①ヒロシ、死亡!
——おい、凛! 今、何時だと思ってるんだ!
——うっさいわね、ハゲ! デブ!
——な、なんだとっ!
大学から家に帰った吉岡祐介が、ベッドの上でスマートフォンをいじっていると、部屋の外から口論が聴こえた。
祐介の兄ヒロシと、妹の凛の口喧嘩だ。
やれやれ、またか……。
祐介がウンザリしていると、ドカドカドカッと、激しい音がした。
驚いた祐介は、ドアを開けて、部屋の外を確認する。
左側、四メートルほど先に、制服を着た妹の凛がいた。
凛は、両手で口元を押さえている。
ふと祐介と目が合うと、凛は泣き出しそうな顔になった。
「お兄ちゃん。やばい、やばい……どうしよう」
「どうしたんだ?」
「ヒロシが、階段から落ちたの」
「えっ!」
「ムカついて股間を蹴ったら、フラフラして……」
「えっ、股間……?」
祐介は、手すりから階段の下を覗いた。
うつ伏せで倒れている男が見える。
あの薄い頭と太った身体、悪趣味な金色のパジャマ、間違いなくヒロシだ。
裕介が二段飛ばしで、階段を駆け降りる。
そしてヒロシに近づき、その身体を仰向けにした。
彼は息をしていなかった。
「ひっ……」と、小さく悲鳴を漏らす祐介。
階段の途中で座り込んだ凛に、ゆっくりと顔を向ける。
「し……死んでる……」
◆ ゾンビになったヒロシ / 岡本圭地 ◆
——ついに、この日が来たか。
祐介は、そう思った。
高校二年の凛は、自由奔放に育ったせいか、度々兄達を心配させる行動を取るようになった。
不良ではないのだが、遊びたい時は、いつまでも街をブラブラするような子だ。
今日みたいに、夜八時を過ぎて家に帰ると、決まって兄のヒロシに注意される。
その後、口喧嘩が始まるのだ。
それは次第にエスカレートしだし、いつかどちらかが怪我でもするんじゃないか、と危惧していた。
予想は的中する。
いや、予想以上の形となった。
まさか、ヒロシが死ぬとは……。
ヒロシこと吉岡広史は、今年で四十歳。
ふた回りも歳の離れた、義理の兄だ。
祐介と凛が小学生の頃、母親が五十代の男性と再婚をした。
その男性の連れ子が、ヒロシだ。
ヒロシはその時、三十歳だったが一度も職に就いた事がなく、ただ親の脛をかじって生きる遊び人だった。
その後、家族五人での生活が始まった。
だが、新しい父親が交通事故で亡くなると、母親も病死してしまう。
今は、兄弟三人で暮らしているが、それでもヒロシは仕事をしなかった。
なぜなら祐介達の母親も、交通事故で亡くなった父親も、元プロゴルファーで、沢山の賞金を稼いでいたからだ。
家も大きく、遺産もかなりある。
親の脛を、かじりながら生きてきたヒロシが、今さら仕事をするわけがない。
そればかりか、夜な夜な麻雀仲間と卓を囲んだり、呑み歩いては数十万円も散財する始末だ。
おまけに、覗きや下着泥棒の常習犯でもあるから困る。
今まで一度も警察沙汰にならなかったのは、ヒロシが被害者の女性に大金を積んで、口を封じたからだ。
もとは親の金なのに。
そう、彼は、ろくでもない男だった。
まさにクズ。
まごう事なき、クズ中のクズ。
キング・オブ・スーパークズなのだ。
そのくせ父親づらで、偉そうに説教までしてくるのだから堪らない。
だが、ヒロシが威張ったところで、別に怖くもない。
口だけで達者で、実は臆病な男だと知っているからだ。
そんな子供のような義理の兄を、祐介と凛は、いつしか『ヒロシ』と、呼び捨てするようになった。
それは、ヒロシ本人も気にしていなかった。
「警察を呼ばないと! いや救急車か!」
祐介がスマートフォンを取り出すと、凛が鬼の形相で、階段を駆け下りてきた。
そして、裕介のスマートフォンを乱暴に蹴り飛ばす。
「な、何するんだよ! 壊れるだろう!」
「嫌よ! 私、捕まるじゃん!」
凛は、激しく首を左右に振った。
ポニーテールも連動して、左右に揺れる。
「ねえ、お兄ちゃんがやった事にしてよ!」
「ふざけんなよ! 何で俺が罪をかぶらなきゃいけないんだよ! お前がヒロシの股間を蹴るからだろ!」
「お願い!」
「お願いじゃねえよ!」
拝むように掌を合わせる凛。
祐介は、ふうっと吐息を吐いて、やや慰める様に言う。
「別にわざと、殺したわけじゃないんだろ? それにお前は未成年だ。ちょっと少年院に入るくらいで、済むんじゃないのか?」
「やだやだ! 絶対にやだ!」
ほとほと呆れた祐介が、肩をすくめる。
その時、凛が目を見開き、何か思いついた顔でヒロシを指差した。
「人工呼吸!」と、凛が叫ぶ。
「えっ?」
「お兄ちゃん、早く人工呼吸して! 生き返るかもしれないよ!」
「ええっ! 嫌だよ、ヒロシとなんか! 気持ち悪い! 酒臭いし」
顔を歪める祐介。
だが凛は、問答無用で祐介の頭を掴んで、ヒロシに人工呼吸させようとした。
「うわっ! やめろ!」
ブチュッ。
「ちょ待……」
ブチュッ。
「やめろって!」
ブチュッ。
「いい加減に……」
ブチュッ。
凛は兄の唇を、何度もヒロシの唇に押し付けた。
「どう? 生き返った?」
「生き返るわけないだろっ! これただのキスだろ!」
祐介は着ているスウェットの袖で、唇を拭きながら、凛を怒鳴った。
「だいたい殺したのは、お前だろ! お前が人工呼吸しろよ!」
今度は祐介が、凛の頭を掴んで、ヒロシの顔に近づけた。
「イヤー! 何で、こんな汚いオッサンとキスしなきゃいけないの!」
凛は激しく暴れ出し、祐介の股間をドスッと蹴り上げた。
「はうぅ……」
股間を押さえて、うずくまる裕介。
腹痛の様な、キリキリとした痛みが押し寄せる。
なんて事をするんだ、このクソガキ……。
祐介は、怒りと憎しみに満ちた顔で、凛を見上げた。
そんな兄を、仁王立ちで見下ろす凛。
「ほらっ、早く人工呼吸して!」
「……クソッ、分かったよ!」
涙目の祐介は、仕方なく人工呼吸をする事にした。
また凛に股間を蹴られたら、堪らないからだ。
祐介は昔、高校の授業で教わった人工呼吸のやり方を、思い返した。
「や……やるぞ」
深呼吸をして、覚悟を決める。
祐介はヒロシの鼻を摘んで、口に何度も息を送り込んだ。
ヒロシの口臭は、この世のものとは思えないほど酷かった。
例えるなら、腐ったミカンと、腐った牛乳と、腐ったミンチを混ぜ合わせたような悪臭だ。
まさに、地獄以上の地獄。
汚物以上の汚物だ。
こんな拷問が、この世に存在するのか。
裕介は気絶そうになった。
それでも我慢して、人工呼吸を続けた。
その様子を見ていた凛は、引きつった顔で口元を押さえた。
……見てはいけない、目の毒だ。視力が下がる、眼球が潰れる、網膜が破裂する。
凛は、そう自分に言い聞かせたが、やはり気になって見てしまう。
その度に「うわぁ……汚い」と、何度も小声を漏らした。
祐介は息を送るだけではなく、心臓マッサージも試みた。
だが、とうとうヒロシが目覚める事はなかった。
しばらく繰り返した後、ついに祐介に限界がくる。
「おえぇぇぇぇぇ……! も、もう無理!」
祐介は気持ち悪くて、仰向けで倒れた。
咳や吐き気、めまい、頭痛、しびれ、悪寒、呼吸困難……ありとあらゆる体の不調に襲われた。
祐介は、このまま自分も死ぬんじゃないかとさえ思った。
つづく……




