EPISODE11 〝証〟
*登場人物
水守千景・・・ 高校2年生 / 無能力者
神崎朔弥・・・ 24歳 / 封師殿・異邦尋問官 / 火能者
古びた扉が閉じる音がして
部屋の中に静寂が戻った。
個室といってもさっきの部屋より
ほんの少し広いだけ。机と椅子と小さなベッド。
天井の隅に監視用の黒いレンズが
光を吸い込んでいる。
千景は膝を抱え、深く息を吐いた。
48時間。
生きてここに来れただけで
ほんの少しの安堵が胸をかすめる。
視線を落とすと
机の上に古びたノートが置かれていた。
茶色く変色した表紙は角が擦り切れ
手触りはざらついている。
誰が置いたのか分からない。
けれどここにいるのは自分だけ──。
千景は恐る恐る手を伸ばし表紙を開いた。
この部屋に来た人へ。
もしあなたがこの文字を読んでいるなら
まだ間に合うかもしれない。
思わず心臓が跳ねる。
筆跡は震えていて
かすれたインクがところどころ滲んでいた。
ここでは時間があなたを壊す。
眠れなくても食べられなくても
自分の名前だけは忘れないで。
ページをめくると日記のような断片が続いていた。
2日目の夜。誰かが壁を叩いている。
返事はしてはいけない。
返事をした子は次の日には声が出なくなった。
千景の指先が震えた。
今まさに壁の向こうから
小さなコツコツという音が響いてくる。
息を殺しノートに目を落とす。
3日目。視線を感じる。
でも振り返ると誰もいない。
それでもここで生きたかったら
知らないふりをすること。
ページの端に
誰かが書きかけた言葉が残されていた。
もし外に出られたら……
その先は破られたように無かった。
千景はノートを閉じベッドにうずくまった。
胸の奥が冷たく重い。
──この部屋は生きるための場所なのか
それともゆっくり壊れていくための場所なのか
暗闇に目が慣れてきても眠気は訪れなかった。
壁の向こうで誰かが軋む音を立てるたび
胸の奥が跳ねる。
──ここで声を出したら
あのノートに書いてあった通りになる。
千景は両耳をふさぎ
母の鼻歌を心の中で繰り返した。
時間の感覚はあいかわらず遠く
眠ったのか眠れなかったのかも分からない。
やがて遠くで金属が軋む音がして扉の鍵が外れる。
「……起きてるか。」
低い声が部屋に落ちた。
見上げると細身の青年が立っていた。
黒い制服に身を包み冷えた光を帯びた瞳──
神崎朔弥だった。
千景「……うん。」
声がかすれる。
48時間ぶりに人と話すことが
こんなにも怖いとは思わなかった。
朔弥は部屋に足を踏み入れ
机の上のノートに目を落とした。
だが何も言わない。
ただ千景を一瞥してから静かに問いかける。
朔弥「……読んだのか。」
喉の奥で小さく息を呑んでからうなずく。
千景「……うん。」
朔弥「なら、いい。」
朔弥の声には感情がないようで
どこか迷いが滲んでいた。
彼はしばらくノートに触れもせず
千景の顔を見つめる。
朔弥「お前がここで生き残れるかどうかは
……お前次第だ」
そう言うと朔弥は扉の方に向き直った。
朔弥「今日は食事が出る。それをちゃんと食べろ。
……それと、絶対に声を出すな。誰が来ても。」
そう告げて彼は静かに扉を閉めた。
部屋に再び静寂が落ちる。
千景はベッドの上で膝を抱え
閉ざされた扉を見つめた。
──あのノートの続きを
読みたくないのに読みたくてたまらない。
指先がまたゆっくりとノートに伸びていった。
表紙に触れると冷たさがじんわりと掌に伝わる。
息を吸い込みそっとページをめくった。
「次にこのページを開いた人へ」
鉛筆で書かれた、少し力の抜けた字。
けれど筆跡は乱れておらず
確かに誰かが落ち着いてここに座り
書いたものだった。
ここにいると、すぐに時間を失う。
何日経ったかも、昼夜もわからなくなる。
でも──絶対に考えちゃいけないことがある。
自分はここから出られないかもしれないってこと。
千景の心臓がどくんと跳ねた。
思わず周囲を見回すが、誰もいない。
扉は閉じられたまま。
喉がからからに乾く。
今の自分とまったく同じ状況を知っている
誰かがここにいた証。
ページをめくる手が止まらなかった。
でもそれ以上の言葉はなかった。
最後の行に小さな点がぽつりとついているだけ。
──とくん、とくん、とくん。
自分の心臓の音がやけに大きく響く。
ノートを閉じて胸に抱きしめたまま膝を抱える。
その時、かすかな物音がした。
カラン──。
金属が床に転がる乾いた音。
ベッドの下からだった。
千景はそろりと身をかがめる。
薄暗い床の奥に光るものがひとつ──
古びた鍵が落ちていた。
手を伸ばしかけて、息を呑む。
──でも、鍵穴なんて、どこにもない。
その瞬間
部屋の奥から水滴の落ちるような音がした。
ぽたり……ぽたり……。
息を呑んで耳を澄ませる。
でも音はすぐに消えた。
千景は鍵を握りしめ、目を凝らす。
ここにあるのは、自分の息遣いと心臓の音だけ。
──夜は、まだ終わらない。