第十四話 白銀館・露天の怪
「ゆ、幽霊ですって!?」
イザベラ様が、私の背中にしがみついた。
先ほどのバーサーカーぶりはどこへやら、小動物のように震えている。
「はい。夜な夜な露天風呂から『女の啜り泣く声』と『白い人影』が現れるとか?」
「ふん、くだらん」
アレクセイ殿下が鼻で笑った。
「どうせ何かの見間違いだろう。せっかくだ。確かめに行くぞ」
「今からですか?」
「当然だ。煤だらけで汗もかいたからな。一番風呂をもらうついでに、その幽霊とやらを確かめてやる」
殿下は迷いなく、男湯の暖簾をくぐっていった。
本当に、この人は恐怖心というネジが外れているらしい。
するとイザベラ様が、カッと目を見開く。
「お待ちください、殿下! お一人では危険ですわ! 私が背中をお守りしますわ! 背中を!」
イザベラ様が鼻息荒く、猛牛もとい猛孔雀のように男湯へ突入しようとする。
私は慌ててフリルの襟首を掴んで引き止める。
「離しなさい! 背中を流す特典を行使するだけよ! そこに殿下の背中がある限り、お流しするだけですの!」
「ダメです! 男湯は立ち入り禁止です!」
「愛に国境(壁)はないわ!」
ザザザッ!
凄まじい力で引きずられる。
暴走した白孔雀に不法侵入や公然わいせつなど、法を持ち込んでも止められないだろう。
ならば、ここは――
「イザベラ様は掃除で煤まみれです。今の『汚れた姿』で殿下の前に出るおつもりですか?」
イザベラ様の足がピタリと止まる。
「殿下は清潔な方です。身を清めてからでないと、背中どころか指一本触れさせてくれませんよ?」
「……それもそうね! 私の完璧な美貌を見せる前に、幻滅されるところだったわ!」
イザベラ様は、バッと女湯の方を向いた。
「まずは身体を磨き上げて、最高のコンディションになってからですわね!」
「なってからではないのですが……(まあチョロくて助かります)」
鼻歌を口ずさみながら、羽を広げるイザベラ様と女湯へと向かう。
そのまま私の腕を取り、「さあ、女湯よ!」と先導する意気込みは、もはや戦の出陣である。
◇
脱衣所を抜けると、そこは別世界だった。
朽ちた外観からは想像もつかないほど幻想的な岩造りの露天風呂。
ふわりと立ち上る湯けむりと、濃厚な硫黄の香り、惜しげもなく溢れる源泉。
ゆらゆらと波打つ湯面は、降り積もった雪の白さを映し出し、神秘的な輝きを放っていた。
「あら? 思ったより素敵だわ!」
イザベラ様が嬉しそうに声を弾ませた。
胸を張り、顎を上げ、湯気越しに視線だけで空間を支配する。タオル一枚で岩場に立つその姿は、舞踏会場にいるかのように堂々としている。
豊かな胸元から引き締まった腰への曲線美。
そして雪景色にも負けないほどの透き通った白磁の肌。
神は二物を与えずと言うが、イザベラ様の時だけ『美の在庫一掃セール(福袋付き)』でも開催されていたのではないだろうか。
全く不公平な話だ。
『板』や『紙』といった平面素材で構成された私の慎ましいボディとは、生物としての設計図が違いすぎる(まあ分かってたけど)
ドレスを脱いでも孔雀は孔雀ということか。
「さあ、美肌に磨きをかけますわよ!」
イザベラ様はバシャッと音を立てて、豪快に湯船へ飛び込んだ。
タオルがずり落ちるが、決定的なところは湯気と湯面が隠す。
そういうところも含めて、さすがイザベラ様だ。
私は呆れつつ掛け湯をして、ゆっくりと肩まで浸かった。
「ふぅ……生き返ります」
熱めのお湯が、日々のデスクワークで凝り固まった身体をほぐしていく。肌にまとわりつく柔らかなお湯。指先まで血が巡るのが分かる。
(これだ! これを求めていたのだ!)
隣ではイザベラ様が「殿下、もうしばらくお待ちくださいませ!」と、はしゃいでいる。
平和だ――そう思っていた時だった。
「ふふん、これで完璧な美貌を取り戻したわ! いつ殿下に触れても問題ありませんわね!」
秒で身を清め終わったイザベラ様は、くつろぐどころか、キリッとした顔で男湯との仕切り(岩壁)を見上げた。
「いざ、殿下の元へ、ですわ!」
ガシッと、イザベラ様が岩壁に手をかけ、足をかける。ズザザッと苔を削りながら、器用によじ登り始めた。
「ま、待ってください! ロッククライミングで男湯に侵入しようとしないでください!?」
私は慌ててイザベラ様の足首(美しい)を掴んで引きずり下ろす。
「放して、リリアナ! 私はもう綺麗になったのよ! どこにも阻む理由なんてないはずだわ!」
「あります!(ありすぎるし、見えすぎてます) 不法侵入は変わりませんし、それに、落ち着いてください。焦らなくても二泊三日ですから……チャンスは明日もありますよ?」
「明日……?」
「はい。今日は移動と掃除でお疲れですよね? 最高のコンディションの貴女を見せるなら、明日の夜、夜闇で輝く『月下の女神』として神秘的に登場すべきです。今ここで押し掛ければ下品な『夜這い』と変わりませんよ?」
私の説得に、イザベラ様は「むぅ」と動きを止めた。
「……確かに夜這いは公爵令嬢の美学に反するわね。それに『月下の女神』……いい響きだわ!」
イザベラ様は颯爽と岩壁から降りた。
だが、その手にはタオルが固く握りしめられている。
行き場を失ったパッションが暴発寸前のようだ。
「でもね、この溢れ出る殿下への奉仕欲はどうすればいいの!?」
「それなら簡単です。まずは明日の練習です。その岩を殿下の背中だと思って磨いてください。……さらに念を送れば、今にも殿下へ届くかもしれませんよ?(届くわけない)」
「念……そうね! 直接触れられないなら、こうしますわ!」
イザベラ様は目の前のゴツゴツした岩肌を『殿下の背中』に見立て、猛烈な勢いで磨き始めた。
岩肌を削り取るような凄まじい音が響く。
私はふと思う……なんて頑丈なタオルなんだろうか、と。
「どうです、殿下!? この壁を通して、私の『愛の波動』が伝わっているはずですわ! 心の目でお背中を流しておりますの!」
「……おい」
壁の向こうから、殿下の声が微かに聞こえた。
「さっきから何やら騒がしいぞ。よく聞き取れんが、背中に何か波動? いや『執念』を感じる。これが噂の幽霊の仕業かもしれん。まさか本当にいたとはな。これほどの重い念……この地に縛り付けられた『地縛霊』といったところか」
どうやら岩壁が厚く、こちらの声はあまり届いていないようだ。
殿下は冷静に分析しているが、言っていることは完全に間違えている。
だが微かな声も聞き逃さないイザベラ様にかかれば、その言葉さえも愛の囁きに変換される。
「リリアナ! 今、『執念』を感じると聞こえましたわ! それに『地縛霊』と……つまり、私が『永遠に殿下から離れない運命の女』だと気付いてくださいましたのね!?」
「え……?」
「やりましたわ! 殿下のお背中も流せましたし、最高の夜ですの!」
イザベラ様はタオルを掲げ、高らかにガッツポーズをした。
「……よ、良かったですね。殿下のお背中を流せて(リモートで)」
殿下は壁の向こうの気配を「悪霊」と警戒しただけなのだが。
相変わらず、幸せなポジティブ思考だ。
これで少しは大人しくなるだろうと思った、その時だ。
ヒュルル……不気味な風切り音と共に、白い靄の向こうから、低い唸り声が聞こえてきた。
「で、出ましたわぁぁぁ!」




