EPISODE8 〝静〟
*登場人物
水守千景・・・ 高校2年生 / 無能力者
渡辺朱里・・・ 24歳 / 無能力者
何度目かの眠りと目覚めを繰り返した頃
もう昼なのか夜なのかも分からなかった。
部屋の空気はさらに重く冷たくなっていく。
喉が渇く。
与えられた水は既に飲み干してしまった。
食事は……まだ来ない。
朱里「……千景。」
暗闇の奥から、また朱里の声。
声を出さずにこくりとうなずく。
朱里「覚えておきな。
二日目が一番気を狂わせる。」
私は膝を抱えながら、彼女の声に耳を傾けた。
朱里「……たとえ幻を見ても声に出しちゃダメ。
頭の中だけでやり過ごすの。
監視はね、ちゃんと見てるから。」
その時だった。
天井のどこかで
ガリッ……と何かが擦れるような音がした。
千景「……なに、今の音……?」
思わず声が出そうになり、唇を噛む。
朱里「気にするな。
……ここじゃ、色んな音がする。」
けれど私は知っている。
さっきまでの音とは違う。
まるで誰かが……天井を這っているような。
千景「……朱里さん。」
小さく囁いた瞬間
自分の声が部屋に溶けていくのを感じた。
はっとして口を押さえたがもう遅い。
遠くで金属の響きが鳴った。
監視の何かが反応したような音。
朱里「……千景!」
朱里の声が鋭くなった。
朱里「だめ!もう声を出すな!」
胸が跳ね上がる。汗が一気に噴き出す。
耳を澄ますと廊下の向こうから
複数の足音が急いで近づいてくるのが分かった。
──罰が来る。
震える手を必死で握りしめ
私はマットの上でうずくまった。
息を潜める。お願いだから、来ないで。
足音が部屋の前で止まった。
扉に取り付けられた小窓から誰かの影が差す。
冷たい視線がこちらを
覗き込んでいるような気がした。
……沈黙。
そのまま、足音はまた遠ざかっていった。
胸を押さえて、私はその場に崩れ落ちる。
朱里「……危なかったね。」
朱里がかすかに笑った。
朱里「いいかい??次はないよ。」
私は必死で頷いた。
震える体を抱きしめ、鼻歌を心の中で繰り返す。
母の歌、父の声、兄の笑顔――。
……それでも
この場所の闇はさらに深くなっていく気がした。
そしてまた遠くのどこかで
今度は人ではないような声がかすかに響いた。
暗闇の奥で、朱里が小さく息を吐く音がした。
朱里「……ねぇ、千景。」
私は顔を上げる。
返事はできないけれど、頷いて気配を向けた。
朱里「ここにいるとね……
時々、音のない場所が一番怖いんだよ。」
一瞬、その言葉の意味がわからなくて瞬きをする。
朱里「誰かが泣いてるとか叫んでるとか
そういう音がしてるうちは、まだマシ。
生きてるって証拠だから。
……でもぴたりと止まった時だけは気をつけな。」
私は息を呑む。
あの瞬間の、急に訪れる静寂を思い出した。
千景「……何か、起きるんですか。」
口を開きかけて慌てて閉じる。
そのまま首を横に振ると、朱里は小さく笑った。
朱里「答えを言っちゃダメなんだよ、ここじゃ。
でも……その静けさの後で
急に扉が開く時がある。」
私はその場で固まった。
朱里の言葉は冗談ではなく
実際に何かを見てきた人のそれだった。
朱里「だから、耳を澄ましな。
音が止まったら、次は――来る。」
彼女の声は淡々としていたが
その奥には確かな重みがあった。
暗闇の向こうでまた誰かが呻く声がした。
それが遠ざかってまたしんとした静寂が落ちてくる。
私は膝を抱きしめ息を殺す。
朱里の言葉が頭の中で繰り返される。
──音が止まったら、次は来る。
胸の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
いつ扉が開くかわからない恐怖を抱えながら
私はただじっと暗闇の中に身を潜めていた。
時間の感覚はもうほとんど消えていた。
何分経ったのか何時間なのか……わからない。
ただやけに耳だけが敏感になっていく。
どこか遠くで規則的な滴の音がする。
水が落ちる音だ。
ぽた……ぽた……と、やけに大きく響く。
その水の音に意識を向けていると
急に「ギィィ……」と金属の軋む音が
すぐ近くから聞こえた。
私は反射的に息を止める。
朱里「……動かないで」
彼女の声が、闇の奥で低く響いた。
さっきまでの柔らかさが消えて
ひやりとした気配が漂う。
朱里「……通る。」
──通る?
ここに?誰が?
足音がした。
ゆっくりと引きずるような歩き方。
複数ではない、ひとつの足音だ。
扉の外で止まる……と思った瞬間
小窓の向こうに何かがぬっと立った影が見えた。
私は目をこらす。
だが逆光になっていて顔はわからない。
ただそいつの輪郭が
ゆっくりとこちらに向いて動いたのがわかった。
胸が締めつけられる。
息をするのも怖い。
その影は何かをつぶやいた。
「……ィィ……」
言葉が聞き取れない。
けれど低くかすれたその声は
間違いなく人間ではなかった。
私の背筋がぞくりとした。
手が震える。声が出そうになる。
朱里「……千景、だめ。
絶対に目を合わせるな。」
私は慌てて顔を伏せ膝に額を押しつける。
その瞬間、扉の向こうの影が
「ガンッ!」と鉄を叩いた。
悲鳴が出そうになり、両手で口をふさぐ。
心臓が耳の奥で破裂しそうに跳ねる。
……どれくらい経ったのだろう。
やがて、その影は何も言わずに遠ざかっていった。
朱里「……よくやったね。」
その声を聞いた瞬間
私はその場に崩れ落ち、肩を震わせた。
涙が止まらない。
でも声を出すわけにはいかないから
必死に息を詰める。
──ここでは、叫びたいときほど声を殺す。
私はただ母の鼻歌を心の中で歌い続けた。
それだけがかろうじて私を繋ぎとめていた。