第七十三話 イザベラ・ルール
特級区画が『南東地区ロイヤル・ゴルフ倶楽部』として生まれ変わってから、わずか数日のこと。
王太子執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
「……リリアナ、これはどういうことだ? 王都の市中から現金が消えかかっているだと?」
アレクセイ殿下が、こめかみを押さえながら報告書を睨みつける。
それに答えたのは私ではなく、執務室のソファに座るエステナだった。
彼女は、カトレア様の『大規模な新規事業』の認可申請書類を提出しに来たついでに、私と経済指標の答え合わせをしていた。
「はい。一部の投資家や貴族たちが、事業資金や領地の税収まで引き出し、ある一つの『紙切れ』に全財産を注ぎ込んでいます。……『ゴルフ会員権』です」
エステナが事務的な声で事実を告げる。
私は深くため息をついた。
イザベラ様が発案し、ミハイル殿下の鶴の一声で設定された『金貨百枚の会員権』。
あれは農民の生活を保障するための緊急措置であり、発行数は限定50口だった。
しかし、ミハイル殿下と同じクラブに所属できるという特権階級のステータスが、貴族たちの虚栄心を異常に刺激してしまっていたのだ。
「現在、会員権は非公式の転売市場で、金貨500枚……実に初期価格の5倍で取引されています。完全に投機目的のバブル経済です」
「馬鹿な……。ただの泥だらけの荒れ地だぞ?」
「百聞は一見に如かずです。殿下、現場へ向かいましょう」
◇
私たちが視察に訪れた『南東地区ロイヤル・ゴルフ倶楽部』は、異様な熱気に包まれていた。
「旦那様、今日の風は北西から吹き下ろしています。ここは無理に飛ばさず、七番のアイアンで手堅く刻むのが最善かと存じます」
コースの真ん中で、農民が公爵家支給の制服に身を包み、『キャディ』として的確なアドバイスを送っていた。
彼らは長年この土地を耕してきた気候と土壌のプロだ。芝の生え方一つ、風の匂い一つで、自然の機微を読み取る。
イザベラ様の言葉通り、彼らは専門知識を活かし、素晴らしい仕事を全うしているようだ。
けれど問題は、『プレイヤー(貴族)』だった。
「ああ、分かった分かった。適当にその辺のクラブを貸してくれ。……それよりもランドシャーク子爵、先ほどの会員権の件だがね」
「ええ、伯爵。今なら金貨600枚でお譲りしますよ。明日には700枚になるプラチナチケットです」
貴族はキャディのアドバイスなど全く聞いていない。
適当にクラブを振り回し(当然ボールは明後日の方向へ飛ぶ)、すぐに馬車に戻り、同伴者と商談や会員権の転売話に花を咲かせている。
そこにいたのは、悪徳金融業者のランドシャーク子爵。
彼は土地の乗っ取りの機会を不気味に窺いながら、すぐさま会員権のブローカーに転身し、このバブルを煽って暴利を貪っていたのだ。
「酷い有様だ。誰も真面目にスポーツをしていない……」
殿下が呆れたように呟く。
スポーツの場は醜悪な社交場と株式市場に成り下がっている。
農民たちはキャディとしてプロの仕事をしているというのに、貴族たちは彼らをただの荷物持ち扱いし、プレイそっちのけで金の話だ。
私たちがコースを見渡していたその時、聞き慣れた水音が響いてきた。
「あらあら、相変わらず埃っぽくて、優雅さの欠片もないコースですわね」
カトレア様だ。
彼女は秋の装いであるディープブルーのベルベットドレスを纏い、太鼓持ち軍団を引き連れて現れた。
その頭上には、黄金の麦穂をふんだんにあしらった豪著な麦わら帽子。それだけであれば秋らしくて美しいが、帽子の頂点には『白鳥のクリスタル』が鎮座し、運河の水流を模した青いシルクのヴェールが滝のように流れ落ちている『スワン・ハーヴェスト・ハット』だ。
「皆様、このような泥臭い場所の紙切れに金貨600枚も払うなんてナンセンスですわ! わたくし、ここ数日、我が家の私財と土木部隊を総動員し、コースの九割が水場という、世界一美しく過酷な『アクア・リゾート・コース』を完成させましたわ!」
「新規コースの開場だと!?」
「ええ! 海から農園までを一直線に繋ぐ巨大な水路コースですわよ! もちろん、会員権の価格は適正かつ公平に『金貨100枚』で発行いたしますわ!」
カトレア様の宣言に、その場にいた貴族たちの目の色が変わった。
市場価格600枚まで高騰している魔法の紙切れが、定価の100枚で新規発行されるのだ。手に入れた瞬間に莫大な利益が確定する。
それが、新規発行されるのだ。
「か、買います! 私に10口!!」
「いや、私が50口まとめて買い上げる! カトレア様、契約書を!」
貴族たちが血走った目でカトレア様に詰め寄る。
バブルがさらに加速する。
このままでは王国の資金が「ゴルフ」という虚業に吸い尽くされてしまう。
「止めなければ。エステナ様、強制執行の準備を」
「お待ちください、リリアナ様。主役が到着しました」
エステナの視線の先、地鳴りのような怒りを纏って歩いてくる人物がいた。
「お待ちなさい!」
イザベラ様だ。
彼女は機能性を重視した秋用のタイトなスポーツウェアに身を包み、手には一本の使い込まれたクラブを握っている。
その瞳には、かつてないほどの怒りの炎が宿っていた。
「イ、イザベラ様……!? ちょうど良かった、我々も新規会員権を……」
貴族たちがへらへらと笑いながら歩み寄ると、イザベラ様は彼らの足元ギリギリの地面に、クラブを力強く突き立てた。
「ひぃっ!?」
「……私がいつ神聖なるグリーンの上で商談を許可しましたの? 自然の機微を読み、己の肉体と精神の限界に挑む。それがスポーツの、ゴルフの真髄ですわ。……それなのに貴方たちは、なんです!? 風を読まない! 土を敬わない! 何より!」
イザベラ様は困惑して立っているキャディ(農民)たちを指差した。
「この土地を知り尽くした彼ら、プロフェッショナルの言葉に耳を傾けず、適当なスイングで芝を傷つけ、あまつさえ汗を流すべき場所で金の話をするなど……言語道断、万死に値しますわ!!」
その一喝に、転売に狂っていた貴族たちが肩を震わせた。
キャディたちは、自分たちの仕事をそこまで尊重してくれている公爵令嬢の言葉に、ハッと目を見開いていた。
「まったく、イザベラ嬢の言う通りだよ」
背後から、ミハイル殿下が静かに歩み出てきた。
彼は会員第一号の証であるバッジを胸に光らせ、貴族たちを冷ややかに見下ろす。
「僕がこのクラブに入会したのは、一流のキャディと共に真剣にスポーツを楽しむためだよ。……投機の道具にして、神聖なスポーツを汚すような輩と同じクラブには、いたくないな。そう思わないかい? 思うよね? ね?」
相変わらずの圧ではあるが、王族の決定的な一言。
それは「転売目的の貴族は、ミハイル殿下の不興を買う」という死の宣告に等しかった。
「貴方たちが真にゴルフを愛しているか、この私が、直々にテストをして差し上げますわ! 明日より、このクラブは『完全実力主義』のイザベラ・ルールに移行しますわ!」
嫌な予感がする。
私は思わず胃の辺りを押さえた。
「カート(馬車)の使用は禁止! 全てのコースを己の足で走り、キャディの助言に絶対服従。規定の打数で回れなかった者は、即刻、会員権を剥奪し、ただの紙屑にして差し上げますわ!」
「な、なんだって!?」
貴族たちの絶叫が、秋の空に響き渡る。
「もちろん、カトレアの新コースも同じルールを適用しますわよ!」
「えっ、わたくしのコースもですの!? ……まあ、いいわ。わたくしのウォーターハザードを舐めないことね! ミハイル様の前で無様な水落ちは許しませんわよ!」
投機目的で大金を叩いた軟弱な貴族たちに、突如として襲いかかる過酷なアスリート生活。
経済のバブルを、物理で粉砕する。
それが、イザベラ様の出した最適解だった。
誰もが青ざめ、バブル崩壊の足音に震える中、ただ一人、ランドシャーク子爵だけが、騒ぎの輪から一歩引き、パチパチと拍手をし始めた。
彼がなぜ、自分の抱える会員権が紙屑になるこの裁定を歓迎するのか。
その不敵な笑みが、王都を揺るがす真の危機の始まりであることを、私たちは知ることになる。




