第四十七話 婚約誓約書は拘束具
半ば王都へ強制送還された私は、休む間もなく執務室へ向かった。
嫌な予感を抱きつつ、執務室の扉をノックする。
いつもの「リリアナか、入れ」という返事がない。
恐る恐る扉を開けると、そこは地獄絵図だった。
やはり、私の予感は的中するのだ。
「酷い……」
もはや執務室ではなく、災害現場だ。
床一面に、私の不在中に溜まった書類が雪崩のように堆積し、壁には人の形をした穴(恐らくイザベラ様が突撃した)が空いていた。
さらに無数の鳩の羽まで散乱している。
「リ、リリアナか……?」
書類の山の下から弱々しい手が伸びた。
私は慌てて瓦礫(書類)を撤去し、埋もれていた殿下を救出する。
かつて「氷の王太子」と呼ばれた美貌は見る影もなく、目元には濃い隈があり、頬は痩せこけていた。
「殿下、ご無事ですか!」
「……遅いではないか。あと3分遅かったら、俺は書類と一体化し、土に還るところだったぞ……」
「ご安心を。薬なら実家から大量に持ってきました」
私が家から帰る間際、ララーナ姉さんからもらった『特製栄養ポーション』を殿下の口に突っ込むと、瞬く間に、その瞳に生気が戻っていく。
「おお……胃の痛みも疲れも消えたぞ。まあ、舌が痺れるが些細なことか」
そこへ、バンッと扉が勢いよく開く。
「リリアナ! 待っていたわ!」
イザベラ様は私の顔を見るなり、満面の笑みで抱きついてきた。
「やっぱり貴女がいないとダメだわ! ドレス選びも、新郎新婦入場も決まらないのよ!」
私はイザベラ様を引き剥がし、ため息をついた。
ああ、戻ってきてしまった。
カオスと胃痛が支配する、私の日常へ。
「さあ、リリアナ! 感傷に浸っている場合ではないわ! 結婚式の前に、まずはこれよ! 『殿下の所有権』を確定させるわよ!」
イザベラ様がバサァッと広げたのは、羊皮紙を継ぎ接ぎにして作られた、およそ全長10メートルの巨大な巻物だ。
「……これは、なんですか?」
「見ての通り『婚約誓約書(完全版)』よ! 結婚式までの間に殿下が他の虫……いえ、女性にたぶらかされないよう、法的にガチガチに縛るための『愛の鎖』ですの!」
私は巻物を手繰り寄せ、中身を確認する。
まず最初に飛び込んできたのは、条文に入る前の『前文』だ。
そこには、ピンク色のインクで綴られた長文のポエムと共に、毒々しいほど鮮やかな『赤』と『ピンク』のスタンプが、狂ったように乱れ押しされていた。
「イザベラ様、この紙面を埋め尽くす赤い刻印はなんです?」
「あら、気になるの? それは私の『愛のスタンプ(新作)』よ!」
イザベラ様が誇らしげに、懐から巨大なスタンプを取り出す。
印面には、『逃がさないわ!』という文字と共に、『鎖に繋がれたハート』の絵柄が彫られている。
確かに泣き顔のスタンプは見たことはあった。
「可愛いでしょう? 他にも『契約完了』とか『一生一緒(地獄まで)』とか、10種類ほど作ったの。殿下への愛が溢れすぎて、1000回くらい押してしまいましたわ!」
殿下はすでに顔色が悪い。
私はスタンプの隙間に書かれたポエムに目を通す。
『タイトル:極彩色のパッション・プリズン』
『愛しのあなたへ。
あなたは灰色の空を飛ぶ小鳥さん。
でも安心して、私が極彩色の孔雀に変えてあげる。
逃げ場所なんてないの。
四方八方、すべて私が張り巡らせた愛のカーテン。
あなたの足首には重厚なダイヤモンドの足枷。
羽ばたこうとしても無駄よ。
その翼は、私の純金の鎖で飾り付けたから。
もし、その瞳が私以外の色を映そうとするなら、極彩色のペンキで、視界を私色に塗り潰してあげる。
私の籠の中の孔雀。
あなたが傷つかないように、全身をダイヤモンドでコーティングして、永遠に輝かせてあげる』
「…………」
執務室に重い沈黙が落ちた。
煌びやかな単語の端々に、猟奇的なニュアンスが見え隠れしている。
殿下が震える声で呟く。
「……俺は孔雀も、ペンキで塗られるのも御免だぞ」
「あら、貴方様を世界一派手な男にして差し上げようという親切心ですのに!」
「……いや、最後の一行で呼吸を奪いに来ているだろう。窒息するぞ」
私は無言で赤ペンを取り出し、猟奇的なポエムに二重線を引き始める。
「イザベラ様、ポエム及びスタンプは削除します」
「なっ!? どうしてなの!? 最高傑作よ!」
「公的文書に『視界を塗り潰す』や『コーティング』、そもそもポエムは書かないでください。監禁、及び傷害罪の予告になります」
さらに私は、その後に続く条文もチェックしていく。
『第3条:婚約者は半径3メートル以内から離れてはならない』
『第44条:食事の際、自らの手を使わず、新婦による『あーん』のみで摂取するものとする』
『第108条:万が一浮気をした場合、A3用紙10枚分の愛のポエムを毎日提出すること。なお、添削・書き直しを命じる権利を有する』
……胃だけでなく、頭も痛い。
早速、私は修正に入る。
「第3条、プライバシー権の侵害です。却下です。
第44条、窒息のリスク、及び公衆の面前での羞恥プレイです。却下です。
第108条、作業量が無制限かつ終了条件が主観的です。労働基準法、及び人権条約に抵触します。却下です」
シュッ、シュッ、シュシュシュシュッ。
私の赤ペンが唸りを上げ、イザベラ様の妄想条文を次々と抹消していく。
「ああっ、私の愛が! 殿下への愛が消されていくわ!」
「消していません。法的に整えているだけです」
およそ10メートルの巻物は、最終的に不要部分を切り落とし、ただの『A4用紙一枚』になった。
タイトルは『王族婚約誓約書』。
残ったのは名前と日付、そして『国王陛下の許可なく破棄することはできない』というシンプルな拘束文言のみ。
「なんて味気ないのかしら。束縛が足りないわ……」
イザベラ様が不満げに頬を膨らませた。
私は冷徹に告げる。
「イザベラ様、これはただの紙切れではありません。王家の紋章が入った公式文書です。これに署名すれば、殿下は法的にもイザベラ様の『正式な婚約者』となり、逃亡は不可能になります。つまり……」
私は眼鏡を光らせる。
「殿下はもう二度と逃げられなくなります」
その言葉にイザベラ様の瞳が輝き、殿下の顔色が蒼白になった。
「逃げられない……素晴らしい響きですわ! リリアナ、最高よ!」
「さあ、殿下。こちらに署名を」
「これを書けば、『予約済み』というわけか……」
殿下の持つ手が小刻みに震えている。
イザベラ様が背後から無言の圧(笑顔)をかけている。
私は無慈悲に印泥(朱肉)を差し出す。
「諦めてください、殿下。これは公務であり、安全保障条約です」
「くっ……」
殿下は諦めたのか、覚悟を決めたのか、震える線で署名する。
続いて、イザベラ様がサラサラと優雅に署名した。
二人の名前が並ぶが、まだ完成ではない。
「最後に……」
私は二人の署名の横にある『立会人』の欄にサインする――リリアナ・フォレスト、と。
これまでの苦労と頭痛に胃痛。
長いイザベラ様と殿下の鬼ごっこが、ひとまずの終わりを告げる。
私は卓上のベルをチリンと鳴らした。
ガチャリと扉が開き、王室紋章院の厳格な老官吏が入室してくる。
「失礼します。お呼びでしょうか?」
「この誓約書を紋章院へ提出し、『婚約確定』の登録をお願いします。なお『写し』は私が保管します」
「はっ! 直ちに登録いたします!」
官吏が私の手から書類を受け取る。
紙が手から離れる瞬間、殿下がわずかに手を伸ばしたが、力なく下ろされた。
「行ってしまったな……」
「はい。殿下、これでキャンセル料も国家予算並みになります」
「くっ……」
官吏が退室し、重厚な扉がバタンと閉まる。
その音は、殿下にとっての『独身貴族終了のゴング』であり、イザベラ様にとっての『勝利のファンファーレ』だった。
私は居住まいを正し、二人に深く頭を下げる。
「手続きは完了いたしました。これよりお二人は、名実ともに『公式な婚約者』となります。……おめでとうございます」
それは事務的ではあるが、私の心からの祝福の言葉だった。
数秒の沈黙の後。
「……う、ううっ……!」
イザベラ様が感極まって口元を押さえ、その場に泣き崩れた。
「長かった……長かったですわ……! ようやく、ようやく殿下が、法的拘束力付きの私のものに……!」
「法的……言い方がおかしいだろう」
殿下は呆れたように言いながらも、ハンカチを取り出し、イザベラ様の目元を拭う。
「腹を括るしかないな」
「殿下……!」
「両親に認めていただいたが、正式に婚約者になった以上、お前を見捨てるわけにはいかん。……観念して、お前に捕まってやる」
涙ぐむ悪役令嬢と、苦笑する王太子。
結婚式はまだ先だが、二人は最強のパートナーとして正式に結ばれた。
私は胸の奥で小さく「やれやれ」と呟くと、パンッと手を叩いた。
「では、感傷に浸る時間は終わりです。早速、明日の昼に『緊急婚約会見』を行います」
「明日だと!? まだ心の準備が……」
「噂が広まる前に公式発表で外堀を埋めるのです」
「さすが、リリアナ! いいこと言うわ! 今から朝までみっちりと『会見リハーサル』を行いましょう、殿下。いえ……あ・な・た」
「あなた……」
「ええ、私と殿下は正式な婚約者。さあ、あなた。一睡もできると思わないでくださいまし!」
「えっ……?」
殿下の顔色が再び青ざめた。
今やもう逃げ場はないのだ。
「不安要素は一つでも潰しておくべきです。私が記者役をしますので、お二人は『模範回答』を体に叩き込んでください」
こうして、夜通しの記者会見特訓が始まる。




