第九十話 寂しさを燻らせて
「…ん? もしかしたら鳴海さんが来たんじゃないか?」
「え、本当? まだお母さんから連絡は来てないはずなんだけど……あっ、確かにそうみたいだね」
朝食も食べ終えてのんびりとした時間を満喫していた彰人達だったが、それも時間が経ってしまえば終わりが近づく。
ゆったりと落ち着くような時間を二人で過ごしていれば……ふと、家の玄関先にて誰かがやってきたような音と気配を感じ取れたからだ。
そしてそれは、朱音も同じだったらしい。
彼女も彼女で、彰人の言葉には最初こそ懐疑的に返事を返していたものの……聞こえてきた音からその言葉に同意の意思を見せていた。
そうこうしていると家のインターホンが鳴らされたので、彰人はそこにいるであろう人物の姿を思いながら玄関先へと向かい…一気に開け放つと、予想通り。
数日前に言葉を交わしていた、彼女の母親が笑みを浮かべながら立っていた。
「…こんにちは、鳴海さん。またかなり早かったですね?」
「朝早くからごめんなさいね~、彰人さん。予定よりも早く帰れたから朱音を迎えに行こうと思って、こっちに来ちゃったわ!」
そこにいたのは数日ぶりに会ったとは思えないほどに快活さを滲ませた声色で話しかけ、全身から溢れんばかりの母性を感じさせてくる鳴海だった。
頬に手を添えながらほんわかとした空気を滲ませている彼女は相変わらず豊満な身体を揺らしながら彰人に対面していたが…こちらが特にそれを意識することはない。
…というか、友人の母親をそのような目で見ることなどありえないと彼は考えているために、そういった方向に思考が切り替わることも無いだけだ。
「いえ、それは全然いいんですけど…とりあえずうちに上がっていきますか? 朱音もいますし」
「あ、すぐに帰るつもりだから大丈夫よ。あくまで朱音を迎えに来ただけだから…気を遣わなくてもいいわ」
「…分かりました。なら朱音も呼んできますね」
「ええ。お願いしちゃうわね!」
ここに鳴海がやってきた目的としてはどうやら本当に朱音を迎えにくることだけだったようで、念のためにと自宅に招き入れるように誘ってみたのだが断られてしまった。
…そういうことならばいいだろう。
向こうがすぐに帰ると言っているのだから、何度も無理に誘いを持ち掛ける必要はない。
そう考えて彰人は、未だリビングに留まっているはずの朱音を呼びにリビングへと足を進めていった。
「朱音、鳴海さんが迎えに来たからそろそろ帰りだってさ。準備だけしてもらってもいいか?」
「あ、やっぱりお母さんだったんだね。分かったよ、じゃあ荷物をまとめ終わったら向かうね」
「ああ。先に玄関で待ってるからさ。慌てなくていいからな」
ソファに腰掛けながらどこともつかない方向を眺めていた朱音に母親がやってきたことを伝えれば、彼女もこの展開は予想できていたのか大して驚きもせずに言葉を返してきた。
事前に彰人の方も、鳴海が朱音を迎えに来ることは知らされていたのでその影響もあったのかもしれないが。
何にしても、こうなればハプニングも所々にあったものの思いの外楽しめていた朱音との宿泊も一区切りだ。
これからは彰人も朱音をもてなす側ではなく、見送る側に回ることとなる。
…そこに対して何も思わないと言ってしまえば嘘になる。
どれだけ表面を取り繕ったとしても、内心で自らが考えたことに関しては誤魔化しようもなく彰人本人が誰よりも理解していることなのだから。
ただ…それと同時に、この感情は口にしていいものでもないことは彰人であってもよく理解している。
もし言葉にしてしまえば…きっと、心優しい朱音と鳴海は彰人の心情を慮って気を遣ってくれるだろう。
もしかすれば、こちらの願いだって聞き入れてくれるかもしれない。
…それだけは、彰人がやってはいけないことだから。
これはただ単に彼一人の我儘でしかなく、あっちの家族の事情や状況すらも何一つとして考慮していない愚行の産物だ。
ゆえに……この気持ちはひたすらに押し込める。
誰にも悟られることがないように……他の誰にも、自分のせいで迷惑をかけてしまわないように。
ひたすらにその一心だけで、彰人は表出してしまいかねない己の本心を押し殺す。
「…鳴海さん、朱音ももう少しで来るみたいなのであと少しだけ待っててもらっても良いですか?」
「あら、了解したわ! …それにしても、昨日今日と本当にいきなりごめんなさいね~? これ、お礼って言うほどでもないんだけど…良かったら後で食べて! 向こうのお土産なの!」
「え、いいんですか? そんな大したこともしてないのに……」
「大したことがないなんて、それこそそんなことないわよ! 一日とはいっても色々大変だったでしょうから、これはせめてものお詫び。ちゃんとしたお礼はまた後日するから、それも楽しみにしてて!」
「……ありがとうございます。そういうことならありがたく頂きます」
玄関先にて待たせている鳴海の元へと舞い戻ってきた彰人だったが、現在進行形で荷物の支度を整えている最中だと伝えれば微笑を浮かべながら返事をされる。
そして……その言葉に続けるように、片手に下げていた鞄の中から小さな菓子折りのようなものを手渡されてしまった。
鳴海曰く、朱音の面倒を見てくれたことへのお返しとのことだが……そんな大層なものを渡されるとは思ってもいなかった。
彰人からしてみれば朱音を泊めても良いと判断したのは自分自身の判断ゆえであり、わざわざ礼をされるようなことではないと認識していたからだ。
…だが、向こうからすればそういうわけにもいかない。
一日とはいえ娘を預かってもらった以上、そこには何らかの形で返礼するのが礼儀というものゆえに。
彰人自身が大したことはしていないと思っていたのだとしても…相手側からすればまた捉え方は変わってくるものなのだから。
それを理解しているからこそ、彰人も大人しく返礼の品は受け取っておいた。
…なお、この品はあくまで繋ぎのものだったようで後日改めてしっかりとした礼を渡されるとのことだが……それに関しては一旦忘れておこう。
「それとね、預かってもらった直後でなんだけれど……彰人さんも、またいつでもうちに遊びに来ていいからね! 私たちはどんな時でも歓迎するから!」
「……えぇ、その時はまた寄らせてもらいます」
…きっとその言葉は、深い意図なんて無いただの世間話として出してきたものだったのだろう。
実際に鳴海は特に何かを考えて発言したというわけではなさそうだし、何かを気遣って言ったというわけではなさそうだ。
だが……だからこそ。
その言葉は彰人の胸に堆積していた本人も気づかない感情へと深く刺さったように思え、返答にも一瞬の空白が生まれてしまった。
「彰人君、お待たせ。お母さんも……準備できたよ」
「朱音…もう来たのか。忘れ物とかしてないよな?」
「朱音! …何だかまた、随分嬉しそうな顔をしてるわねぇ……彰人さんにご迷惑を掛けたりしてないわよね?」
「確認はしたから忘れてるものは無いと思うし、大丈夫だと思うよ。…お母さん、今はそのことはいいからまた後でね」
「えっ? 別にちょっとくらい教えてくれても……」
「いいから。…じゃあ彰人君、昨日から本当にありがとう。お友達のお家に泊まって私も楽しかったし…今度会うのは学校だと思うけど、またね」
「…ああ。また学校でな。くれぐれも寝坊したりするなよ」
「………善処はする、かな?」
しかし、そんなほんのわずかな間隙に浮かび上がりかけた思考の隙間も朱音の登場によって正気へと戻った。
いつの間にか荷物をまとめ終えていたらしい彼女の手によってあれよあれよという間に話は進んでいき、気づけばもう帰るための流れは組み上げられていた。
「もう……絶対後で詳しいことは教えてもらうんだからね。それじゃあ彰人さん、今日は本当にありがとうございました。また今度、しっかり話しましょうね!」
「…それは、お手柔らかにという事で。帰りも気を付けてくださいね」
「ええ! …じゃあ朱音。荷物持ってあげるから、少しこっちに渡してちょうだい?」
「んー……なら、お母さんこれ持ってー…」
「…さっきまで普通にしてたのに、途端に眠そうにしちゃったわね。はいはい。ならその鞄を持つから───」
…と、そうこうしていると彰人も意識していない間に鳴海と朱音はあっという間にこの家から離れていった。
玄関の扉が閉まる直前に見えた光景には…どこまでも仲の良さそうな親子の会話が垣間見えたことから、不思議と彰人も苦笑がこぼれてしまう。
「……さて、俺も部屋に戻るかな」
もはや彼以外に誰の姿もなくなってしまった家の中で、誰に聞かれるわけでも無い言葉を呟く。
つい数秒前までは、久方ぶりに自分以外の誰かがいたという状況を味わっていたからか…いつもと同じ状況に戻っただけの物静かな自宅の雰囲気が、やけに彰人の耳には静かなものとして響いてきている。
小さな足音を立てながらリビングへと戻り、ソファへと腰掛け直して携帯を眺める。
…それでも、静寂に満ちた空間では彰人が立てる物音ひとつすらも無駄に鋭敏な聴覚を発揮して知覚してしまい、何だか集中しきれない。
(…静かなもんだな。普段はこんなこと思わないっていうのに…)
家の様子は何一つとして変化していない。それどころかいつも通りに戻っただけのことだ。
先ほどまでリビングにてくつろいでいた朱音も普段通りの生活へと戻るために自宅へと帰っていったのだし、彼女がここからいなくなるのも彰人のいつもの私生活へと戻っただけ。
…いつもと同じことに戻らないのは、ただ一つ彰人の心持ちだけなのだ。
(それだけ朱音のいた時間を、楽しいものだと思ってたってことか……これもその反動だろうな)
この違和感すら覚える彰人の心情の揺らぎはきっと、いつもの日常と比較して朱音がいたわずかな時間を楽しいものだと認識してしまっていたからあだ。
自分が身を置いていた状況が幸福なものであればあるほど、そこから身を引き剥がした時に味わう空虚感は何倍も強いものとなる。
彰人が今感じている無気力さもおそらくはその片鱗だ。
彼女と過ごした一日を、無意識の内に心の奥底で楽しかったと思っていたからこそ…こうして今、どうもやりきれない感覚に襲われてしまっている。
(……何考えてるんだかな、俺は。今更そんなことを思ったところで遅すぎるっての)
…胸の内にぽっかりと穴でも開いたかのような、空虚な感情。
そんな中で浮かび上がってきた、あまりにも身勝手な思いに彰人は……自分で自分の甘さに嫌気が差してきそうだった。
再び一人の時間へと戻され、自分以外の誰もいない孤独の時間を過ごすことになった彰人。
もはや慣れたはずの……慣れようとしたはずのこの環境で、今更こんなことを思ってしまうのはきっと、己の性格が甘すぎるから。
そう結論付けた彰人の心には……それでも。
隠し切れない本質の願いを。
誰かが傍に居てほしいという……どうあっても誤魔化すことが出来ない、自分勝手な我儘でしかないと思っている寂しさを、胸の奥底にて燻らせていた。
…その願いが誰かへと届くのは、そう遠い未来でもないことを思わせながら。
…はい、これにて第二章は完結となります!
何だかしんみりとした場面で区切りがついてしまったので、不穏な空気を滲ませてもいますが……長かったイベント盛りだくさんの夏休みもここで一旦の幕を下ろします。
そして次話から始まる第三章。
あまり深いことは言えませんが、ここから物語が大きく動き始めるので期待していてください!




