18
裁定者の体が崩れ落ち——光に包まれた。
ホッとしたのもつかの間、空間が軋む。
「……っ、これは――!」
ノワールの全身が総毛立つ。
この感覚はただの魔法ではない。世界そのものが揺らぎ、存在の根底が覆るような圧力。
――何かが来る。
黒い空間の裂け目が生まれた。そこから現れたのは、無機質な声。
『修正を開始する』
「……っ、また……!」
裁定者を倒したのに、まだ終わらないというのか。
神の干渉。世界の“運命”を定める絶対者。
『最も深刻なエラーを確認』
『優先処理を実行』
裂け目の中心に浮かぶのは、レオン。
――いけない!
「あんた!」
ノワールは駆け出した。
レオンの身体が不自然に沈む。まるで重力が変化したかのように、動きが鈍る。
『対象の意識を再構成』
光がレオンを包み込む。
「……ダメ……っ!」
ノワールは手を伸ばした。
神に干渉しようと、ありったけの闇の魔力を叩きつける。
しかし、光は揺らぎすらしない。
レオンの瞳が、ゆっくり閉じていく。
「起きてよ……あんた……!」
彼の体が淡く揺らぎ、ゆっくりと沈んでいく。
「いや……ダメ……ダメよ!」
掴めない。
届かない。
「レオン!!」
「レオン様!!」
ノワールの叫びに呼応するように、エリシアとヴェルゼリアの声も重なった。
血相を変えて駆け寄ってくる2人。
「なによ! どうしたのよ!?」
「これは……眠っています。でも普通の眠りじゃない――」
レオンは確かに生きている。
だが、目を覚ますことはなかった。
◆
「レオン、起きないね……」
エリシアが心配そうに呟く。
レオンが眠りについてから、すでに三時間以上。
呼吸はしているし、顔色も悪くない。だが、どれだけ揺すろうが、呼びかけようが、一切の反応を示さない。
まるで、魂ごと囚われてしまったかのように――。
ノワールは静かにレオンの寝顔を見つめながら、奥歯を噛みしめる。
――私がもっと早く、神の介入に気づいていれば。
「……あの時、あと少しでも早く動けていたら――」
後悔が胸を焼く。
裁定者を倒し、ほんの一瞬、気を緩めた。その隙を突かれたのだ。
だが、確かに違和感はあった。
裁定者が消える直前、まるで何かを報告するかのような、あの動き――。
見過ごすべきじゃなかった。
どんなに小さな異変でも、私は気づいていたはずなのに……。
「ノワール。貴方が気に病むことはありません」
ヴェルゼリアがそっとノワールを見つめる。
穏やかな声音。しかし、その瞳には確かな信頼が宿っていた。
「むしろ、誇るべきです。私たちの中で真っ先に動けたのは、ノワール、貴方だけでした」
「そ、そうよ……。私なんて……あの時、何もできなかった……」
エリシアが悔しそうに拳を握る。
ノワールは何も言わなかった。
言えなかった。
言葉で自分を誤魔化すことはできない。
大切なのは、結果だ。
レオンは、いまだに目を覚まさない。
「……それよりも、この状況をどうするか、ですね」
ヴェルゼリアが話を戻し、エリシアも「そうよね……」と頷く。
「普通に眠っているわけじゃないのは、間違いないわ。強制的な睡眠……夢の中に囚われているんだと思う」
ノワールが低く呟く。
「神の力ですから、普通の方法では目覚めないでしょう。レオン様が自力で夢を打ち破るか……あるいは――」
ヴェルゼリアの静かな声が、部屋の空気を一層重くする。
「神に対抗できる、何かを見つけない限り……」
ノワールは拳を握る。
神に対抗できる何か。そんなものが本当にあるのか?
「このままでは……レオン様は永遠に目覚めることはないでしょう」
ヴェルゼリアの黄金の瞳が揺れる。
「私たち……待つことしかできないの?」
エリシアの声がかすかに震えた。小さな手がレオンの袖を握る。
沈黙が落ちる。
ノワールはゆっくりとレオンへと視線を向けた。
穏やかな寝顔。しかし、まるで生気を感じない。
このまま時間が経てば、衰弱し――やがて命を失うかもしれない。
――そんなことは、させない。させるものか。
その時、ふとノワールの目に映るものがあった。
レオンの腰にある、封印の短剣――。
自分を封じていた、忌まわしき剣。
だが、今は彼との繋がりの証。
おそらくは――神の持ち物だったもの。
集中すると、短剣から何かを感じる。
「これは……?」
ノワールは短剣へと手を伸ばし、そっと触れる。
指先に、冷たい金属の感触が伝わる。
――何かが、流れ込んでくるような感覚。
彼との『絆』がそこにあるように感じた。
もしかして――この短剣なら。
「どうしましたか?」
ヴェルゼリアがノワールの様子を気にする。
ノワールは静かに短剣を握りしめた。
この剣は、封印の力を宿している。
封印の力ではレオンを救うことはできない。
だが、彼との絆をこの短剣を通じて感じることができる。
ならやることは……。
私は――『決まったこと』を壊すのが得意だ。
シナリオの枠を超えて、この剣の力を書き換えればいい。
レオンの助けになるように、短剣の能力を改変する……!!
シナリオの外にあるものを壊すのは初めてだが――それでも。
……やるしかない。
いや、やって見せる。彼を助けるために。
「2人とも、聞いて……。私はこれから、可能性に賭けてみる」
ノワールは振り返り、力強く宣言する。
「うまくいくかはわからない。でも、やる価値はある」
エリシアとヴェルゼリアが、真剣な表情でじっとノワールを見つめる。
「何を、するつもりよ?」
「神の力に介入する。しばらくは動けないかもしれない……あとは、お願い」
彼女の決意に、2人が驚きの表情を浮かべる。
だが、ノワールは迷わなかった。
レオンを、想い人を必ず助け出す――。
◆
けたたましいアラームで目を覚ます。
AM六時半きっかりのタイマー。いつもの朝。
「ふぁあ……」
見慣れた天井。
シンプルな6畳のフローリング。
変わり映えのない部屋。
首元で、冷たい金属の感触。
鎖を指でたぐると、そこには短剣のネックレスがあった。
……こんなの、持ってたか?
一風変わった文様が刻まれた、鈍い光を放つ短剣のペンダント。
ファッションとしては、あまり趣味がいいとは言えない。
なのに、なぜか外す気になれない。
「これは……アイツとの絆、だから……」
アイツ?
誰のことを言っている?
そもそも、このネックレス……どこで?
喉元に違和感が残る。
けれど、深く考える前に思考が霧散していく。
「それより、支度しないとな」
窓のカーテンを開けると、都会の朝。
手早く着替え、テレビをつける。
朝食は取らない。
ブラックのコーヒーを飲むだけ。
……久しぶりに飲んだ気がする。
いや、違う。昨日も飲んだはずだ。
毎日飲んでいるはずだ。
まだ寝ぼけてるのか――。
「さて、会社に行くか」
◆
「水島くん、この資料、手直しお願い」
水島くんとは……オレのことだ。
「了解です。すぐやります」
職場の上司である黒川さんにすぐに答える。
長い黒髪。
仕事ができて、完璧な女性。
……さらりとした黒髪。
妙に、惹かれる。
「さて、さっさと仕上げるか」
黒川さんはオレが仕事をこなすと、微笑んでくれる。
その顔が見たくて、オレは仕事に打ち込む。
◆
会社帰り。
街頭ビジョンのゲームCMに目が留まる。
剣と魔法のRPG。
ファンタジー世界で、魔王を倒し、勇者になる物語。
「へぇ、面白そうだな」
剣を振るう男の姿に、なぜか指が疼く。
オレは……剣技なら自信がある。
自慢じゃないが、かなり練習してきた。
……ん? おかしい。
剣道すら習ったことがないのに。練習?
「疲れてるのかもな」
◆
「瀬川絵里です! よろしくお願いします!」
オレの部署に新人が入った。
明るく、元気で、愛嬌のある女の子。
……どこかで見た気がする。
思い出せない。
女性の知り合いなんて、ほとんどいないのに。
◆
「先輩、これどうやるんですか?」
「ああ、これは……」
オレは瀬川の指導係になり、話す機会が増えた。
彼女はオレを尊敬するように、まっすぐな目で見つめる。
「すごいです! さすが先輩!」
――レ〇〇、すごくない!?
まるで、剣を使い慣れてるみたいに見えるわ!
……誰の声だ?
喉の奥に何かが引っかかる。
オレの記憶なのか――。
◆
「先輩、今度の休み、買い物に付き合ってくれませんか?」
「えっ、オレ? 女の子の趣味とかわからないぞ?」
「いいんです、先輩と行きたいんです」
休日の予定ができた。
少し、楽しみになっている自分がいた。
――だけど、本当にこんなことをしていていいのか?
何か、やらなきゃいけないことが……あったはずだ。
思い出せない。
霞がかかったように、記憶が遠ざかる。
「……ま、いっか」
違和感はある。
けれど、考える前に思考は霧のように消えていく。
何も問題はない。
ただ、オレの平凡な日常がここにあるだけだ。
◆
夜飯を買った。
カップラーメンとおにぎり2つ。
それと、ロング缶のビール。
コンビニを出たところで、誰かとぶつかる。
「……っ!」
「あっ、すみません」
オレはよろめき、思わず尻餅をついてしまった。
見上げると、女の人。
褐色の肌に、白く脱色した髪。
黒ギャル、ってやつか?
「余所見をしてしまったもので……お怪我はありませんでしたか?」
丁寧な口調。
立ち姿も、どこか優雅。
……黒ギャルって、こんな感じだったか?
「オレの方こそ、ごめん。キミは大丈夫か?」
「ええ、私の方は大丈夫ですわ」
すごく……お淑やかだ。
黒ギャルって、こんなに気品があるものなのか。
知らなかった。
さっき買ったビールの缶がへこんでいたのも、知らなかった。
前半はノワール視点です。
少し分かりにくかったでしょうか?
後半はレオンの夢の中です。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます!