第十三話 白銀温泉郷
ガタゴトと御者台から手綱の音が小さく鳴る。
山道で揺れる馬車の中で、私は『温泉地権利書』を握りしめ、期待に胸を膨らませていた。
目的地は王都から北へ馬車で半日。
山奥にひっそりと佇む、『白銀温泉郷』だ。
その名から『宿泊した翌日には人生観が変わる』とまで噂される、王家御用達の湯治場。
連想するのは、白銀の雪に埋もれた山里に、格式ある高級旅館が静かに軒を連ねる。
静かに立ち上る湯気と、源泉の乳白色。
肌に触れた瞬間、疲労と共に理性まで溶ける、そんな極上の休日……そのはずだった。
「殿下、話が違います……」
「何も違わないだろう。私は『温泉地そのもの』をくれてやると言った。言葉通りではないか」
向かいの席で、平民風の変装(地味な色のシャツだが、素材が最高級なので隠しきれていない)をしたアレクセイ殿下が、本を読みながら言った。
「まさかとは思いますが……あそこがその温泉地、なんて言わないですよね?」
「うむ。10年前の大雪崩で他の旅館は軒並み倒壊してな。再建もなく更地になった。今、『白銀温泉郷』に残っているのは一軒の旅館。廃屋だが、あの宿の主になるということは『温泉地そのもの』を所有することと同義だろう?」
「……(詐欺だ)」
あまりの暴論に言葉を失う。
まさか報酬で渡されたのは、夢の温泉地などではなく、一軒の旅館の『権利書』とは。
「あら、リリアナ。もう少し楽しそうな顔をしなさいな! せっかくの温泉旅行よ!」
私の隣で『雪山仕様の白孔雀』をテーマにした、純白のファーと銀のレースをあしらった『旅行着(という名のドレス)』を纏ったイザベラ様が、胸を張って言った。
どう見ても雪山には不向き。これから舞踏会にでも行くような装いだが……まあ、イザベラ様だ。
イザベラ様は先日の報酬として、殿下の背中を流す特権(自称)を主張して、当然のようについてきた。
殿下も、「温泉地は山奥だ。あれだけ騒がしいなら『熊よけの鈴』ぐらいにはなる」と渋々認め、奇妙な三人旅となっている。
「あそこが私たちの宿ね!」
イザベラ様が指さした先、そこには鬱蒼とした木々に埋もれるようにして建つ、古びた木造建築があった。
看板の『白銀館』は塗装が剥げ、屋根は苔だらけで、入口の扉は片方が外れかけている。
風情があると言えば聞こえはいいが、率直に言えば『廃屋』だ。
「……殿下、それで、あそこが私の『ボーナス』ですか?」
「ああ、言っただろう。雪崩から奇跡的に生き残った『伝説の宿』だ。まあ以前の持ち主は夜逃げし、ここ10年ほど管理されていないがな」
「唯一残った負債物件じゃないですか!?」
私は絶叫した。
温泉に入れると喜んだ私が馬鹿だった。
これは休暇ではない。
『経営破綻した旅館再建』、もとい『温泉地再建』という、新たな業務命令だったのだ。
殿下は本から目を離さず、小さく呟く。
「だが湯の質だけは本物だそうだ。惜しいと思ってな。誰かが手を入れれば再び輝くかもしれんぞ?」
その言葉に、私は一瞬だけ口をつぐんだ。
殿下は『効率』の人だ。無駄なものは切り捨てるはずの彼が、このボロ宿を「惜しい」と言った。
もしかすると、この宿には数字では測れない何かが眠っているのかもしれない。
◇
到着早々、私たちは現実(埃とカビ)に直面していた。
ロビーは薄暗く、カウンターには蜘蛛の巣が張り、もちろん従業員もいない。
「最悪ね! 何なのこの汚さは! 私の美しいドレスが汚れてしまうわ!」
イザベラ様が声を荒げた。
私は即座に頭を切り替える。
嘆いていても始まらない。この物件の所有者は私なのだ。資産価値を上げなければ売るに売れない。
私はすぐに行動を移す。
「掃除しましょう」
「えっ!? 私に掃除しろって言うの!?」
「イザベラ様、このままではお風呂にも入れませんし、食事もできません。それに……想像してみてください」
私はホウキを手に取り、イザベラ様に小さく囁く。
「このボロ宿をピカピカに磨き上げ、見事に再生させれば、殿下は貴女を『ただのワガママ令嬢ではなく、家庭的な一面もある素敵な女性』として見直すかもしれませんよ?」
イザベラ様の瞳が、カッと見開かれた。
「ホウキと雑巾を寄越しなさい」
「どうぞ」
「見てなさいよ! この私が本気を出せば、塵一つ残さないわ!」
イザベラ様はドレスの裾を捲り上げ、猛然と床を拭き始める。行儀は悪いが、気合は十分入ったようだ。
「そこ、おどきなさい!」と叫びながら、蜘蛛の巣を薙ぎ払っていく姿は、もはやバーサーカーだ。
チョロい。もとい、本当に扱いやすい人で助かる。
その横で、アレクセイ殿下がシャツの袖を捲りながら声をかけてきた。
「私は裏庭を見てくる。源泉の点検が必要だ。湯が出なければ、温泉宿としての価値は皆無だからな」
「……あの、殿下。工具なんて持っているのですか?」
「ああ、馬車の座席の下に入れてある。昔、王宮の抜け道を通って城下へ出る際に、錆びた鉄格子を外すために構造を学んでな。配管はその応用だ」
「王宮の抜け道ですか……」
さらりと殿下は言ったが、それは王子が孤独に城を抜け出していた過去を示唆していた。
この人は華やかな玉座よりも、自分の手で何かを動かすことの方に飢えていたのかもしれない。
「お願いします、殿下。(配管工みたいなことまで出来るんですね、この王太子は)」
「任せておけ」
殿下は工具箱から高そうなモンキーレンチを取り出し、カチカチと噛み合わせを調整する。
工具箱を手に、逞しい背中を見せて裏庭へと歩き去っていった。
無駄に絵になるのが、少しだけ腹立たしい。
私は気を取り直し、帳場に入って残された帳簿と格闘を始めることにする。
帳場の引き出しは半分が空で、半分が無造作に詰め込まれていた。
古い予約台帳、滞在客名簿、そして乾ききったインクの走り書きに目を通す。
『夜は露天に近づくな』
『女の声がする』
最後のページは震えた筆跡で一行だけ。
『塞げ。あの穴を塞がないと客が戻らない』
私は顔を上げた。
穴? 設備不良か、それとも噂の根源か。どちらにしても、お金の匂いがする。
赤字の原因、未払い金の有無、そして建物の修繕積立金、諸々……。
「幽霊云々よりも、直近の固定資産税の未納通知の方がよほどホラーですね……」
私は一人小さく呟き、感情のスイッチを切る。
恐怖している暇はない。
私は王都から持参した電卓を取り出し、パチパチと叩き始めた。
ロビーからは「シュバババッ!」という猛烈な拭き掃除の音と、イザベラ様の気合の入った掛け声が聞こえてくる。
「覚悟なさい! この薄汚い窓ガラス! 私の美貌を映せるまで磨き上げてやりますわ!」
私はここぞとばかりにカウンターから身を乗り出し、イザベラ様に声をかける。
「イザベラ様、素晴らしい気迫です。その調子で天井の四隅もお願いします。今の背伸びをする仕草……殿下の好感度を上げるポイントですよ」
「あら、本当に!? よーし、見てなさい!」
イザベラ様がさらに張り切るのを確認し、私は席に戻る。
裏庭からは、カーン、カーンと小気味よい金属音が響く。
どうやら殿下も順調に配管と格闘しているようだ。
私はペンを走らせ、債務整理の計画書と、当面の運転資金の試算表を書き上げる。
不思議だ。王城での執務はあんなにも胃が痛くなるのに、自分の城(ボロ宿)のための仕事は、いくらしてもワクワクしてくる。
誰かに命じられた数字ではない。
私が守り、育て、価値を生み出すための計算。
これが『経営者』の悦びというやつだろうか。
◇
数時間後。
廃屋同然だったロビーは、イザベラ様の暴力的とも言える清掃によって、見違えるように綺麗になっていた。
床は鏡のように磨き上げられ、窓ガラスは透明度を取り戻している。
「どう? 完璧でしょう!」
「素晴らしいです。プロの清掃業者顔負けです」
「オーッホッホッ! 当然よ! それで殿下は?」
そこへ、煤だらけになった殿下が戻ってきた。
「源泉ポンプの修理は完了した。配管が詰まっていただけだったからな、これで湯が出るぞ」
「さすが殿下ですわ! これで背中を流せますわね!」
「お前はいったい何を言っている?」
「もう殿下ったら、照れ屋さんなんだから!」
イザベラ様が身をくねらせながら迫ったが、殿下は「寄るな、煤がつく」と手で制して一蹴した。
私はその隙を逃さず、業務の話をねじ込む。
「殿下、次は厨房も直せますか?」
「……仕方ない。飯抜きは非効率だからな」
てっきり「お前は俺を誰だと思っている」と言われると思ったが、殿下は嫌な顔一つせず、厨房へ向かった。
(もうこの人、修理屋では……?)
カン、カンと数分もしないうちに、厨房から小気味よい音が聞こえる。
「回路が焼き切れていただけだ。ついでに換気扇のファンも油を差しておいたぞ」
「……仕事が早すぎます(ちょっと引く)」
私たちは持参した干し肉とパンを焼き、簡単な夕食を済ませた。
王宮の豪華な晩餐に比べれば質素なものだが、労働の後に、自分たちで直した宿で食べる食事は、不思議と格別な味がした。
ただ、イザベラ様だけは、「干し肉……? パン……? 貴族の夕食が聞いて呆れるわ!」と、鼻で笑った。
だが、一口かじった瞬間にぴたりと黙る。
「な、何よ……悪くないじゃない。焼き加減だけは……まあ合格よ」
絶対に美味しいと言いかけていた。
何にしても、建物・設備の問題はクリアできそうだ。
問題はソフト面。
陽が落ちてきた頃、私たちは、イザベラ様がピカピカに磨き上げたロビーのテーブルにカンテラを置き、深刻な顔で向き合っていた。
窓の外は漆黒の闇。
風が木々を揺らし、ヒューヒューと不気味な音を立てる。
「帳簿を確認しました。この宿から客足が遠のいた最大の理由は……『幽霊が出る』という噂です」
「ゆ、幽霊ですって!?」




