第四話 返礼と心持ち
朝から航生との雑談を続け、何やかんやとありつつも落ち着く空気の中で過ごしていた彰人達だったが、そんなのんびりとした空気感もある時を境にピタリと鳴りを潜めることになる。
それまで周囲で盛り上がっていたクラスメイト達もまるで示し合わせたかのようにある一点を見つめており、その反応には一つとして違いは見られない。
では、一体それだけの人数が何に注目しているかというと……それは他でもない彼女がやってきたからだ。
「はふわぁ……今日は一段と眠いなぁ…」
扉を潜りながら大きなあくびを出し、その瞼は朝一番だとは思えないほどにゆらゆらと揺れ動いており一目で眠気がマックスなのだろうということが伝わってくる。
その完璧とすら言えるほどに整った容姿とは裏腹に、何とも気の抜けるような雰囲気をまき散らしながら登校してきたのは……まぁお察しの通り朱音だった。
「…間宮さん、おはよう! 今日はちょっと遅かったね。ずっと寝てたの?」
「…んむぅ? あ、おはよー。別にそういうわけでも無いんだけど……布団が私を離してくれなかったからさ」
「ま、間宮! 今日なんだけど実は放課後に勉強会しないかって話してるんだ。よかったらお前も参加しないか!」
「ん、そうだね…じゃあ起きれたら参加させてもらおうかな。あんまり期待はしないでねー」
「お、おう! なら準備だけしておくわ!」
するとその途端、クラス内の雰囲気は火蓋を切ったように活気づいたものへと変化していき、今さっき入ってきたばかりの朱音めがけて声を掛けに行く者が大半だった。
…まぁその気持ちは分からないでもない。
何せ朱音という少女はただでさえ美少女でありそれだけでも彼女との繋がりを持ちたいと思う者は多いだろうに、そこに対して日常のほとんどの時間を睡眠という行為に費やしている彼女とは接する機会がほとんど皆無と言い切ってしまっても良いくらいに少ない。
それこそ狙って話そうとするならば、朱音が起き上がってきたタイミングに偶然鉢合わせるか……今のように、彼女が教室へとやってきた瞬間で接触するしかないというわけだ。
「間宮さんか……相変わらず人気だよなぁ。最初は少し変わってるとも思ったけど、あっという間に受け入れられてさらにモテまくってるみたいだしよ」
「そうだな……というか、いくら関わりが持ちづらいからって教室に入ってきた直後くらいゆっくりさせてやればいいとも思うけどな」
「そりゃ言ったところで無駄ってやつだ。あれだけの美人さともなれば周りが放っておかないってことの証明でもあるだろうしな」
「…そんなものなのかね」
そしてそんな見慣れた光景が繰り広げられている教室の隅では航生がどこか呆れたようにやってきた朱音の姿とそれに群がる同級生たちを眺めており、彰人もその言葉に関しては同意見だった。
確かに人気者でもある彼女と少しでも話せる時間を確保しておきたいというクラスメイトの心理も理解できないものではない。むしろそれは抱いて当然の考えなのだから。
…だが、それと同時に朱音は今教室に辿り着いたばかりなのだからもう少しそっとしておいてやってもいいのではないだろうかとも思ってしまう。
言ったところで意味がないことだと自覚していたとしても、余計なお世話でしかないとしてもそう考えずにはいられなかった。
そう思って何とも言えない沈黙にしばしの間、場が支配されていたのだが……どうやら隣で会話を交わしていた航生はその静寂を別の意味で捉えてきたらしい。
「…お、何だ。もしかして彰人、間宮さんに気があるってのか!」
「……何でそうなる。ただ大変そうだなって言っただけだろうが」
…見当違いな方向へ話題の舵を切ってきた友の一言に、先ほどまでの空気は何だったのかと言ってやりたくなる。
そもそも彰人は朝っぱらから多くの人に囲まれて身動きすらままならなくなっている朱音がきつそうだな、なんてことを思っていたくらいのものでそっち方面での思考は一切していなかったのだ。
だというのに、ここまで来て恋愛方面に全ての要素を結び付けてくる航生にはもはや恐れ入るという心境にすらなってきた。
「いやだってよ。お前さっきからずっと間宮さんの方をじっと見てたし……何となく視線があの人のことを案じてる感じだったからてっきりそういう感じなのかと」
「…そんな目向けてたか?」
「そりゃ俺から見ても分かるくらいにな。…違ったのか?」
しかし航生の言い分としてはどうやら彰人は自分でも自覚していない間に朱音の方へと視線を向けていたようで、その点を突かれた時には思わず心臓がドキリとしてしまった。
…航生の言っていることも間違いではない。それは彰人も否定しきれないことだからだ。
何せ彰人と朱音はつい昨日に偶然の巡り合わせだったとはいえ、この教室でほんのわずかな時間ではあったが会話を交わして多少なりとも彼女の人となりを知ってしまったのだから。
いつでもどこでも眠そうにしながらぽやぽやとしたオーラを纏って返事を返してくる朱音の様子にはどこか目を離せなくなるような独特の雰囲気があったし、出会いが意図していないものだったとしてもああして縁が生まれてしまった以上はどうしても関心を寄せるところも出てくる。
それが恋愛感情かどうかと問われれば、それとは違うと断言はできるが。
「まっ、お前が間宮さん狙いだって言うなら俺は応援するだけのことだ。…正直競争率はとんでもないとは思うけど、彰人ならワンチャンも無いとは言い切れないしな!」
「だからそんなんじゃ無いってのに……ったく」
こんな時でさえ普段と全く変わらない調子で親指を立ててくる友には何を言っても無駄だと思いそれ以上言葉を返すことはなかったが、それよりも今の彰人の意識は瞼を重そうにしながらもクラスメイトへの対処をこなしている彼女に向けられていた。
(…本当、あんなに眠そうなのによくやるよな。ただでさえ自分のことで手一杯だろうに)
そしてそんな光景を眺めながら思うのはやはり朱音の身のことだ。
昨日微かにも接したからこそ分かったことだが、彼女は決して体力に満ち溢れているわけではない。
むしろ体力やスタミナという点では一般的なそれよりも相当に低いものだろうことはすぐに分かったし、それは普段の彼女の過ごし方を見ていればおのずと知れていることのはずだ。
なのに今の朱音は覇気のない声ではあるものの律儀に己を囲んでいる同級生と語らっており、内心でどのようなことを思っているかなど微塵も感じ取らせていない。
その点に関しては思うところもなくはないが……まぁ自分にはもう関係のないことだ。
昨日の一件だってあれはあくまで見過ごせば後味が悪かったから関わっただけのことであり、今となっては無理に朱音との接点を持とうだなんてことは考えてもいない。
もしあの場で彼女が倒れでもしたら話は別かもしれないが、そうなってはいないのだからここで距離を詰める理由もない。
ゆえに先日の語らいがおかしなことだったというだけのことであって、こうしていつも通りの日常に戻れば彰人と朱音に関わりを持つだけの理由など絶無だ。
(それにしても皆飽きないよな……そろそろ解放してやればいいものを……って、うん? 何か今、目が…)
…と、そこまで考えた辺りでふと朱音との視線が交わったような気がした。
ほんの一瞬のことだったので単なる彰人の勘違いだったのかもしれないが、目が合った瞬間に向こうの瞳がわずかに見開かれたような気もしたので……きっとそれは気のせいではなかったのだろう。
その証拠に、次の瞬間には朱音の方でも少しの動きがあった。
「…皆ごめんねー。私もちょっとやりたいことがあるから…うん。また今度ね」
苦笑しながら謝るような挙動を見せる朱音。
少し距離が離れていたので彰人達の位置では正確な会話の内容を聞き取ることは出来なかったが、それでもあちらで朱音の方から解散するように言ったことだけは何となくの勘で分かった。
そして、彼女の一言を皮切りに徐々に人が散り始めたタイミングで朱音は自席へと歩いていく……かと思いきや、その進路は予想外の方向へと進んでいく。
「…やっと解放されたよ。黒峰君…いや、呼び辛いから彰人君でいっか。昨日は本当にありがとうね」
「……はい?」
迷うことなく朱音が進んだ先……教室の比較的端に近い場所に位置している一角ではちょうど彰人達が談笑を繰り広げていたスペースがあった。
彼女はその場所へと歩みを進め……何故だか唐突に昨日で接点など潰えたはずの彰人へと躊躇いもなく語り掛けてきた。
「あ、そうそう。忘れるところだった。えぇと……はい、これ。私が作ってきたクッキーなんだけど、よかったら昨日のお礼ってことで受け取ってよ。変な物とかは入ってないから安心してね」
「……あ、ありがとう」
「うん、それじゃあこれ渡したかっただけだから。またね」
手渡された物はリボンでラッピングがされた袋に詰められたクッキーの束であり、その出来栄えなんかはパッと見た感じでも相当に完成度の高いものなのだろうことが予想できる。
触ってみれば少し温かさを感じることから彼女の手作りという言葉も嘘ではないだろうことが実できたが……あいにく、今の彰人にそんなことを考えている余裕はなかった。
しかし朱音の方はそれだけを言うと用件が済んだので満足したのか笑みを浮かべて今度こそ自分の席へと戻っていき、何もおかしなことなど無かったかのように荷物をまとめ始めていた。
…が、張本人がそんな様子でも周りがそうとは限らないのが世の常というものだ。
「…さて、ちょっと俺はトイレにでも行ってく……」
「まあまあ、ちょっと待てよ彰人。…詳しい話を聞こうじゃねぇか」
嫌な予感がした直後、ここに残っていれば面倒な事態になるということを予感した彰人はすぐに教室を離れようとさりげなく席を立ちあがったがそれを肩を思いきり掴んで止めてくる者がそこにはいた。
…とてつもなく良い笑みを顔に貼り付け、そんな表情とは裏腹に自身に置かれている手にはとんでもない力が込められていることからこの後に告げられるだろう言葉にも良い予感などするわけが無かった。
気持ちのいい朝一番。天気は快晴。
そんな心地よい空気の中で内心冷や汗が止まらない彰人の心を代弁するかのように、彼らの教室は次の瞬間には騒然とした空気が広がっていくのだった。
クラス内に爆弾を落としていくが、その自覚は無いという一番厄介な対応。
…当人に悪意が無いのがせめてもの救いと思っておきたい。