしい匂いが、俺の食欲を刺激した。

焼きあがった魚に、がぶりとかぶりつく。

「……っ!」

あまりの美味さに、俺は言葉を失った。

皮はパリパリで、身は驚くほどふわふわしている。

塩も何もつけていないのに、絶妙な塩気と濃厚な旨味があった。

こんなに美味い焼き魚は、生まれて初めてだ。

俺は夢中で、三匹も平らげてしまった。

満腹になった俺は、焚き火を眺めながらこれからのことを考える。

このスキルがあれば、食料には困らなさそうだ。

船もあるから、移動も自由にできる。

まずは、どこか人のいる町を探して情報を集めよう。

この世界のことを、もっと知る必要がある。

通貨や文化や、あるいは危険な場所についてもだ。

分からないことだらけだった。

俺は、船を少し改造することにした。

このままでは、夜に眠る場所もない。

せめて、雨や風をしのげる屋根と横になれる場所が欲しい。

俺は再び木材を集め、スキルを発動した。

ボートの上に、小さな船室を増設するイメージだ。

光と共に、ボートはみるみるうちに姿を変えていく。

そして簡素ながらも、ちゃんと壁と屋根のある船室が完成した。

中には、人が一人横になれるくらいの板張りの空間がある。

「すごいな、これ。まさに万能スキルだ」

俺は、この船に名前をつけることにした。

「リバーサイド号」。

単純な名前だが、とても気に入っている。

夜になり、空には無数の星がまたたいていた。

人工の光がどこにもないからか、星々は宝石のように強く輝く。

俺はリバーサイド号の船室に体を滑り込ませ、板の上に横になった。

木の香りと川のせせらぎが、優しい子守唄のようだ。

もうあの息が詰まる毎日には、戻らなくていい。

明日から俺の自由な船旅が、本当に始まるんだ。

船の心地よい揺れを感じながら、俺はゆっくりと目を閉じた。

すぐに深い眠りが、俺を包み込んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ