第三十九話 聞かされた事情
「彰人さんはコーヒーで良かったかしら? もし他のものが良ければ用意はあるから、言ってちょうだいね!」
「……あ、コーヒーも飲めるので大丈夫です。お気遣いなく…」
「なら良かったわ。ゆっくりしていって良いからね!」
「はい。ありがとうございます…」
…朱音を無事に送り届け、そのまま帰ろうとしたあの時から数分後。
現在の彰人は当初の予定通りに己の家までの帰路に着いている……というわけではなく、何故か朱音の家に招かれた上で彼女の母親と対面するという何とも珍妙な状況に巡り合っている真っ最中だった。
どうしてこのような状況になっているのか、それは彰人自身でさえよく分かっていない。
ただ気が付いた時には眼前に座っているこの人に半ば引きずり込まれるようにして連れ去られていたということだけは確かであり、それ以外のことは気に留める暇も無かったのだ。
「あっ、そうだわ。まだしていなかったし軽く自己紹介だけしておこうかしら。…もう分かってるかもしれないけれど、朱音の母の間宮鳴海です。彰人さんのことは娘からよく聞いているわ」
「よろしくお願いします。えっと………」
「名前で呼んでもらって構わないわ。無理な敬語も特に必要はありませんから」
「…それじゃあ、鳴海さんと呼ばせてもらいます。敬語に関しては…流石に勘弁してください」
「ふふふ。了解です」
そういえばと思い出すような仕草を見せた朱音の母親……鳴海だったが、言われてみれば彰人は先ほど名乗っていたが向こうの名前は知らなかった。
…それまでは知らずとも大した問題は無かったのだろうが、こうして対面してしまった以上は互いのコミュニケーションのためにも必要な確認だった。
それにしても……本当に不思議な空気を放っている人だ。
おっとりしているとでも言うのか、全身からもたらされるオーラによって感じ取れる雰囲気からどことなくマイペース気味にも思えるこの人は、間違いなく朱音と血の繋がった家族なのだろうということを理屈ではなく本能で理解させてくる。
…ちなみに、今この場に肝心の朱音はおらず、広々としたリビングには彰人と鳴海の二人がいるだけである。
数分前までは同じ場に朱音も居てはくれたのだが……彼女は彼女で、溜まりに溜まった眠気を少しでも覚ますために顔を洗いに行ってしまったのだ。
若干寝ぼけながらでもあったので、一人で行くことに微かな不安を覚えてしまうがここは彼女の自宅でもある。
その辺りの注意も自然と行えているはずだし、眠気につられてどこかに身体をぶつけるようなことだって無い……はずだ。
うん。過剰な心配のし過ぎは余計なお世話になりかねないし、そこのラインの見極めはしっかりとしていこう。
それに今はどちらかと言えば、意識を向けるべき人物は目の前にいるのだから。
「けれど驚いたわ……前々から話だけは聞いていましたけれど、まさか朱音が言っていた彰人さんがうちまで訪ねてくれるなんて思ってもいなかったから」
「…うん? 朱音が何か言っていたんですか?」
彰人の真正面に位置する場所に腰掛けながら、頬に手を当てて感慨深いような仕草を取る鳴海。
彼女の様子からは自身の娘でもある朱音への心配と安堵のようなものが見て取れたが…それと同等のレベルで彰人は、朱音が口にしていたことというものが引っ掛かった。
「あら? 朱音から聞いていませんでしたか?」
「えぇ……それらしいことは特には」
なので彰人の側からも少し聞き返してみたのだが、どうやら鳴海の方ではとっくにそのことに関して既知であると思われていたようで、頭に疑問符を浮かべていた。
しかしいくら思い返してみても記憶の中にそれらしき情景は浮かばない。
知らず知らずのうちに伝えられているのかとも思ったが、そうであるのなら何か印象なり何なりに引っ掛かりはするだろうし、それが無いのなら一切聞いた覚えはないという事だ。
「そうだったのね……まぁそう大したことでもないので言ってしまっても良いでしょう」
「…お、お願いします」
何やら親子の間で交わされていたという、彰人自身に関わる会話とやらの内容。
朱音が彼の悪口など言うとはとても思えないのでその辺りは心配もしていないが、それでも気になることは気になってしまうのだ。
ゆえに気づかぬ間に強く握っていた拳とそれに伴って高まっていたらしい緊張感を抱きつつも、鳴海から口にされる言葉を待つ姿勢に入っていった。
「あの子と関わってくれているならば今更言うまでもないけれど……やっぱり朱音って、普通の子と比べても少し変わっている子だと思うでしょう?」
「変ってほどでもないと思いますが…確かに少し変わってるとは思いますけど、それも朱音の個性の一つだとも言えますし」
「…彰人さんは優しいわね。だけど私たちに気を遣ってもらう必要はないのよ? 私もあの子も、もうあの体質には慣れっこになっちゃったのでね」
「……そう、ですか」
ぽつぽつと鳴海の口から語られる事実。
そう言葉にしている彼女の表情は今までのものと何も変わらない穏やかなものだったが……そこにわずかに混ざり込んできた陰を、彰人は見落とさなかった。
鳴海が言っていることはよく分かるし、理解も出来てしまう。
朱音とよく話すようになった今だからこそ自分も、そして航生や優奈といった友人がいて違和感も薄くなってきたが基本的に彼女はクラス内でも少し浮いた存在として認識されていたのだ。
それは彰人とて例外ではなかったし、まともな関わりを持った者でなければ常に眠り続けていた彼女の行動原理は容易く受け入れられるものでも無かったのだろう。
「私も夫も、最初は悩んだりもしたんですけどね。朱音にどうにかして普通の生活を送らせてあげられないだろうかって」
「それは………」
「ああ、そこまで重く捉えなくともいいのよ? 今となってはあの子の過ごし方を受け入れていますし、それを無理に変えようだなんて思っていませんから」
「…えぇ、それはよく分かっています」
伝えられてくる言葉の数々からは、鳴海が本当に心の底から朱音のことを心配してきたのだろうことが感じ取れてしまう。
…それもそのはずだ。
いくら朱音の眠気を催す体質が病的なものでも明確な害があるもので無かったとしても、普通の子供とはかけ離れてしまっているというだけで親としては苦悩する理由に十分すぎるのだから。
そしてそんな両親の意識を変えるような要因があったとすれば……それは、紛れもない朱音本人にあったのだろう。
「けれどやっぱり、学校でも変わらずに眠っている朱音のことは心配していたの。幸い他の子たちから虐められたりするようなことは無かったみたいだけど……それでも、本人から学校生活について聞くこともほとんどなかったから」
その端正な顔立ちにわずかな物悲しさを滲ませながら語る鳴海の表情からは、寂寥感や哀愁にも似たものを思わせる。
…朱音から彼女自身の状況変化について話されなかったというのも、あの日常を見ていればその通りなのだろうということは容易に察することが出来る。
彰人と話すようになるよりも前、一人で静かに時間を過ごしていた朱音の周囲に近寄ろうとするような者は現れることも無く、ただただ彼女の周囲は物静かでありながらも単調な日々が続いていた。
それは他でもない当人が望んだことでもあるので、第三者がとやかく言うことでもないのだろうが……そんな状況が続いていればどうあっても親に報告するような変化など訪れるわけもないのだから。
「…だからこそ、あの時は本当に驚いたの。遅くに学校から帰ってきた朱音から『同じクラスの人と友達になった』なんて聞かされた時には」
「…朱音、そんな風に言ってたのか」
鳴海が言うこととはほぼ間違いなく、彰人と朱音が初めて対面したあの放課後の日のことだろう。
彰人としては何気ない日常の一ページ。深く考えることも無く行ったシンプルな善意による行動だったが…そこから波及した影響は広く及んでいたようだった。
「朱音があんなに楽しそうに学校でのことを報告してくれたのは初めてだった。それからは話だけを聞いていた彰人さんとのやり取り……一緒にお昼を食べたり、お菓子を作ったことなんかも事細かく教えてくれたわね」
「……何だか無性に恥ずかしくなってきますね」
「ふふっ。だけれど、それのおかげで私たちもようやく安心出来たから嬉しかったのよ。…だから、彰人さんにはいつかお礼を言いたいと思っていたの」
「…お礼?」
…どうやら朱音は彰人との交流を、それこそ細部に至る詳細まで母親である鳴海に話していたようでこちらとしては思い出すと若干気恥ずかしくなってくる記憶まで知られてしまっているらしい。
知られたところで大きな問題があるわけではないものの…こればかりは理屈ではない感情の問題である。
言ってしまえば友人同士だけでの会話ならば特に思うところもないが、そこに親が混じってくると途端に気まずくなるあれである。
だが胸の内にそんな葛藤を隠している間にも、鳴海からは何故か彰人に対して礼をしたいなどということを告げられてきた。
「ええ。きっと彰人さんからすれば大したことをしていないと思っているのかもしれないけれど……それでも、朱音と関わってくれたことに関しては感謝してもしきれない。だからお礼を言わせてほしいの」
「……分かりました、その言葉は素直に受け取らせてもらいます。だけど…やっぱり俺がしたことなんてそう大層なことでもないですから、大げさなことは必要ありません」
「…そう、本当に謙虚な人ね」
「謙虚って言うほどでも無いと思うんですけど……実際あれは、自分でなくとも出来たことだと思ってますから」
「そんなことは無いわ。話を聞いただけの私が何を知っているのかと言われてしまいそうだけれど…彰人さんでなければ、ああいう結果にはならなかったでしょうから」
大げさな身振りなどしなくとも、余計な声を張り上げずとも発せられる声色だけで、そこには確かな誠意と感謝の念が込められていることがよく分かる。
相手にとってみればまだ年端も行かない子供でしかない自分に対して、ここまで真摯に向き合いながらはっきりと礼を口にされたのだ。
…いくら何でも、これを何の考えもなく断るほど無粋ではない。
彰人にとってもあの時間の行動は誰のためでもなく、ただ自分がそうするべきだと思って動いた結果でしかないのでそこまで大きな感謝を受ける筋合いはないのだが、だからと言って厚意を踏みつけにするのとはまた別問題だ。
念のための保険として自分だけの功績ではないと述べてはおいたが……そこに関しては鳴海にも流されてしまったようだ。
なんにせよ、思わぬ形で知ることが出来た朱音の裏話とそこで生まれた彼女の家族との縁。
それが今後、どのような動きをもたらしていくのかは……誰から見ても分かるものではなかった。
本人からしてみれば大したことはなくとも、周りからしてみればまた捉え方は変わってくるというお話でした。
…それと物語中でサラッと述べていましたが、朱音は鳴海に対して彰人とのあれこれを細かく伝えているので彼女は二人のやり取りのほとんどを把握しています。
もちろん、朱音が意図して伝えていないことも少しありますけどね。




