【番外編:前編】聖バレンタインの祝日
こちら読者様からいただきましたリクエスト回です。
ありがとうございます!
また短編としてお楽しみいただきたく、話は長いです。
大陸暦2026年、2月14日。
この国には古くから伝わる、『聖バレンタインの祝日』という風習がある。
恋人たちが愛を囁き合い、女性から男性へ、親愛の証としてチョコレートや贈り物を渡す日だ。
王太子執務室。
俺、アレクセイ・フォン・グラン・カイゼルは、卓上のカレンダーに記された日付を睨みつけながら、深いため息をついた。
「やはり来るか」
「はい、間違いなく来ます」
傍らで、俺の紅茶を淹れていたリリアナが、同情の色を浮かべて頷いている。
俺の婚約者、イザベラ・フォン・ローゼンバーグ。
あの歩く台風が、今日の重大なイベントを見逃すはずがない。
昨年は「愛の大きさは物理的な大きさに比例しますわ!」と言って、俺の等身大チョコレート像を執務室に搬入し、床が抜けたのを覚えている。
今年はいったい何をされるのか。
俺は胃の痛みを覚えながら身構えると、ほどなくして、その時がやって来た。
バンッ! 予感は扉が破砕される音と共に現実となる。
「あなた! ハッピー・バレンタインですわ!」
まさに愛を体現したかのような深紅のドレスを翻し、暴風の如く現れたイザベラ。
だが、今日の彼女はいつもの扇子を持っていない。
代わりに手にしていたのは、一冊のボロボロの書物だった。
「イザベラよ、扉をノックしろと何度言わせれば……いや、何度も扉を壊すな。それで、今年は何だ? また俺の銅像か? それともカカオ豆の農園ごとプレゼントする気か?」
「違いますわ! そのような物質的な愛はもう卒業しましたの!」
イザベラは書物を俺のデスクに叩きつけた。
タイトルは、『下町の恋人たち ~貧しくても愛がある~』。
どうやら巷で流行している三文恋愛小説らしい。
「今年は『体験』ですわ! ですから、あなたは今日の執務はお休みですの! 私と二人っきりで城下町へ出て、『お忍び庶民デート』をしますわよ!」
「なんだと……?」
俺は思考を停止させた。
お忍びでデート?
王国で、いや世界で一番目立つ女と?
「待て、俺は王太子だ。護衛なしで城下町を歩けるわけないだろう。それに今日は予算会議もあるのだ」
「リリアナ、殿下のスケジュールはどうなっているの?」
「ご安心ください、イザベラ様。すでに殿下のスケジュールは、昨晩のうちに明日に回しました。予算会議の資料も、私が昨夜の内に承認印を押しておきました」
リリアナが涼しい顔で、親指を俺に向けて立てやがった。
いつの間に承認印まで手を出していたのだ?
こいつは有能すぎて、時々怖い時がある。
「リリアナ、貴様……俺を売ったな?」
「殿下、たまには息抜きも必要です。それに城下町の視察も王族の務め。どうぞ、心ゆくまで行ってらっしゃいませ」
『ふっふっふ。これで一人になれます』と、リリアナの心の声が俺には聞こえたが、強引に背中を押され、俺は逃げ場を失った。
イザベラが目を輝かせて、俺の手を握る。
「さあ、あなた! 急いで支度なさいませ! 庶民になりきるのですから、完璧な変装が必要ですわ!」
「行ってらっしゃいませ、殿下。息抜きも『王族の務め』です」
俺はリリアナに強く背中を押され、執務室から追い出された。
◇
三十分後、王宮の裏門付近。
俺は自分の目を疑っていた。
「イザベラよ、一つ聞きたい」
「どうしましたの? 愛しの『あ・な・た』」
「その格好は、お前の認識する『庶民』なのか?」
俺は地味な茶色のジャケットにハンチング帽、そして丸眼鏡という完璧な『しがない書生風』の変装をした。
これはリリアナの見立てだ。
対して、イザベラ。彼女は確かにいつもの極彩色や深紅のドレスは着ていない。だが、身につけているのは『純白のエプロンドレス』に、頭には『巨大な赤いリボン』。
手には『籠』を持っているが、その籠は純金で編まれており、中にはサンドイッチではなく、薔薇の花束が詰まっている。
そして何より、首元には国宝級のダイヤモンドを輝かせている。
「小説に出てくる『町娘A』を完璧に再現しましたの! どうです? この素朴な美しさは!」
くるりと回るイザベラ。
どこが素朴だ。どう見ても『祭りのパレードから脱走してきた主役』か、『変装という概念を知らない大富豪』だろう。
「まず、そのダイヤを外せ。あと、その金の籠は置いていけ。日向を歩くだけで目潰しになる」
「まあ! これは祖母から譲り受けた『護身用』の籠ですのよ? いざという時はこれで暴漢を殴るのですわ」
「殴るな。それで殴ったら相手はただでは済まない」
俺はため息をつき、リリアナに用意させた『普通の籐の籠』と『ストール』を彼女に手渡す。
「よく聞け、イザベラ。リリアナ曰く、今日は『アレク』と『ベラ』だ。俺たちは貧しいが愛し合っている新婚夫婦という設定らしいからな」
「きゃぁぁぁっ!? 貧しくも愛し合っている新婚夫婦ですの! なんて甘美な響きですこと!」
イザベラが頬を染めて身悶えする。
彼女にとって『貧乏』とは、ファンタジーの一種らしい。
「よし、行くぞ。護衛は遠巻きに配置してあるが、基本的には二人きりだ。はぐれるなよ?」
「もちろんですわ! アレク、あなたこそ、私の魅力に当てられた男たちに嫉妬して、乱闘騒ぎを起こさないでくださいまし!」
「絶対に起こさんと誓ってやろう」
俺はイザベラの手を取り、裏門を抜けた。
冬の澄んだ空気が肌を刺すが、隣にいる体温の高さ(物理的にも精神的にも)のおかげで、寒さは感じない。
王都の大通りは、バレンタインの祝祭ムード一色だ。
石畳の道には露店が並び、甘いチョコレートの香りと、ホットワインの湯気が漂う。
行き交う民は皆、笑顔で浮き足立っていた。
「凄いですわ、アレク! 見てくださいまし、あそこの屋台! 泥のようなものを売っていますわ!」
「……あれは泥ではなく、チョコレートフォンデュという菓子だ」
「あちらでは棒に刺さった武器を売っていますわ!」
「チュロスだ。揚げ菓子だ」
イザベラにとっては城下町の光景が異世界らしい。
彼女はキョロキョロと視線を巡らせ、そのたびに俺の腕をギュッと抱きしめる。
その力は強く、俺の二の腕がすでに悲鳴を上げているが、まあ、悪い気はしない。
「ねえ、アレク。この小説によると、庶民のデートには手順があるそうですわ」
イザベラがバスケットから例の書物を取り出す。
「まずは『①待ち合わせ場所ですれ違う』ですわ!」
「どういう意味だ?」
「ほら、時計塔の前で『遅いな、彼女……』と時計を気にする彼。そこへ後ろから『だーれだ?』と目隠しをする彼女! これこそが庶民の嗜みですのよ!」
「俺たちはすでに合流しているだろう。今さら別れてどうするのだ」
「ダメですわ! 形から入るのが流儀ですの! 私はあそこの路地裏に隠れますから、あなたは5分経ったら、不安そうな顔で待っていてくださいな!」
言うが早いか、イザベラは俺の手を振りほどき、脱兎の如く、路地裏へと走り去ってしまった。
「おい、ベラ! 一人になるな!」
俺の声は雑踏にかき消された。
馬鹿な奴だ。王都の路地裏がどれほど入り組んでいるのか、恐らくあいつは知らない。
それに、あんな『町娘A』という名の大富豪の格好で一人になればどうなるか。
「全く、お忍びデート開始5分で迷子捜索か……」
俺は帽子を目深に被り、イザベラが消えた路地へと足を踏み入れる。
イザベラの言う「甘いデート」が、砂糖菓子のように脆く崩れ去る予感を、ひしひしと感じながら。
◇
王都の路地裏は表通りの華やかさとは裏腹に、薄暗く、独特の淀んだ空気が漂っていた。
俺は慎重に、かつ早足で路地裏を進む。
イザベラが姿を消してから数分。
普通なら心配する時間ではないが、あのイザベラだ。
数分あれば国際問題の一つや二つ、軽々と引き起こせるポテンシャルを持っている。
「おい、姉ちゃん。いい服着てんじゃねぇか」
「その首飾り、ちょっと見せてみなよ」
案の定、路地の奥から下卑た男たちの声が聞こえてきた。
俺はすぐさま駆け出す。
(頼む! 間に合ってくれ! チンピラたちの命が散る前に!)
角を曲がると、そこには予想通りの光景が広がっていた。
行き止まりの壁際。
純白のエプロンドレスを着たイザベラを、薄汚れた男たち三人が取り囲む。
典型的な路地裏のカツアゲだ。
「へへへ、こんなところを一人で歩くなんて無防備だぜ、姉ちゃん」
「怪我したくなかったら、金目のものを置いていきな」
男の一人がナイフをチラつかせる。
俺が助けに入ろうと踏み出した、その時だった。
「まあ……! 感激ですわ!」
イザベラが両手を頬に当てて目を輝かせた。
そこに恐怖など微塵もない。むしろ推しの俳優に遭遇したファンのような反応だ。
「貴方たち、もしや『路地裏の住人』ですの!? 小説で読みましたわ! 貧しさゆえに悪に手を染めつつも、心の中には社会への反骨精神を秘めた、悲しきアンチヒーロー! 本物にお会いできるなんて!」
「は……? い、いや、俺たちはただ金を……」
「分かりますわ! その薄汚れた服、洗っていない髪、そして歯磨きをしていない黄ばんだ歯! なんてリアルな『生活感』でしょう! 役作りが完璧ですわね!」
イザベラがグイグイと男に詰め寄る。
大柄な男が後退りし、たじろいでいる。
「えっ、いや、役作りじゃなくて……」
「それで、これが『カツアゲ』という風習ですわね? 庶民同士の挨拶代わりに行われる、富の再分配! 素晴らしいわ! 私も参加させていただきますわ!」
イザベラはバスケットをガサゴソと探ると、中から『金の延べ棒』を取り出した。
(……待て。なぜ着替えさせたのに、金塊なんて持っているのだ?)
俺は動揺しすぎて奴らの中に入っていけない。
「さあ、受け取ってくださいまし! これで貴方たちの組織のボスに、温かいスープでも買ってあげてくださいませ!」
「き、金塊ぃぃぃ!?」
「本物かよ、これ!?」
チンピラたちが金塊を見て腰を抜かしている。
事態がカツアゲから、怪しい貴族による慈善事業という名の不法投棄に変わりつつある。
ダメだ。これ以上は目立ちすぎる。
俺は意を決して割って入る。
「そこまでだ」
俺はイザベラの腕を掴み、背中に引き寄せた。
「ああっ、アレク!」
「すまない、アンタたち。俺の連れが迷惑をかけた」
俺はチンピラたちを一瞥する。
男たちが凄もうとしたが、俺が威圧をほんの少し漏らすと、彼らは「ひいぃ……!」と悲鳴を上げて、金塊も拾わずに逃げ去っていった。
賢明な判断だ。
「もう、アレクったら! せっかく彼らと『魂の交流』をしていましたのに!」
「交流? あれは恐喝というのだ。あと、なぜ金塊など持っている?」
「これは財布を忘れた時のために、靴底に仕込んでおきましたの」
「よくそれで歩けるな、お前は……」
俺はイザベラの靴の構造にも疑問を抱いたが、考えることをやめた。
そして、イザベラは悪びれる様子もなく、俺の背中に抱きついてきた。
「だーれだ?」
背中越しに、彼女の温もりと甘い香水の匂いが伝わってくる。
先ほどの『待ち合わせ』のやり直しらしい。
「……遅かったな、ベラ。随分と待ったぞ」
「ふふん、ごめんなさい。道に迷ったチンピラを助けていたの」
イザベラは俺の前に回り込み、微笑んだ。
「さあ、行きましょう、アレク! 気を取り直して、デートの続きですわ!」
◇
気を取り直して(寿命を削って)、俺たちは再び大通りへと戻った。
イザベラの機嫌は最高潮だ。
俺の腕にこれでもかと密着し、すれ違う人々に「私たち、愛し合ってますの!」というオーラを撒き散らす。
「アレク、あれを食べましょう! 『クレープ』ですわ!」
イザベラが指差したのは、行列ができている屋台。
薄く焼いた生地に、クリームやフルーツを包んだ菓子。王宮のデザートにはない、手づかみで食べる庶民の食べ物だ。
「ああ、いいだろう」
俺たちは列に並んで、チョコバナナクレープを二つ買った。
イザベラはその三角形の物体を、まるで聖遺物のように両手で捧げている。
「これがクレープですのね……! 柔らかくて、温かくて、まるで赤ん坊のほっぺみたいですわ!」
「溶ける前に食え。下から垂れるぞ」
イザベラが口を開け、ガブリとかぶりつく。
その瞬間、たっぷりの生クリームとチョコレートソースが口の端からはみ出した。
「んんっ! 甘いですわ!」
「だから言っただろ……」
口の周りをチョコレートだらけにして笑うその顔は、公爵令嬢の威厳の欠片もない、ただの甘いもの好きな一人の女性。
俺は懐からハンカチを取り出し、彼女の口元を拭ってやる。
「じっとしてろ。全く、子供かお前は……」
「っ……!」
イザベラが急に硬直した。
見ると、耳まで真っ赤になっている。
「……確か今のセリフは、小説に書いてあった『胸キュンイベント・その4』の彼に汚れを拭いてもらうを達成しましたわ!」
「いちいち番号を振るな。ほら、綺麗になったぞ」
「あ、ああありがとうございます……」
イザベラが珍しく、しおらしく俯く。
その様子を見て、俺の胸の奥が少しだけ騒いだ。
悪くない。身分もしがらみもない、ただの男と女としての時間。
こんなバレンタインも、たまにはいいかもしれない――そう、油断したのが間違いだった。
クレープを食べ終え、広場に差し掛かった時だ。
そこには異様な熱気と人だかりができていた。
特設された巨大なステージ。
そして『バレンタイン特別企画・カップル対抗! 愛の試練コンテスト』と書かれた垂れ幕。
「あれは何だ?」
「アレク、見てくださいまし!」
イザベラが看板を指差して叫ぶ。
『優勝カップルには、王都の名店ショコラティエ・特製! 幻の虹色カカオを使用した、世界に一つだけの奇跡のチョコレートを贈呈!』
「世界に一つだけ……」
イザベラの瞳がギラリと怪しく光る。
先ほどまでのしおらしさは完全に消え失せ、狩人の目になっている。
「虹色カカオ!? 伝説の食材ですわ! あれさえあれば、アレクへの愛を究極の形で表現できますわ!」
「ま、待て、ベラ。俺たちは目立ってはいけないのだ。あんなコンテストに出てみろ……」
「大丈夫ですわ! 変装は完璧ですもの!」
どこがだ。エプロンドレスにダイヤの首飾りの女など、お前しかいない。
「さあ、行きましょう、アレク! 庶民のデートの締めくくりはコンテスト荒らしですわ!」
「待て! 俺は出な……うわっ!?」
イザベラの剛腕に引かれ、俺は人混みの中へと引きずり込まれていく。
穏やかなデートは終わりを告げた。
ここから先は戦場だ。
◇
『バレンタイン特別企画・愛の試練コンテスト』は、カップルたちが互いの愛と絆(物理)を競い合う、過酷なサバイバルレースだった。
「さあ! 第3種目は『愛の障害物競走』だ! 丸太を乗り越え、泥沼を渡り、ゴールにある『幸せの鐘』を二人で鳴らせ!」
司会者の絶叫と共に、スタートの号砲が鳴る。
「行きますわよ、アレク!」
イザベラが俺の手を引く。
その握力は万力のように強固だ。
「待て、イザベラ! 俺たちは目立たないように……」
「愛にブレーキは不要ですわ! 邪魔ですのよ、そこをお退きなさいませ!」
イザベラはエプロンドレスの裾をまくり上げ、猛然と疾走した。
目の前に立ちはだかる『愛の丸太』。
他のカップルが協力して乗り越えようとする中、イザベラは――ドゴォッ!!
豪快に蹴り飛ばした。
丸太が空を舞い、彼方へと消えていく。
「なっ……!?」
「障害物とは飛び越えるものではなく、粉砕するものですわ!」
「ルールが変わっているぞ、ベラ!」
俺は叫びながら、彼女に引きずられていく。
彼女は完全に庶民の妻という設定を忘れ、『戦場の鬼』と化していた。
「見てくださいませ! 次は『愛の泥沼』ですわよ!」
「汚れるぞ、迂回しろ!」
「いいえ! 愛とは泥にまみれてこそ輝くもの! 私についてきてくださいませ!」
イザベラは俺を『お姫様抱っこ』をした。
逆だ。だが俺がすれば、また泡を吹いて失神されても困る。
かと言って、このままでは王家の威信に関わる。
せめて抵抗はさせてもらう。
「下ろせ!」
「時に諦めは肝心ですわよ! オーホッホッ!」
俺の視界には驚愕する他の参加者たちと、高速で流れる景色しか映らない。
「アレク! ゴールが見えましたわ! さあ、一緒に鐘を鳴らしますわよ!」
ゴール地点。
そこには巨大な鐘が吊るされている。
イザベラは俺を下ろすと、興奮のあまり鐘の紐ではなく、鐘そのものを素手で殴りつけた。
ゴーンッ! 轟音が広場に響き渡る。
会場も静まり返り、司会者が震える声でマイクを握り、大声で告げる。
「優勝はエントリーナンバー109番! 『新婚夫婦のアレクとベラ』チームだぁぁぁ!!」
「や、やりましたわ!」
イザベラが俺に抱きつく。
俺は魂が抜けたように天を仰いだ。
……お忍びとは、一体何だったのだろうかと。
◇
夕暮れ時。
俺たちは戦利品である『虹色カカオの奇跡のチョコレート』を手に、人目を避けて王都を見下ろす丘のベンチに座っていた。
祭りの喧騒が遠くに聞こえる。
茜色に染まる空の下、イザベラのエプロンドレスは泥だらけで、自慢の赤髪のツインドリルも乱れている。
だが、その表情は舞踏会で見るドレス姿よりも晴れやかだった。
「……疲れましたわね、あなた」
「ああ、寿命が三年は縮んだ気がするな」
俺は帽子を脱ぎ、乱れた髪を直す。
イザベラはクスクスと笑い、大事そうに抱えていたチョコレートの箱を開けた。
中には宝石のように輝く七色のチョコレートがある。
「どうぞ、あなた。あーんですわ」
彼女は一番大きな赤い粒を摘み、俺の口元へ差し出す。
「これが私からの愛の証ですわ。今年は銅像ほど大きくはありませんけれど」
「……ふん、十分だ」
俺は彼女の指先から、その一粒を受け取り、口に含んだ。
カカオの香りとフルーティーな酸味、そして濃厚な甘さが広がる。疲労困憊の体に糖分が染み渡っていくようだ。
「甘いな」
「ふふん、でしょう? 世界一のチョコですもの!」
「ああ、くどいほど濃厚で目が回るほど強烈だ。まるで……贈り主そのものだな」
「まあ、ひどいですわ! 褒めてませんわよね!?」
イザベラが「むぅ……」と頬を膨らませて抗議する。
俺はふっと息を吐き、視線を夕陽へと逸らして呟いた。
「褒めているのだ。俺はこの味を『嫌いではない』と言ったんだ」
その言葉に、イザベラは顔を真っ赤に染めた。
扇子がないため、彼女は両手で顔を覆って身悶えする。
「ず、ずるいですわ! そんな遠回しな言い方、台本にはありませんでしたのに!」
「俺のセリフだ。文句あるか?」
俺は苦笑し、彼女の肩に付いた泥を払ってやる。
今日はずっと振り回されっぱなしで、威厳もへったくれもない散々な一日だ。
だが、執務室で書類を睨んでいるだけでは味わえない充実感が、そこにはあった。
「イザベラ」
「は、はい?」
「来年も……また来るか?」
俺の言葉にイザベラが目を丸くし、夕陽よりも眩しい笑みを咲かせた。
最高の笑顔だ。
「もちろんですわ! 来年はもっと凄いですわよ! 『愛のトライアスロン』に挑戦しましょう!」
「……いや、それは却下だ。普通に茶を飲むくらいにしてくれ」
「ダメですわ! 愛はカロリー消費量に比例しますの!」
どうやら俺の受難は、来年も、再来年も、この先ずっと続くらしい。
だが、決して悪くはない。
甘くて騒がしい。
それが、俺たちのバレンタインなのだ。




