第九十一話 再登校、初日
「…よし、まぁこんなもんだろ」
まだまだ蒸し暑さも残る九月の上旬。
季節の変わり目としては気温の変化が全く感じられないことに辟易としてきそうなものだったが……この時期に限ってはその点について気に留める余裕はない。
今となっては懐かしくすら思える制服を身に纏いながら鏡の前にて着こなしのチェックを行う彰人にとっても、それは同様………いや、違うかもしれない。
今日は非常に長く思えた夏休みを終えて久しぶりの学校への登校日であり、多くの生徒にとっては憂鬱な気分にならざるを得ない代物のはずだ。
…はずなのだが、この彰人からしてみればその原則も当てはまらない。
何故ならば彼はこの再びやってきた登校日を憂鬱に思ってはおらず、どちらかと言えば楽しみにしていたくらいなのだ。
これはひとえに、彰人が勉強することを苦にも思っていない性格をしているからというのが影響しているのだろう。
…彼の場合、他の生徒からすれば忌避したくなるような課題の数々であっても己の学力向上につながるのなら取り組むのも苦ではないどころか、むしろ嬉々としてやるタイプである。
彰人の数少ない友人に言わせれば、『そんなものを楽しんでやれるのは彰人が優等生だからだ!』とツッコミを入れられそうなものだが……そう言われたところで、もうこれは癖のようなものなのだから変えようもないし、変えるつもりもない。
「鞄は持ったし……忘れたものも無いだろ。もしあったら…まぁ、その時に考えよう」
実に一か月と少しぶりに向かう学校であるため、何か持っていくもので見落とした物がないだろうかと若干不安にもなるが……今そこを心配したところでどうしようもない。
もう何度か確認をした限りでは鞄に入れ忘れたものなど無かったし、そもそも今日は夏休み明け初日ということもあって始業式の予定があるくらいだ。
大量の教科書やノートの類を持ち運んでいく必要もないので、いちいち不安ばかり抱えていないでとっとと家を出てしまうとしよう。
「じゃ、行ってくるか。…行ってきます」
久しく思える制服を身に纏いながら自宅を出る直前、彰人はなんとはなしに自らが外出することを知らせる挨拶を家の中へと口にしてみた。
…当然、返ってくる言葉など無い。
彼以外の家族は連日仕事に忙しくしており、普段から自宅にいることの方が珍しいのだからそれは当たり前だ。
何も変わらない。いつも通りの日常。
ただ…そんな普遍的な日常をふと振り返って見た彰人の心に、言いようもない……何かを訴えかけてくるような痛みを覚えた気がした。
(…いいや、早く行っちまおう)
だが、そうして浮上しかけた自身の心を無理やりに打ち払うと、彰人は足早に自宅を離れて学校へと向かう。
まるで、自覚しかけた己の本音を考えたくはないとでもいうように……それを自覚してはいけないとでも思っているかのように。
この数か月で人と触れる機会が格段に増えてしまったがゆえに、それと比例して増してしまった願いは…もう無視しきれないほどに膨れ上がり始めている。
…その事実に彼が気が付けるかどうかは、まだ先も分からない不確定な未来だ。
◆
「…暑いな。いや、まだ残暑があるから当然なんだろうけど…にしてもこの気温はちょっと異常だろ…」
懐かしさすらあった通学路を通ってきた彰人は多くの生徒で溢れかえっている昇降口付近にて靴を履き替えていたが、そこで思わずこぼれてしまう不満を口にしていた。
…もう九月に入ったのだからそろそろ外の気温も減衰してきて良いものだと思ってしまうが、そこは空の気まぐれというやつか。
夏休み中にも散々味わった蒸し暑さがまだまだ解消されることもないことを予想させてくる天候に、言っても意味がないことは理解していても愚痴がこぼれてしまう。
そんなテンションが否応にも下がってしまうような気候の下で、自分の属しているクラスに移動しようと足を進めかけたところで……唐突に彰人めがけて声を掛けてくる者がいた。
「あっ! 彰人じゃん! なんか久しぶりだねー、元気にやってた?」
「あ? …あぁ、優奈か。別に久しぶりってほど会ってない日数もあったわけではないと思うけど…まぁぼちぼちだよ」
「そっかそっか! 体調を崩したりしてないなら何よりだね!」
茶髪で結ったポニーテールを揺らしながら駆け寄ってきたのは、彰人の友人の一人でもある優奈だったようだ。
相変わらず活発的な雰囲気をまき散らしながら周囲にもよく響く声を震わせているようだったが…朝一番からその高いテンションを維持出来ているのは最早流石の一言である。
彰人は既にこの気候に辟易としかけているというのに、あちらはそのような空気など欠片も感じさせずにこちらへと絡んできているのだ。
…その体力の源がどこから湧いてきていると言うのか、真面目に気になって仕方がない。
「…ん? そういえば優奈。お前、今日は航生と一緒じゃないのか? 今日はあいつの部活も朝練はないだろうし、てっきりそうしてるもんだと思ってたが」
しかし、そこで勢いよく呼びかけてきた優奈の姿にも彰人はわずかな違和感を覚えた。
それは彰人の親友でもあり、他ならぬ優奈の彼氏でもある航生の存在だ。
普段なら二人ペアで揃っている姿が自然だと言いきれてしまうほどに一緒の時間を共有しているカップルが、今日この日に限っては優奈一人の姿しか確認出来ないのでわずかな違和感を感じたのだ。
なのでその辺りを素直な疑問として尋ねてみたのだが……それに対して返ってくるのは、何とも微妙な表情を浮かべながら気まずそうな雰囲気を醸し出した優奈の回答だった。
「…あー、それね。いや、私も最初は航生と一緒に来ようと思ったんだよ? ただ…何回か連絡はしてみたんだけど、一向に出なくってね……」
「……マジか、あいつ。寝過ごしてるのかよ…」
「…多分、そうだと思う」
…何と、この場にいないもう一人の友人は思いっきり寝過ごしているらしい。
まさかの方向から友のだらしなさを知らされることになった彰人は、呆れやら情けないやらで顔に手を当てながら溜め息をついてしまったが……それも致し方ない。
確かに夏休み明けということもあって多くの生徒が休みボケをすることもあるこの日だが、そうだとしても…初日から思い切り寝坊をかましてくるなどあまりに気が緩みすぎである。
しかも、それが己の友人の姿ともなれば尚更その事実を痛感させられる。
「あ、でも航生のお母さんに聞いたら『さっき起きたからすぐに向かわせる。こんな馬鹿息子でごめんね』って言われたから、ギリギリ遅刻には間に合うんじゃない?」
「……あいつの母親も大変だよな。到着したらきっちりこっちでも言い聞かせておくか…」
優奈から聞いた限りだと遅刻だけは何とか免れられそうな形だが、それはそれとして友人の緩み切った根性は一度叩き直しておいた方が良さそうだ。
でなければ、本人を含めた周囲にまで被害が拡大しかねないのだから当然の処置である。
むしろここで言い聞かせるのは良いタイミングになるだろう。
全ては本人の行動が招いた自業自得なのだから、言い訳を聞く余地もない。
「加減はしておいてよ? あれでも私の大事な彼氏なんだからね」
「そうやって甘やかすと碌なことにならないぞ……あいつも自分の行動に責任を持たせないといずれ駄目になるだろうし………」
「ああ、加減ってそっちじゃなくてね……もう二度と寝坊なんて出来ないように、身に染みるまで教え込んであげてねってこと。……ふふふ、せっかく二人で登校できるチャンスだったのに、それを無碍にした罰だよ…」
「…あっ、そっちでしたか……」
…ただ、彰人以上に苛烈な意見を申し出てくる人間はここには一人いた。
どうやら先ほどまでは冷静さを保っているように見せかけていただけだったようで、その実……内心は寝坊をかました恋人に怒り心頭だったらしい。
気のせいか、背後にメラメラと燃え上がるような炎すら幻視させてくる優奈の姿は……張本人には絶対に聞かせられないが、何故か般若の面が浮かび上がっているようにすら見えた。
…それと同時に、やはり自分は女子を怒らせることだけはしないように細心の注意を払おうと彰人は心の中で固く決意したそうな。
第三章が開始!
物語のターニングポイントにもなるところですので、スピード感と甘さを大事に駆け抜けていきます!




