第十話 眼鏡とモノクル
立太子礼という名の『公爵逆断罪イベント』から早一週間。
王宮は嵐が過ぎ去った後の平穏を取り戻しつつあった。
私は王太子執務室のデスクで、一枚の書類を愛おしそうに眺めている。
――『有給休暇申請書』。
期間は3日間。行き先は王都近郊の温泉地。
ここ、俺様王子の下で馬車馬のように働いてきた、私から私への、ささやかなご褒美である。
(ふっ、ふふ……温泉、マッサージ、スイーツ、昼からワイン……)
脳内で完璧な休日プランをシミュレーションし、自然と顔がにやける。
グランビル公爵と、その一味は地下牢で尋問中。
イザベラ様は『断罪の立役者』として、社交界のスターになり、機嫌よくパーティー三昧。
今の王宮に、緊急の懸案事項は何もない。
今こそ、この申請書を提出する絶好のチャンス。
私は意を決して立ち上がり、王太子殿下のデスクへと向かう。
「殿下、決裁をお願いしたい書類がございます」
「…………」
殿下は羽根ペンを走らせたまま、顔も上げない。
ここ数日、殿下はいつになくピリピリしていた。 晴れて次期国王になったのだから、もう少し余裕を持てばいいのにと思うが、出世すれば責任も増えるのが世の常だ。
「そこに置いておけ。後で見てやる」
「いえ、緊急を要しますので、今ここで承認をいただきたいのです」
「緊急用件か? 北の国境で小競り合いでも起きたのか?」
「いいえ、私の精神的疲労が限界突破しそうです」
私が申請書を突き出すと、殿下はようやく手を止め、それを冷ややかな目で見下ろした。
そして鼻で笑った。
「却下だ」
「なっ……!? 理由をお聞かせください。労働契約書第8条に基づき、私には休暇を取得する権利が……」
「状況が変わった」
殿下は引き出しから一通の封書を取り出し、私の前に放った。
重厚な黒い封筒。
そこに押された封蝋は、二つの頭を持つ鷲の紋章。
「これは……ガレリア帝国の紋章」
ガレリア帝国。
我が国の西に位置する軍事大国であり、大陸最強の武力を誇る覇権国家だ。近年は不可侵条約を結んで冷戦状態にあるが、決して友好的な隣国ではない。
「先ほど届いた親書だ。帝国の『氷の皇帝』こと、ガレリア帝国皇帝 ディミトリ・ゼニス=ガレリアが、来週、我が国を訪問するそうだ」
「来週ですか!? 一国の皇帝がそんな急なスケジュールで動くものですか!」
「常識ではな。だが、奴は常識で動く男ではない。名目は『王太子就任の祝い』だが、腹の中は透けて見える」
殿下は青い瞳を鋭く細めた。
「我が国の政情が安定する前に、新米王太子を値踏みし、あわよくば不平等条約を押し付けるつもりだろうな。これは外交という名の『戦争』だ、リリアナ」
戦争。その言葉の重みに、私の温泉旅行計画が、音を立てて崩れ去った。
「というわけで、リリアナ。お前の休暇は無期限延期だ」
「う、うぅ……(血涙)」
「泣くな。その代わり、今回の迎撃戦に勝利すれば、特別ボーナスとして『温泉地そのもの』をくれてやる」
「本当ですか!?(なら頑張ります)」
切り替えの早さが、今の私だ(イザベラ様にうつされたか)
「それで、殿下。皇帝陛下をお迎えするにあたり、具体的に何が脅威なのですか? 単なる会談であれば、殿下の口八丁……いえ、交渉術でどうにでもなるのでは?」
「ディミトリ皇帝は冷徹な合理主義者だ。話は通じる。問題は奴が連れてくる『側近』だ」
殿下が忌々しそうに言った。
「情報によれば、今回の訪問団に帝国の宰相補佐官である、『シルヴィア・ル・ベル』が同行しているらしい」
「宰相補佐官のシルヴィアですか……?」
「ああ、『帝国の頭脳』と呼ばれる女だ。計算能力、記憶力、そして冷酷なまでの事務処理能力において、帝国内で右に出る者はいないと言われている」
殿下は私をじっと見据える。
「リリアナ、お前と同じ匂いがする女だ」
私と同じ? それはつまり、金に汚い社畜ということだろうか? いや、帝国の宰相補佐官ともなれば、もっと高尚な動機で動いているに違いない。
「奴らは必ず膨大なデータと、論理武装で我が国の隙を突いてくる。関税の撤廃、軍事拠点の使用権。無理難題を『正論』で押し付けてくるはずだ。それを防げるのは、同じ武器を持つお前しかいない」
殿下は立ち上がり、私の肩にポンと手を置いた。
「頼んだぞ。帝国の『完璧』を、お前の『完璧』で上回れ」
◇
一週間後。
王宮の前庭には、黒塗りの馬車の列がずらりと並んでいた。
帝国の使節団だ。
降り立ったのは銀髪の冷美男――ディミトリ皇帝。その身に纏う覇気は、アレクセイ殿下とはまた違う、研ぎ澄まされた刃のような鋭さがある。
そして、その斜め後ろに控える一人の女性。
プラチナブロンドをきっちりと結い上げ、片眼鏡をかけた知的な美女。彼女がシルヴィアだろう。
彼女の手には、私と同じように分厚いファイルが抱えられている。
アレクセイ殿下が出迎えの挨拶をする。
「ようこそ、ディミトリ皇帝陛下。遠路はるばる感謝する」
「挨拶は省こう、王太子アレクセイ。私は観光に来たわけではない」
ディミトリ皇帝は、開口一番に牽制を入れてきた。
「早速だが、事務的な協議に入りたい。……シルヴィア」
「はい、陛下」
シルヴィアが一歩進み出る。
その声は鈴が鳴るように美しいが、温度を感じさせない無機質な響きだった。
「ご挨拶申し上げます。帝国の宰相補佐官、シルヴィア・ル・ベルと申します」
彼女は表情一つ変えず、淡々と告げた。
「我が帝国は貴国に対し、『通商条約の全面改定』を提案いたします。ここに条約案と貴国の経済状況に関する分析データ1万ページをご用意しました。回答期限は明朝までとさせていただきます。貴国の意思決定速度を確認するためです」
1万ページを明朝まで。
周囲の文官たちが「無茶だ!」とざわめく。
これは明らかにこちらの処理能力を超過させ、交渉を優位に進めるための、嫌がらせ(ジャブ)だ。
アレクセイ殿下が、チラリと私を見た。
――やれるか?
私は眼鏡を中指で押し上げ、一歩前に進み出る。
そのままシルヴィアに向かって、事務的なスマイルを向けた。
「お初にお目にかかります、シルヴィア様。王太子殿下の筆頭補佐官、リリアナと申します」
私は彼女が差し出した書類の山を受け取ることなく、自らの手元にあるファイルを掲げた。
「1万ページですか。奇遇ですね。こちらも帝国に対する『輸出規制の見直し案』及び『帝国製粗悪品の流入に関する苦情リスト』を1万2千ページご用意いたしました。当然、今から読み合わせをしていただけますよね?」
シルヴィアの片眼鏡がキラリと光る。
彼女の氷のような瞳が、初めて私を認識した瞬間だった。
「面白いわね……」
彼女は冷ややかな笑みを浮かべた。
「地方の小国にも数字を運用できる方がいらしたのですね」
「恐縮です。そちらこそ軍事国家にしては、文書がよく整っていらっしゃる」
バチバチバチッ!
私とシルヴィアの間に、目に見えない火花が散る、ような気がした。
アレクセイ殿下とディミトリ皇帝は、それぞれの部下の背中を見ながら、同時にニヤリと笑った。
こうして私の温泉旅行は消滅し、国運とプライド。そしてボーナス(温泉地)を懸けた、女同士の仁義なき『事務処理戦争』が幕を開けたのである。
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