8
勇者ユリウスの来訪は、村の雰囲気を一変させた。
彼は貴族らしい気品とカリスマを持ち、村人の尊敬を瞬時に集めた。
そして、エリシアも——。
「勇者様……」
夕暮れ時、村の広場で彼と話すエリシアの姿を、オレは遠目に見つめていた。
その頬は紅潮し、瞳は彼の姿を追いかけるように揺れている。
まるで、すっかり恋する乙女のようだった。
正直、見ていてあまり気分のいいものではない。
だが、オレよりも感情を露骨に表に出しているやつがいた。
「……なんかムカつくんだけど」
ノワールだ。
オレの家に入るやいなや、彼女はベッドにドスンと倒れ込んだ。
頬を枕に押し付け、もぞもぞと身体を動かしながら、不満げに唸っている。
オレは窓を少し開け、入り込んできた夜風を感じながら問い返す。
「……何が?」
「何がって……あの勇者にデレデレしてるエリシアがさぁ。バカみたい」
ノワールは枕をギュッと抱え込むと、唇を尖らせた。
その目には、どこか刺々しい光が宿っている。
オレは暖炉に薪をくべながら、ちらりと彼女の方を見る。
「ふーん……エリシアのこと、そんなに気にしてるのか?」
そう聞いた瞬間——ノワールの肩がピクリと動いた。
「は!? いやいや、違うし! 別にエリシアが誰に惚れようが勝手だけどさぁ……」
その言葉とは裏腹に、彼女の声には微かに苛立ちが混じっていた。
オレがじっと目を向けると、ノワールはわずかに視線を逸らし、髪を指で弄ぶ。
いつも自信満々な彼女にしては珍しい仕草だった。
「……そもそもさ、エリシアは、ずっとあんたと一緒だったわけよね?」
「まあ、そうだな……」
「なのに勇者が来たらすぐこれ? 切り替え早すぎでしょ。何? あんたがバカ見てるみたいで……ムカつくんだけど!」
ノワールはベッドの上でごろりと寝返りを打ち、オレを横目で睨むように見上げた。
まるで「どう思う?」とでも言いたげに。
オレは少し息を吐く。
――これ、絶対エリシアだけの話じゃないよな。
ノワールはエリシアの態度に怒っているというより——どこか、寂しそうだった。
「あれは洗脳のようなものだろ? それに、オレはエリシアに惚れてるわけじゃないしな」
「……へぇ?」
ノワールの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
炎のような紅い瞳が……わずかに見開かれたかと思うと、彼女はふっと小さく息をついた。
「じゃあ、好きな女とかいないわけ?」
「今はそんなこと考えてる余裕……ないし」
オレが肩をすくめてベッドに座ると、ノワールはふと考え込むような素振りを見せた後、オレの隣にゴロンと転がった。
すぐ隣から、彼女の体温がじんわりと伝わる。
夜の空気はひんやりしているのに、ノワールの肌はどこか温かかった。
「……そっか」
そして——。
「じゃあ、今から考えてみれば?」
突然、ノワールがオレの耳元で囁いた。
距離が近い。
頬が触れ合いそうなほどに。
思わず肩を跳ねさせると、ノワールはクスクスと笑った。
息がかかるほどの距離にいる彼女の声は、妙に甘く響く。
呼吸をするたびに、ノワールの香りが鼻をくすぐる。
どこか妖艶で、それでいて安心する匂い。
不覚にも、胸が変なリズムを刻みだす。
「……何だよ」
「なーんでも?」
オレの動揺を楽しむような、いつもの妖艶な笑い方。
けれど——それだけじゃない気がした。
どこか、もっと素の彼女が出ているような——そんな感じがしてならない。
暖炉の火が、パチッと音を立てて爆ぜる。
「まぁ、お前とはこれから長い付き合いになりそうだしな」
「……え?」
ノワールの動きがピタリと止まる。
「お前の力が必要だ。オレの未来を変えるために」
彼女はしばらくオレの顔を見つめていた。
何かを言おうとして――けれど、言葉にならないような。
これまでに見たことのない感情が、その瞳に浮かんでいる気がした。
そして——。
「……そっか」
ポツリと呟いた後、小さく笑った。
「ま、いいわ。あんたと一緒にいるの、退屈しなさそうだしね」
ノワールは、オレの隣で目を閉じる。
暖炉の火の明かりが、彼女の横顔を淡く照らす。
——その微笑みは、今までよりも少しだけ優しく見えた。
◆
夕焼けが村の屋根を赤く染める中、エリシアがオレに声をかけてきた。
「……レオン、最近、ノワールさんと仲がいいわよね?」
柔らかな声とは裏腹に、その瞳には探るような色が宿っていた。
近くにユリウスはいない。
そのせいか、彼女の表情からは洗脳のような霞が少し薄れている。
今のエリシアは、確かに「自分の意思」を持ってオレに話していた。
「まぁ……な」
オレの隣では、ノワールが気だるげに欠伸をしていた。
紅の瞳を細め、退屈そうに夕陽を見つめている。
「こいつは気まぐれだけど、オレを裏切らない仲間だから」
その言葉に、エリシアの表情がわずかに翳る。
「あら。あんたにそう言われるのって……なんか新鮮だわ」
ノワールは悪戯っぽい笑みを浮かべながらも、その目はどこか複雑な色を帯びていた。
「……でも、ノワールさんって……危ない人なんじゃない?」
いつも元気なエリシアからは考えられないような、沈んだ声。
オレが目を向けると、エリシアは少し躊躇いながら口を開いた。
「この前、勇者様が言ってたの。ノワールさんから『奇妙な気配』を感じるって」
言葉が落ちた瞬間——空気が張り詰めた。
「……」
やはりユリウスは気づいているのか。
ノワールは人間だが、悪魔と恐れられ封印されていたほどの存在。
彼女の魔力は尋常じゃない。人間のレベルを遥かに超えたものだ。
勘の鋭いユリウスなら、その異質さを感じ取って当然だろう。
しかし——。
「エリシア、お前はどう思う?」
「え?」
不意の問いに、エリシアが目を瞬かせる。
「お前自身がノワールを『危ない』と思うなら、勇者に報告すればいい。でも、そうじゃないなら……ノワールを信じてみる気はないか?」
エリシアは言葉を詰まらせた。
まるで、自分の心の中を探るように、静かに唇を噛みしめる。
そして——。
「……私は……」
その答えが出る前に——。
……ゴゴゴゴゴゴ。
地響きが鳴った。
遠く、地の底から這い上がるような重い振動。
それは徐々に強まり、村全体を揺るがすような轟音へと変わっていく。
村人たちがざわざわと騒ぎ始めた。
誰かが空を仰ぐ。誰かが大地を不安そうに見つめる。
そして、次の瞬間——。
村の鐘が鳴り響いた。
「魔物だ! 魔王軍の軍勢が来るぞ!!」
見張りの村人の叫びが、夕暮れの空気を切り裂く。
「な……!?」
オレは息を呑み、村の外れの丘を見やる。
そこに——黒い影が蠢いていた。
無数の魔物。
オーガ、ゴブリン、果ては飛竜まで。
夕陽を背に、整列するように並び、ゆっくりと村へと迫ってくる。
「なんで……こんな大軍が……」
戦略的価値のないこの村に、魔王軍が襲撃を仕掛ける理由などないはずだ。
なのに、目の前に広がる光景は——まるで戦場そのものだった。
「勇者様! お助けを!」
村人たちがユリウスに縋りつく。
ユリウスは静かに腰の剣を抜いた。
黄金の光を纏う、神聖なる聖剣を。
「恐れるな村人たち。この村は私が守ってみせよう」
その声は堂々としており、力強く、まるで神の声のようだった。
村人たちの表情が、一気に安堵へと変わる。
「さすが勇者様だ……!」
「これで村は安泰だ!」
だが——オレは違和感を覚えていた。
――違う……何かがおかしい
まるで、この魔物の襲撃すらも"運命の筋書き"に含まれているような……。
そんな、背筋を冷たくする違和感。
そして、オレは気づく。
——エリシアが、勇者のそばでうっとりと彼を見つめていることに。
黄金の輝きに魅入られたように、彼の言葉に心酔している。
このままじゃ、エリシアは勇者に……運命に完全に取り込まれる。
でも、まだ間に合う。
ユリウスから引き離せば——。
「ノワール!!」
オレは振り返る。
ノワールはフードの下で紅い瞳を光らせ、静かに微笑んでいた。
その笑みは妖艶で——だが、確かな意思を秘めたものだった。
「ふふ……どうやら、お膳立ては完璧みたいね」
「それはどういう意味だ?」
ノワールはくすりと笑い、オレをまっすぐに見た。
「決まった運命をぶっ壊す……チャンス到来ってことよ!!!」
村の鐘が鳴り続ける中、彼女の瞳だけが鮮烈な赤を宿していた。
——そうか……これはノワールの仕業か。
彼女はずっと、この瞬間を狙っていたのかもしれない。
ノワールは妖艶な微笑みを浮かべている。
その裏には、確かな覚悟が宿っていた。
――そうだ……オレたちにはまだ手がある。
このままじゃ、すべてが"運命通り"になってしまう。
でも、オレは抗う。
「エリシアを……運命から開放する」
魔王軍の影が、じわじわと村を飲み込もうとしている。
オレたちは、この世界の"運命"に抗い、戦わなければならない。