第八十一話 貧困ビジネスの極み
十二月。王都に数十年ぶりとなる記録的な大寒波が到来していた。
窓の外では雪が舞い落ち、石畳は雪に覆われている。
吐く息は白く、冷たい風は痛みに変わる。
過酷な季節の始まりだ。
「ようやく、今年の執務も終わりが見えてきたな」
王太子執務室。
山積みだった決算書類の最後の一枚にサインを終え、殿下が深く安堵の息を吐いた。
暖炉には最高級の薪が赤々と燃え、室内は春のような快適な温度に保たれている。
「お疲れ様です、殿下。今年の大きな懸案事項は片付きましたね。結婚式の準備以外は」
「……リリアナよ、今それを言うな」
私は殿下のデスクに紅茶を置く。
このまま何事もなく平和な一日を迎えられる――そう思っていたが、廊下から響くいつもの足音が、私の淡い願いが打ち砕かれる。
執務室のマホガニー柄の鉄扉が、今にも破壊されそうな悲鳴と共に開け放たれた。
「リリアナ! 愛しのあなた! マッチを売りますわよ!」
現れたのは、猛吹雪の中から駆け込んできたであろうイザベラ様。
今日のイザベラ様の装いは、極彩色のシルクで仕立てられたドレスは変わらないが、裾が刃物で無残に切り裂かれ、所々に煤で絶妙なダメージ加工が施されている。
さらに裸足に粗末な木靴を履き、肩には薄汚れた赤いショール。全体的に高級なボロ着の『マッチ売りの少女ドレス』だ。
「……イザベラ、ついに盗賊にでも襲われたのか?」
殿下が呆然と問いかけた。
イザベラ様は「心外ですわ。むう……」と頬を膨らませ、手にした小さな竹籠を掲げる。
「この姿は、『マッチ売りの少女』ですの」
「は……?」
「あら、あなたはご存知ないのですの? 冬の童話の定番ですわ! 極寒の街角に立ち、凍えながらも希望の火を売る薄幸の少女! その悲哀と慈愛の精神を我が物とすることこそ、次期王太子妃たる『花嫁修行』に相応しいのですわ!」
「お前は少女ではなく、令嬢だがな」
「細かいことは気にしないでくださいませ」
変わらず、イザベラ様の理屈のスタート地点は崇高だが、向かっているゴールがおかしい。
背後に控える『取り巻き軍団』も、お揃いの高級ダメージドレス姿で整列している。
取り巻きたちはイザベラ様をうっとりと見つめ、感動したように両手を組むと、一斉にさえずる。
「さすが、イザベラ様の完璧な薄幸ぶりですわ!」(取り巻きB・C・D)
「そのボロ着は王冠より高貴に輝いて見えます!」(取り巻きE・F・G)
「温かい幻想に浸りそうですの!」(取り巻きH・I・J・K)
取り巻き軍団が口々にさえずる中、私は深くため息をついた。
「イザベラ様、花嫁修行の熱意は買いますが、王宮でマッチを売っても意味がないかと。ここは、すでに暖房が完備されていますから」
「分かっているわ。だから、これから王都でマッチを必要としている場所へ赴くのよ」
「必要な場所ですか?」
私が首を傾げると、イザベラ様は一枚の地図をデスクに広げた。
そこには王都の南西地区に開発された新興居住区が印づけられている。
「ここよ、リリアナ。新興の不動産王、グレース子爵が開発した『平民向けの宿舎』よ」
イザベラ様の瞳から、いつもの陽気な光が消えた。
「この宿舎に住む平民たちが、最新の建物にも関わらず、毎夜凍死寸前の寒さに震えていると聞いたの。次期王太子妃たる私が、これを見過ごすわけにはいかないわ」
私は地図を見て、思考を巡らせる。
――グレース子爵。その名は、最近の財務局でも黒い噂が絶えないからだ。
「殿下、グレース子爵の開発した居住区は、王国から莫大な『冬季防寒対策補助金』を引き出して建設されたはずです」
「ああ、俺も書類にサインしたな。安価な家賃で、最新の魔導断熱材を備えた優良な宿舎だという触れ込みだったが」
「もし、それが虚だとしたら」
私の脳内で最悪のパターンの計算式が組み上がる。
「すぐに現場へ向かいましょう、殿下。イザベラ様の花嫁修行に付き合う形になりますが、これは重大な経済犯罪の匂いがします」
「……仕方あるまい」
私たちは急いで防寒具を着込んで、イザベラ様の馬車に同乗し、南西地区へと向かった。
◇
王都南西地区、新興居住区。
現場に到着した私たちは、異様な光景に絶句していた。
「これは何だ……?」
殿下が分厚いコートの襟を立てながら呟く。
目の前には、外観こそ新しいレンガ造りの集合住宅。しかし、出入りする住人たちは皆、何枚も毛布を被り、寒波に身を震わせながらうずくまっている。
まるで難民のような有様だ。
「お前たち、大丈夫か? なぜ家に入らないのだ」
殿下が声をかけると、毛布にくるまった老人が、震える声で答える。
「あ、貴方様は王太子殿下……。家の中の方が寒いんですわ……」
「どういう意味だ?」
「壁から冷たい風が吹き込んでくるのです。備え付けの『魔道暖炉』も、子爵様から買う『専用の魔道炭』じゃなきゃ動かねぇ。また、その炭が目玉が飛び出るほど高くて、俺たちには買えねぇんです……」
私は手元のバインダーを開き、グレース子爵の事業計画書を開ける。
家賃は相場通りだが、暖炉の燃料を自社製品に独占させ、市価の五倍で売りつけている。
典型的な『囲い込みビジネス』だ。
だが、問題はそこではない。
「どれだけ高い炭を燃やしても、一向に部屋が暖まらねぇんです。まるで壁の向こうが外みたいで……」
老人の言葉に、私は確信を持った。
「補助金の中抜きですね」
「リリアナ、どういうことだ?」
「子爵は断熱材をわざと抜いています。スカスカの壁で建物をでっち上げ、浮いた建築費を懐に入れています」
「部屋が寒ければ寒いほど、住人たちは凍死を免れるために、高額な専用燃料を燃やし続けるしかない、ということか」
住人の命を人質に取り、燃料代で暴利を貪る。
これは弱者を食い物にする『貧困ビジネス』の極みだ。
「……悪魔の所業か。ならば即刻監査を入れろ。壁を引き剥がし、断熱材が入っていないことを証明すればいいだろう」
「殿下、それができれば苦労はしません」
私は眼鏡を押し上げ、奥歯を噛み締めた。
「壁の中を調べるには、裁判所の『強制捜査令状』が必要です。しかし、子爵は不当な器物損壊だと主張し、弁護士団を雇い、法的に調査を拒否しています。さらに裏で手を回し、令状の承認手続きを意図的に遅延させているのようです」
「何だと……」
「裁判沙汰になれば結審までに数ヶ月はかかります。その間に、この記録的な寒波の中で凍死者が出るのは確実です」
壁を壊さず、壁の中が空洞であることを法的に証明しなければならない。
私たちが打つ手もなく立ち尽くしていた時だった。
「マッチはいかが? 温かくて、希望の光が灯るマッチですわ」
凍てつく路地に、か細く、しかしどこか劇団員のような声が聞こえた。
イザベラ様だ。
彼女はカゴに入れたマッチの束を掲げ、凍える住人たちの前に歩み出た。
「皆様、寒さに震えるそのお気持ち、私も痛いほど分かりますわ。ですから、どうぞ、この特別製の『ロイヤル・マッチ』をお使いくださいませ」
イザベラ様がマッチを差し出す。
だが、その行為を鼻で笑う者がいた。
「ふっふん。相変わらず暑苦しくて品のない赤だこと」
凛とした声の方へ振り向くと、深い青色のベルベットドレスをつぎはぎに加工した、もう一人のマッチ売りの令嬢、カトレア様だった。




