第三十五話 合理化モンスター
私たちは皇帝のいる『玉座の間』へと向かった。
扉の前には、見慣れない灰色の軍服を着た衛兵たちが立ち塞がる。
「止まれ、これより先は『重要業務区域』だ。許可なき者の立ち入りは……」
「退け」
殿下が一言だけ低く呟いた。
その瞳に宿る王者の覇気に、衛兵たちが「ひ、ひぃっ!」と悲鳴を上げて道を空ける。
殿下はマントを翻し、我が物顔で扉を押し開ける。
そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
かつては豪華絢爛な装飾と、勇壮なファンファーレが鳴り響いていたはずの玉座の間。
今はカーテンが閉ざされ、シャンデリアの明かりも落とされ、薄暗い倉庫のような有様だ。
その中央で、大陸の覇者と呼ばれるディミトリ皇帝が、生気のない顔で山積みの書類にただひたすらにハンコを押し続けていた。
「3001、3002……」
「遅いですね、ディミトリ皇帝。2秒の遅れです。今日のノルマが達成できませんよ」
その傍らで、懐中時計を見ながら冷淡に告げる男。
無機質なグレーのスーツに、銀縁眼鏡。
バルドール連邦の使節にして、帝国の実質的な支配者、テオバルト・カンツラー。
「待ってくれ、テオバルト。この『薔薇園の暖房費』まで削減するというのか? それでは妻の薔薇が枯れてしまうではないか……!」
「枯れれば造花にすればいいのです。維持費ゼロで、永遠に美しい。合理的です」
「し、しかし……妻が悲しむ……。もし妻の機嫌を損ねたら、私は……私は……!」
皇帝がガタガタと震えている。
100万の兵士の命よりも、妻の機嫌。
ある意味ブレない男だ。
「情けないな、ディミトリよ!」
アレクセイ殿下の低い声が、薄暗い部屋に響き渡った。
ディミトリ皇帝の手が止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「ん? アレクセイか? なぜここに……?」
「同盟国の皇帝が、嫁の顔色と物流システムを人質に取られ、国を売る機械になり果てたとはな。恥を知らんのか!」
殿下の言葉に、皇帝は泣きそうな顔で反論する。
「き、貴様に何が分かる! 我が妻の怒りは帝国の軍隊より恐ろしいのだぞ! それに、この男の言う通りにコストカットしなければ、軍の兵站が止まるのだ! そうなれば国は滅び、妻の『お茶会予算』も消える! 八方塞がりなのだ!」
「そこまでか……」
殿下は頭を抱えた。
私も呆れた。
この国は別の意味で危機的状況だ。
「……騒々しいですね。部外者の立ち入りは禁止されています」
テオバルトが感情のない目でこちらを見る。
「生産性が低下します。愛だの恋だの非合理な感情論を持ち込むなら、即刻退去を」
「お黙りなさい! 地味メガネ!」
次に叫んだのは、イザベラ様だった。
イザベラ様はテオバルトの目の前までツカツカと歩み寄ると、扇子で彼の胸元を指した。
「なんなの、この部屋は! 音がなくて不気味だわ! それに貴方! そのグレーのスーツ、全然似合ってないわよ! 軍事国家なら、もっと背筋が伸びるような華やかな軍服を着なさい!」
「……服装は業務に関係ありません」
「いいえ、関係あるわ! 軍隊に必要なのは士気でしょう? トップがそんな辛気臭い顔をしてたら、兵士も皇帝もやる気をなくすに決まってるじゃない! 無駄が非合理ですって? バカ言わないでちょうだい!」
イザベラ様は一喝し、さらに続ける。
「美しい軍楽隊の演奏があるから、兵士は行進できるのよ! この恐妻家皇帝を見てみなさい! 妻への愛(と恐怖)だけで、このような分厚い書類を処理しているのよ!? これこそ最高のエネルギー効率でしょう!」
……あ、確かに。
テオバルトの眉が、ほんの少しだけ動いた。
イザベラ様の「愛=エネルギー効率」という謎理論に、彼の処理が追いつかないようだ。
その隙に、私はバインダーを構えて前に出る。
「……ということで、テオバルト殿。我々は退去しません。貴殿のやり方は確かに効率的です。ですが『完璧』すぎて遊びがありません。機械ならそれでも動くのでしょうが、人(特に恐妻家)はそうはいきませんよ?」
「ほう……? 旧時代の非効率な遺物が、私のシステムに異を唱えると?」
「ええ、我々が『監査』に入ります。貴殿のその完璧なマニュアルを、私がズタズタに論破し、この国に『人間らしさ(無駄)』を取り戻して差し上げます」
テオバルトは初めて懐中時計をポケットにしまった。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、敵意を持って細められる。
「ふはははっ! 面白い。どこまで足掻けるか見せてもらうとしましょう」
シルヴィア様を救うため、そして帝国の誇り(と皇帝の夫婦円満)を取り戻すため、対『合理化モンスター』との戦いが幕を開けた。
◇
テオバルトに案内され、私たちが足を踏み入れたのは、皇宮の大広間を改造した巨大なオフィスだった。
そこには数百人の帝国の官僚たちが整然と並べられた机に向かい、一心不乱にペンを走らせていた。
カリカリカリカリ……。
聞こえてくるのは、ペンの音と書類をめくる音だけ。
咳払い一つ、私語一つ聞こえない。
「私語厳禁、離席は許可制、水分補給は2時間に一度。徹底的な管理により、ミスは極限まで減りました」
私は近くの席の官僚の手元を覗き込む。
彼は震える手で『トイレ使用許可申請書』を書いていた。トイレに行くために上司の承認印が3つ必要なのだ。
ここは地獄か……。
「シルヴィア様、貴女が負けた理由が分かりました」
「ええ……。彼らを人として扱おうとした私の甘さが、この結果なのよ」
「さて、リリアナ補佐官。私のシステムに一点の曇りもありませんが?」
テオバルトが絶対の自信を持って問う。
私はバインダーを閉じて、ニッコリと笑った。
「そうですね。ではこれより、王国の最新メソッドによる『ストレステスト』を行います。イザベラ様、出番です」
「待ってたわ!」
イザベラ様が「パン!」と手を叩くと、どこからともなく取り巻き軍団が現れ(いつの間に呼んだのか)、オフィスのど真ん中に、真っ白なテーブルクロスを敷いた丸テーブルを設置し始めた。
「何をしているのですか!?」
「何って、お茶会よ」
イザベラ様は当然のように答えた。
「もう午後3時でしょう? 貴方の国の時計は壊れてるの? レディが喉を乾かせているのに、お水も出さないなんて野蛮ね」
瞬く間に、テーブルには三段重ねのケーキスタンドが置かれ、最高級の茶葉の香りが漂い始めた。
バターたっぷりのスコーン、色とりどりのマカロン、そして焼きたてのクッキー。
その甘く香ばしい匂いが、空調に乗ってオフィス全体に拡散していく。
ピクリ。
死んだ魚のような目をしていた官僚たちの手が止まる。
「やめろ! 業務妨害だぞ!」
「騒ぐな、眼鏡男。俺は腹が減った」
殿下もドカッと椅子に座り、優雅にスコーンを頬張り始めた。
カリッ、サクッ。
静まり返ったオフィスに、咀嚼音が響き渡る。
グゥゥゥ~~……。
どこかの官僚の腹の虫が鳴いた。それを合図に、あちこちから腹の虫の大合唱が始まる。
「そんなものは無視しろ! 業務に戻れ! 私語をした者は減給だぞ!」
テオバルトが怒鳴り散らすが、私は彼の前に立ち、分厚いファイルを突きつける。
「テオバルト殿、貴殿の作成した『絶対業務マニュアル』第405条・第3項には、こうありますね? 『職員の健康状態が著しく低下した場合、管理者は速やかに休息を与え、生産性の維持に努めなければならない』と」
「それがどうしたというのだ? 彼らはまだ動ける」
「いいえ、数値が出ています」
私は手元の魔導測定器を見せる。
「室内の血糖値低下アラートが鳴り止みません。このまま業務を続ければ、1時間以内に20%の職員が失神し、業務効率はマイナス40%に転落します。これは明白な『マニュアル違反(管理者責任の放棄)』ですが?」
「なっ……!?」
私は彼の得意なルールで首を絞めた。
「マニュアルを遵守するなら、今すぐ彼らに糖分を補給させ、休憩を与えるべきです。さもなくば貴殿自身が『非効率な管理者』として更迭対象になります」
「くっ……許可する。だが15分だけだ!」
その瞬間、「やったぁぁぁ!!」
死人たちが生き返った。
官僚たちは一斉に椅子を蹴って立ち上がり、イザベラ様のテーブルに殺到する。
オフィスは一瞬にして、無秩序なティーパーティー会場と化した。
テオバルトが築き上げた『完璧な静寂』は、バターの香りと共に崩れ去った。
そこへ騒ぎを聞きつけたディミトリ皇帝が、イザベラ様の持参した『王立薔薇園のジャム』を食べたことで正気を取り戻した。
皇帝は涙ながらに叫ぶ。
「私は人間なのだ! 味のしない飯を食い、色のない街で生きるぐらいなら……私は非効率な『人間』に戻るぞ!」
もはやこれまで。
テオバルトは冷たく眼鏡を直した。
「交渉決裂ですね……」
彼は懐から通信用の魔導具を取り出す。
「皇帝陛下と言えど、契約は絶対です。彼らを全員帰宅させましょう。ただし、『システム』も一緒に帰宅させます」
テオバルトが指を鳴らすと、オフィスの中央に鎮座する巨大な魔導サーバーの光が、フツン……と消える。
同時に、帝都中の物流倉庫、水門、列車の制御信号までもが断絶されてしまった。




