10
重くなった空気を入れ替えるように、風が広場を吹き抜けていく。
「レオン、お前なら分かるだろう?」
低く響く声が、オレの名を呼んだ。
ハッとしてゼルヴァを見る。
銀色の髪を揺らしながら、鋭い黄金の瞳がじっとオレを見据えていた。
——なぜ、オレの名前を知っている!?
戦場でもないのに、心臓が跳ねるほどの緊張感が走る。
だが、オレの隣でノワールは何の動揺もなく、ただ静かに微笑んでいた。
つまり、これはノワールの仕業——か。
オレがちらりと横目で彼女を見やると、ノワールは軽く頷いた。
それが、答えなのだろう。
「我々と人間は戦う必要がない。平和に共存できる道を探すべきだ」
ゼルヴァが静かに言った。
しん……と、村の空気が凍りつく。
誰もがゼルヴァとオレのやり取りを見つめていた。
篝火がぱちぱちと爆ぜる音が、やけに大きく聞こえる。
夜風が草木を揺らし、冷たい空気が肌を撫でた。
オレは、ゼルヴァの黄金の瞳をじっと見つめた。
真摯な目だ。
そこに、嘘はないと思う。
本気で和平を望んでいる。
「……話を聞かせてくれ」
オレは静かに息を吐き、そう答えた。
——こうして、オレと魔王軍の和平交渉が始まった。
◆
村の中央広場。
篝火が赤くゆらめき、暗闇を照らしていた。
怯えた村人たちが、広場の隅に身を寄せ合いながら息を潜めている。
魔王軍の第四軍師——ゼルヴァが、悠然と腰を下ろした。
「さて、レオン……お前がこの村の代表として話を聞くのか?」
静まり返った広場に、低く響く声。
その余裕ある口調とは裏腹に、ゼルヴァの瞳は鋭く、すべてを見通すかのようだった。
長老がオレを見て、静かに頷く。
――うん、そうだな。
この場にいる誰よりも、オレが魔族について知っているのは間違いない。
それに、相手もオレを指名してきたのだ。
ここで断ったら話が拗れそうだ。
「……代表ってわけじゃないが、オレが一番事情を分かってると思う」
オレは短く答えた。
魔族と直に交渉できる。こんなことは通常起こり得ない。
またとないチャンスだ。
横には、この事態を作り出した張本人であるノワールがいる。
さすがに空気を読んで黙っているが、その顔は愉悦を隠しきれていない。
彼女は……この状況を楽しんでいる!
ノワールの助けが期待できない以上、この場はオレの行動にかかっている。
ゼルヴァはオレの答えを聞き、微かに笑う。
「いいだろう。我々は無用な争いを避けたい。だが、人間側が受け入れないのであれば、従来通り戦争を続けるしかない」
「ふざけるな!!!」
激昂した声が、夜の静寂を裂いた。
ユリウスだ。
彼の拳が震え、聖剣を握る手に力がこもる。
だが、その剣は……もう魔族には通用しない。
そんなことは、彼自身が一番よく分かっているはずだが……。
それでも——手放すことはできないのだろう。
彼は、自分の無力さにも腹を立てているのかもしれない。
「魔族は人間の敵だ! 私は勇者として、お前たちを滅ぼすためにここにいるんだ!!」
「勇者様……」
エリシアがユリウスに声を掛けるが、彼女の言葉には力がこもっていない。
最近の彼女には珍しい、諦めたような、憐れむような声色だった。
だが、ユリウスの瞳には怒りと使命感が宿っていた。
いや——そう見せかけているのかもしれない。
そうしないと、彼の精神は折れてしまうだろう。
ゼルヴァは、そんなユリウスをじっと見つめ、ふと問いかけた。
「勇者ユリウス……お前は何者だ?」
「……なんだと?」
ユリウスの眉がぴくりと動く。
「人間の英雄か、それとも——神の駒か?」
ひときわ強い風が吹き、篝火の炎が大きく揺れる。
それにつられてかユリウスの表情が、一瞬だけ強張った。
「神の駒だと……?」
——こいつ、核心を突きすぎていないか?
もしかして、ユリウスが『誰かの意志』で動かされている可能性を……。
ゼルヴァ——いや、魔族サイドはすでに気づいているのか?
「お前に意思はあるのか?」
ゼルヴァの問いに、ユリウスは答えなかった。
苦々しい顔で剣を握りしめ、そのままじっとオレを見据える。
揺らぐ明かりに照らされた彼の表情は鋭い。
「レオン……お前は何を考えている?」
静まり返る広場――。
「オレは——村を……世界を守るための選択をする」
ユリウスが目を見開いた。
「なんだと!? それじゃあ、魔族と組むというのか!?」
彼の声には、困惑と怒りが入り混じっていた。
まるで、理解できないものを前にしたかのように。
一方、ゼルヴァは冷静だった。
オレを試すような目で、じっと観察している。
「必要ならそうするさ」
オレは肩をすくめる。
「もっとも、この状況じゃ、選択肢はなさそうだけどな」
ユリウスの拳が震えている。
だが、言い返してこなかった。
それが、何よりの答え。
彼もわかっているのだ。納得できないだけで……。
ゼルヴァが小さく笑う。
「ふっ……レオン。お前は、我が見込んだ通りの男のようだ」
魔族と人間が手を組む。
それは……この世界では、絶対にありえないこと。
村中の視線がオレに集中するのが、肌でわかる。
皆が息をのんでいる。
——だが、そんな静寂を破るように、ゼルヴァが指を鳴らした。
「では、次の一手を打たせてもらおう」
その瞬間——冷たい風が吹き抜けた。
いや、違う。
これは風じゃない。……魔力だ。
強大な魔力を持った『何か』が近づいている。
「……!」
体が硬直する。
ノワールも、警戒するように視線を上げた。
「へえ……楽しめそうな奴が来たみたいだね」
「ノワール。お前とどっちが強い?」
オレの問いに、ノワールは小さく息をつく。
「さあ? どっちかしらね」
彼女らしい、曖昧な答え。
だが、その声には珍しく緊張が滲んでいた。
つまり……悪魔と呼ばれたノワールと、同等レベルの実力者。
この世界に、そんな存在が他にもいるという事実に驚きを隠せない。
圧倒的な"力"が近づいてくる。
まるで、空気そのものが重くなったような錯覚を覚える。
まるで、見えない鎖が村全体を締めつけるかのよう——。
村の入り口に"それ"は現れた。
純白のドレスを纏い、夜闇に映える金色の瞳。
長く流れる白銀の髪が、風にはためいている。
月の光を受け、幻想的な輝きを放つその姿は静謐な美しさを備えている。
まるで、この世のものではないかのような。
彼女は、ゆっくりと微笑んだ。
「皆さん、ごきげんよう」
その声音は甘く、そして冷ややかだった。
心臓を掴まれるような感覚が広場全体に広がる。
「……」
誰も、言葉を発せない。
「我らが魔王、ヴェルゼリア様だ……」
ゼルヴァが立ち上がり、一歩下がる。
「ここからは、ヴェルゼリア様に話を進めていただく」
「どうも、魔王を努めているヴェルゼリアです。皆さん、どうぞ気を楽にしてください」
ヴェルゼリアは、オレの方へとゆっくりと歩み寄る。
その一歩ごとに、村人たちは息を詰まらせ、ユリウスは剣の柄を強く握った。
「レオン様、ご無沙汰しております」
まるで貴族の令嬢が舞踏会で挨拶を交わすように、優雅に頭を下げる。
「えっ……?」
村人たちは驚きの声を上げた。
「な、なんでレオンが魔王と知り合いなんだ……!?」
ユリウスの視線も鋭さを増す。
「説明しろ、レオン!!」
「……正確には『知り合い』じゃない」
オレはヴェルゼリアをじっと見つめた。
初対面の奴がオレの名を知っていても、2回目となると驚かないが……。
ヴェルゼリアの名前には驚きを隠せなかった。
――この世の理をここまでぶっ壊したか……ノワール。
この魔王ヴェルゼリアは、本来ならゲームのストーリーでも『絶対に登場しない』存在。
裏設定にしかその名を残していない、歴代最強の魔王……ヴェルゼリア。
厄災そのものと言われた魔王が……圧倒的な威圧感を放ち、目の前にいる。
ヴェルゼリアは微笑を浮かべたまま、言う。
「レオン様、あなたにお願いがあります」
「お願い?」
「この世界を、本当の意味で"自由"にしていただきたいのです」
オレは息を呑んだ。
「自由って……?」
ヴェルゼリアの金色の瞳が容赦なくオレを射抜く。
「あなたはもう気づいているはずです。この世界は"神"によって作られたプログラム。勇者はそのシナリオをなぞるための"駒"」
「!!!」
村人たちが騒然とする。
ユリウスも顔を歪め、オレを睨んだ。
「おい……!! それ以上は――」
「大丈夫です」
「だが……」
オレはヴェルゼリアの言葉に確信を抱き始めていた。
――こいつも……オレやノワールと同じく、こっち側ってわけか。
この世界で暮らす普通の奴らなら『プログラム』なんて言葉は絶対に出てこない。
そんな単語を知っているはずがないのだ。
ヴェルゼリアはオレに近寄り、そっと手を取ってくる。
彼女の体温が……重ねられた手からじんわりと伝わってきた。
途端、隣りにいるノワールから急に圧力を感じる。
だが……ヴェルゼリアはその圧力を感じないのか、余裕の態度を崩さない。
そしてオレにだけ聞こえるように、吐息の様な声を耳元で囁いてきた。
「レオン様、あなたは"この世界の運命を変える力"を持っています」
――今なんて言った?
彼女の瞳が、オレを映して揺れている。
熱のこもった真剣な眼差し。
純真な少女にしか見えないこの魔王は、一体何を知っている?
世界の運命を変える力……ノワールだけじゃなく、オレにもあるというのか?
「どうか……私たちに協力していただけませんか?」
——その問いは、この世界の"真実"への扉を開く鍵となるのかもしれない。