【番外編:前編】ルーツ
本日、17時も投稿します。
大陸西部に覇を唱える商業至上主義、ガラント王国。
王宮の最奥に、インクと羊皮紙の匂いが染み付いた執務室で、私、レーレシア・ヴァン・クリスティアは机に向かっていた。
わずか二十歳で異例の宰相補佐官の地位に就き、貴族の不正を一切許さぬ実務能力から、いつしか人々は私をこう呼んだ。
――『ガラントの正華』と。
「やり直しです、アグナス男爵」
私は顔も上げず、提出された予算案を机の端へ滑らせる。
脂汗を浮かべる男爵を、私の瞳が正面から射抜いた。
「治水工事の資材費が相場の三倍。施工業者は貴方の義弟が経営する商会……国民の血税を身内への小遣いにするおつもりですか?」
「こ、これは何かの間違いだ。いや違うな……。おい、この書類をもみ消せ。そうすれば悪いようにはせん。だが断れば……夜道に気を付けることだな」
「脅迫ですか。罪状が一つ増えましたね。言い訳は司法省でどうぞ。告発状はすでに書き終えています」
私がすっと視線を流すと、控えていた衛兵たちが無言で頷き、男爵の両脇を固める。
「ま、待て、冗談だ!? 金なら払う! 見逃してくれ! 頼むぅぅぅ!」
金切り声を上げて連行されていく男の背中を見送っても、私の表情は微塵も変わらない。
私の世界は灰色だ。
数字は嘘をつかない。
だが、それを扱う者は息をするように嘘を吐き、私利私欲のために国を蝕む。
だからこそ、私は心を閉ざした。
『正しさ』という名の刃を振るい、不要な部分は切り捨てる。国という巨大な機械の冷たい歯車になることを選んだのだ。
そうでもしなければ、この腐敗した世界で息をすることすらできなかったのだから。
◇
そんな私の計算が狂ったのは、ある夜のこと。
隣国からの使節団を迎えた歓迎の宴。
壁際に立ち、懐中時計の針だけを目で追っていた私に、場違いな声が降ってくる。
「大丈夫か?」
ハッと顔を上げる。
そこには窮屈そうな礼服を着た大柄な青年が立っていた。
日に焼けた肌、手入れのされていない髪、そして王宮に似つかわしくない、向日葵のような笑顔。
隣国の貧乏男爵、ローヴィン・フォレスト。
「無礼な方ですね。私は宰相補佐官です。貴方のような方が気軽に声をかけていい相手ではありません」
「ああ、もちろん知ってるさ。『正華』様、だろ?」
彼は引くことなく、まっすぐ私を見つめる。
そこにあるのは打算でも恐怖でもない。
ただ一人の女性を案じる、率直すぎる優しい視線。
「俺には君が酷く寒そうに見えたんだ」
「え……?」
「周りの連中は君の肩書きしか見ていない。……でも俺には君がたった一人で、吹雪の中に立っているように見える」
ローヴィンは背中に隠していた皿を、いたずらっぽく差し出す。
湯気の立つスープと、焼きたてのパンだ。
「食べなよ。温かいものを食べないと心まで冷えてしまうからさ」
「結構です。毒見も済んでいません」
「ははっ、そう言うと思った! じゃあ俺が先に」
彼はパンをちぎると、湯気の立つスープにたっぷりと浸し、豪快に口へ放り込んだ。
「うん、美味い! ほら、君も眉間にシワばかり寄せてないで、美味いものを食べて笑ってる方がいい」
飾り気のない言葉だった。
それは冷え切った計算式の中に放り込まれた、逃げ場のない熱。
私は呆然とし、やがて小さく息を吐く。
私の完璧な仮面に、初めてヒビが入った瞬間だった。
◇
ローヴィンとの出会いは、私にとって新しい日々の始まりだった。
彼は毎日、私の元を訪れては故郷の話を聞かせてくれる。
大きな森の匂い、雪解け水の冷たさ、黄金色の麦畑、収穫祭の熱気。
彼が語るのは政治や利権の話ではない。
そのどれもが、私には新鮮だった。
「俺の領地は何もない田舎だけどさ、空が広いんだ」
窓の外を眺めながら、ローヴィンは少年のような瞳で語る。
「……その景色を、君に見せてあげたい」
彼が語るたびに、執務室の殺風景な空気が鮮やかに色付いていく。
気付けば私は、扉が開くその瞬間を待ちわびるようになっていた。
そして滞在最終日の夕暮れ。
王宮の庭園でローヴィンは私の手を取る。
剣ダコのある、分厚く温かい手。
「レーレシア、俺と一緒に来てほしい」
その言葉に、私の心が跳ねる。
「……ごめんなさい」
「どうしてだ? 君はこの国の歪みに疲れてるんだろ? 俺のところへ来れば、もう数字に追われることもない。それに君を養うくらいの稼ぎはある」
「ありがとう。でもね……」
脳裏に浮かぶのは、山積みの書類と、私を頼ってくる部下たち。そして、まだ是正されていない数多の不正。大変で、理不尽で、胃が痛くなる毎日。
――それでも。
「私、今の仕事が好きなんだと思う」
日々の重い業務、難題を解決した時の達成感、そして何より、この国を裏から支えているという自負。
私は、この場所でやり遂げたいことがある。
「ここで逃げ出したら、私は私を許せなくなると思うの。もっと頑張って胸を張れるようになりたい」
「……レーレシア」
「だから、一緒には行けません。ごめんなさい……」
重い沈黙が流れる。
私は唇を噛み締め、彼の拒絶を待つ。
彼は一度深く息を吐き、それからニッと笑った。
曇り一つない笑顔だった。
「分かった。君がそこまで言うなら俺の負けだ」
「ローヴィン……」
ああ、これで終わりだ。
彼は故郷へ帰り、私はまた灰色の世界に戻る。
それが正しい計算式だと、そう思っていた。
「なんて言うと思ったか?」
「え……?」
「俺は頭が悪いが、君のそういう『責任感の強さ』に惚れたんだ。俺だって、このまま貧乏貴族で終わるつもりはない。君がこの場所で戦い続けるというなら、俺もふさわしい男になるために戦うよ」
「戦う……?」
「ああ、領地を立て直し、冒険者として名を上げ、君を迎え入れるのに恥ずかしくない男になってみせる」
彼は私の手を強く握り直し、宣言する。
「5年待ってくれ。必ず強くなって、君を迎えに来る。……その時なら文句はないだろ?」
私は驚き、そして自然と笑みがこぼれた。
そこに計算も論理もないけれど、その不確定な未来の約束が、どんな契約書よりも確かなものに思えた。
「……どうかしら。今の私には分からないわ。ただ、強くなった貴方は、見てみたいかもしれないわね」
それから季節は幾度も巡る。
私は変わらず『ガラントの正華』として、灰色の王宮で戦い続けた。
辛い時、くじけそうな時、支えになったのは、遠い国から届く不器用な手紙だ。
『今年は麦が豊作だったよ』。
『戦で武功を上げたぞ』。
『屋敷の屋根の修理がやっと終わった』。
そして迎えた5年後の冬。
私は宰相補佐官の辞表と共に、家名の返上届を提出した。
『ヴァン・クリスティア』の名を捨て、私は、『レーレシア・フォレスト』として生きることを選んだ。
◇
十数年後。
隣国辺境、フォレスト男爵領。
ツギハギだらけの屋敷には、冬になれば隙間風が吹き込む。
けれど、そこにはいつも絶えない笑い声があった。
「せいっ! やぁっ!」
裏庭の大きな樫の木の下、乾いた打撃音が響く。
十二歳の次女ルルティアが、身の丈に合わない木剣を振り回し、父ローヴィンと打ち合っている。
「いいぞ、ルル! 踏み込みが鋭くなってきたな!」
「父さんこそ、手加減なしだよ!」
汗を散らして笑い合う二人。
その背後、生い茂る茂みがカサリと揺れる。
五歳の末っ子、エルヴィンが息を殺し、父の背後に忍び寄る。
だが、ローヴィンは振り返りもせず、ひょいと手を伸ばして息子の首根っこを掴まえた。
「惜しいな、エルヴィン。まだ足音がするぞ。呼吸を風に合わせるんだ」
「うぅ……次は負けないからね、父さん」
縁側では十四歳の長女ララーナが薬を仕分け、十歳の三女リリアナが、私の膝の上で領地の帳簿を覗き込んでいる。
「お母さん、ここの計算合わない」
「あら、よく気付いたわね、リリアナ」
汗を拭きながら戻ってきたローヴィンが、リリアナの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「リリはすごいな! 母さんに似て天才だ!」
家族全員が笑う。
ローヴィンは時折、森から飢えた大熊や、国境を荒らす武装した盗賊団が現れれば、誰よりも先に剣を取り、村を守った。
村人たちはいつしか彼を『英雄』と呼んだ。
灰色の王宮を捨て、この実直な人の手を取ったことは、私の人生で最高に正しい『計算違い』となった。
秋の終わり。
隣国との国境線で小競り合いが勃発する。
「なんでも、前線の開拓村が孤立しているらしい。このまま軍の到着を待っていたら、間違いなく手遅れになってしまう」
彼は使い込まれた剣を手に取り、いつものように笑った。
「心配するな。冬眠前の熊や話の通じない荒くれ者に比べれば、正規軍の兵士なんて可愛いもんだ。それに、今回の報奨金は弾むらしいぞ? これで隙間風に悩まされることもなく、エルヴィンの学費も確保できるというものだ」
「……本当に貴方という人は」
私は呆れつつも、止めることはしなかった。
いつもの局地的な紛争に過ぎない。そして何より、彼は数多の修羅場を無傷で帰ってきた男。今回もまた、泥だらけの笑顔で「ただいま」と言うと信じていたから。
「行ってらっしゃい。必ず、無事で帰ってきてくださいね」
「ああ、約束する。最高の土産を持って帰って来るさ」
彼は私に口づけをし、子供たちに手を振って旅立った。
それが最愛の夫の、最後の姿になるとも知らずに。




