第六話 赤い嵐と黒い影
その夜、グランビル公爵邸は不穏な静けさと、むせ返るほど濃い香水の匂いに包まれていた。
王都北地区に構えるこの屋敷は、歴史ある石造りの大邸宅だ。
門は重く、窓は高く、塀は無駄に分厚い。
見た目は完璧な要塞だが、私の目にはセキュリティホールの塊にしか見えない。
事前に作成した『グランビル邸・攻略マップ(ver.2.0)』が、私の脳内で展開された。
窓の配置は死角だらけで、警備兵の巡回は規則的すぎて読める。魔法結界も継ぎ足しの跡があり、綻びがある。
「リリアナ……私のドレスの裾を踏んでるわよ」
「失礼いたしました、お嬢様(広がりすぎです)」
私は反射的に謝罪し、イザベラ様の後ろに半歩下がった。
今日の私は、王宮事務官の制服ではなく、地味な紺色のメイド服を着用している。設定は『イザベラ公爵令嬢の付き人』。かつての『取り巻きA』に戻ったポジションだ。
眼鏡もいつもの銀縁から、目立たない黒縁の安物に変えている。これで私の存在感は道端の石ころレベルまで低下しているはずだ。
「いい? 作戦通りに行くわよ。私が狸親父たちの目を引きつけている間に、貴女は例のブツを探し出しなさい」
扇子で口元を隠しながら、イザベラ様が小声で囁いた。
今日の彼女は鮮血のような真紅のイブニングドレスを纏っている。胸元には大粒のルビー、髪には孔雀の羽根飾り。
派手だ。あまりにも派手すぎる。まるで「私を見て!」と、全身で叫んでいるようだ。
だが、潜入工作において、これほど頼もしい囮はいない。
「承知いたしました。……ですが、イザベラ様。あまり暴走なさいませんように、お願いいたします」
「分かってるわよ。エレガントに、かつ大胆にでしょう?」
イザベラ様はニヤリと笑い、大広間の扉の前で胸を張った。
扉が開かれると、煌びやかなシャンデリアの光が溢れ出す。
「ごきげんよう、皆様! ローゼンバーグ公爵家の華、イザベラでしてよ!」
イザベラ様の高らかな宣言と共に、ホールに踏み込む。その瞬間、会場の視線が、一斉に彼女に突き刺さる。
「あれは……なんて派手な格好だ……。ここは仮面舞踏会ではないぞ」
「例の騒動で聖女を追い出した割に、殿下には相手にされていないらしいな」
「ああ、もっぱら彼女の熱烈な片思いだとか」
「哀れな話だ……。だが、振られたにしては随分と元気そうだな」
ヒソヒソという嘲笑交じりの私語。
普通の令嬢なら顔を伏せるところだが、イザベラ様は違った。
彼女にとって注目とは、称賛と同義語なのだ。
「あら、グランビル公爵様!」
彼女は主催者であるグランビル公爵を見つけるや否や、足早に歩み寄る。
「よくぞお越しくださった、イザベラ嬢。父君はお元気かな?」
白髪交じりの髭を蓄えた初老の紳士――グランビル公爵が、作り笑いを浮かべて出迎える。
だが、明らかに『面倒な小娘が来た』と言いたげだった。
「ええ、元気すぎて困るくらいですわ! ……あら? 公爵様、そのカフスボタン、趣味が古くありませんこと? 今の流行はラピスラズリですわよ! そんな濁った琥珀なんて、お祖父様の遺品かと思いましたわ!」
初手から全開だ。
公爵の眉が、ピクリと跳ねる。
「こ、これは由緒ある品でな……」
「あら、そうでしたの!? でも、くすんでますわよ! もっと磨かないと公爵家の品位が疑われますわ。私に貸してくだされば磨いて差し上げますが?」
「い、いや、結構だ……!」
イザベラ様が公爵に肉薄し、周囲の貴族たちが「おいおい、大丈夫か」と、ざわめき始める。
警備兵たちの視線も、厄介な乱入者であるイザベラ様に釘付けになっている。
――今だ。
私は気配を消し、そっと後ずさる。
壁際の給仕たちの影に紛れ、音もなくホールを抜け出した。
◇
ホールの喧騒が遠ざかると、屋敷の奥は静寂に包まれていた。
廊下には高級な絨毯が敷き詰められているため、足音は立たない。これは好都合だ。
脳内マップと現在地を照らし合わせる。
目指すは3階、公爵の書斎。
事前の情報収集(屋敷に出入りする商人や、清掃業者への聞き込み)によれば、夜会の最中、公爵は必ずホールで客の相手をする。ただし書斎は無人だが、警備兵の巡回がある。
角を曲がる手前で足を止め、懐から小さな手鏡を取り出し、廊下の先を覗く。
……いた。
二人一組の兵士が、こちらに向かって歩いてくる。
私は近くの空き部屋(客用寝室)に忍び込み、ほんの少しだけ扉を開けて息を殺す。
足音が近付き、そして通り過ぎていく。
「しかし、イザベラ嬢の声はここまで聞こえてくるな」
「ああ、甲高い笑い声だ。公爵様も災難だな」
兵士たちが苦笑いを浮かべながら遠ざかっていく。
ありがとうございます、イザベラ様。貴女の声量は最強の音響兵器であり、私のステルス迷彩だ。
安全を確認し、私は廊下へ出て階段を上り、三階へ向かった。
目的の重厚な扉の前に立つ。
『書斎』。当然、鍵がかかっている。ドアノブには微弱な魔力が流れ、不用意に触れば警報が鳴る仕組みだ。ただし方式は古い。解除は可能だが、わずかなノイズだけは誤魔化しきれない。
「想定内です」
私は手袋をはめ、ポーチから特殊な工具を取り出す。
実家の納屋にあった古代の魔道具を分解・改造して作った『対魔法鍵用ピック』だ。
ジジッ。微かな音と共に魔法のロックを解除した。
鍵穴も針金一本で3秒とかからず開く。
カチリッ。貧乏男爵家で鍵屋を呼ぶ金がなかったあの頃、必死に磨いた技術がこんな所で役立つとは。
芸は身を助けるとは、このことだ。
私は流れるように室内に侵入した。
月明かりだけが照らす書斎。壁一面の本棚、高そうな調度品。そして中央に鎮座する執務机。
「さて、宝探しと行きましょうか」
時間は限られている。イザベラ様が公爵を捕まえておける時間は、長くてもあと15分。それ以上は公爵がキレて追い出される可能性がある。
私は迷わず執務机に向かう。
引き出しには鍵がかかっているが、これも瞬殺。
中には領地の経営書類や手紙が入っていたが、これらはカモフラージュだ。
アレクセイ殿下の読み通りなら、もっと厳重な場所に隠されているはず。
私は机の側面、彫刻が施された部分を指でなぞる。
……違和感。装飾の一部に見える薔薇の紋章が、わずかに摩耗している。そこを強く押し込むと、カタリと音がして、引き出しの底板が外れた。
「ビンゴ……」
二重底の中から一冊の黒革のファイルが現れた。
表紙には何も書かれていない。
ページを開き、パラパラとめくる。
そこには、アレクセイ殿下が国を食い物にしているという証拠が克明に記されていた。
『第一王子アレクセイ 裏金運用記録』
『6月4日 東方貿易商会より賄賂受領:金貨300枚』
『6月8日 闇ギルドへの武器横流し……』
筆跡は殿下のものと酷似している。王家の印章も精巧に偽造されている。
これを立太子礼で公開されたら、弁明の時間など与えられず、失脚どころでは済まない。
だが、それは公開されればの話。
「よく出来ていますね。努力賞をあげたいところですが……」
私は懐から昨晩徹夜で仕上げた書類を取り出し、ファイルの中身と手早くすり替えた。
回収した証拠は鞄へ。底板を戻して痕跡を消す。
作業完了。所要時間、五分。完璧だ。
私は小さく息を吐き、撤収にかかろうとした、その時だ。
カツ、カツ、カツ。
廊下から足音が近づいてきた。
それも複数の慌ただしい足音。
「ん……? 一瞬だが魔導計の針が動いたぞ」
「気のせいじゃないのか?」
「この時間に書斎を使う者はいないはずだが……念のためだ」
「おい見ろ、誰か入った形跡があるぞ」
「まさか賊か!?」
男たちの低い声。
(まずい……魔力ロック解除時のわずかなノイズを感知されたか……)
逃げ道を探す。窓は3階、飛び降りれば怪我では済まない。隠れる場所は机の下? カーテンの裏? いや、プロの警備兵なら真っ先にそこを探すだろう。
捕まれば終わりだ。不法侵入。窃盗未遂。下手をすれば拷問にかけられ、アレクセイ殿下の名前を吐かされる。
そうなれば、殿下と共倒れだ。
私の額に冷や汗が伝う
ドアノブが回され、バンッ!
扉が勢いよく開け放たれた。
(やばっ……!)




