第三十四話 一時の別れ
やたら盛り上がりに満ちていた航生との雑談が一旦の幕を下ろしてから、二人は各々の席へと戻って夏休み直前のホームルームを始めとした休暇前最後の担任の話を聞いていた。
…といっても、今日はそこまで大した用事が詰まっているわけでも無い。
詰め込まれている予定としてはせいぜいが夏休みに入る前の心構えという名目で伝えられる、校長からのありがたいお話を体育館にて聞かされる集会があるくらいのもの。
残るは…あぁ、あとはそれぞれのクラスごとで担任から軽い注意事項を口頭で言われたりもするがそれだって大して時間がかかることではない。
現に今も担任からは非常にあっさりとした流れであちらの話は終わろうとしているし、これで一区切りがつくのかとも思えば……まぁ、感慨深くもあるというものか。
何せこの一か月という短い期間の中にあって彰人の周囲では多くのことが起こりすぎていたのだから、そう思うのもやむなしというところだ。
クラスでも抜群の人気を誇る朱音と知り合い、そこから彼女との関わりを通じて巻き起こされていった数々の出来事を思い返してみればあまりにも濃縮された日々を送ってもいれば柄にもなくほんの数日前のことですら懐かしく思えてきてしまう。
しかしそれも今日までだ。
長期休暇に入ってしまえば同級生と関わりを持つ機会は確実に減ってくるし、そうなれば必然的に朱音と話す時間だって激減する。
それを寂しいと思わないかと聞かれれば否定は難しいところだが……まぁ人と離れて自分だけの時間を楽しむのも夏休みの醍醐味というものだ。
考え方を変えてみればそれほど寂寥感だって強くはならないし、要は捉え方次第なのだからこの時間を有効活用していくとしよう。
「……よし、そんじゃ帰るか」
そう考えた彰人は自席から立ち上がり、つい先ほど終わったばかりのホームルームから一段と騒がしさを増しつつあるクラスをちらりと眺めて教室を出て行こうとする。
…表面上は何てこともないように装っている彰人だったが、これでしばらくはここに来ることも無くなるのかと思うと少し物悲しくもある。
それと同じくらいに心休まる日々がやってくることも確かなのでいずれは慣れるだろうが、そうだとしてもこういうのは理屈でないのだ。
授業ばかりの生活を送る方が良かったのかと聞かれればそれはまた別問題になるが……まぁ、慣れ親しんだ場から離れることに対して頭が無意識の内に拒否反応でも示していたのだろう。
だが、いつまでもそんな感傷に浸ってばかりもいられない。
こんなことをしていれば時間なんてあっという間に過ぎて行ってしまうし、そんな無駄な浪費はこちらの望むところではない。
現に友人である航生は担任の話が終わると早々に別れとこれからの予定を一方的に伝えて去ってしまったし、こちらもそうするのが得策というものだろう。
…しかし、そうするよりも前にやっておかなければならないことも残っていたことをふと思い出した。
なので教室と廊下を隔てる扉を潜る前に進もうとしていた足を踏み止め、彰人はある一点にめがけて歩みを進めていく。
「…朱音。俺もう帰るから、あんまり寝過ごし過ぎないように気を付けろよ」
「んー…? あっ、彰人君だー……もう帰っちゃうの?」
「もうって言ってもとっくに放課後だしな……朱音が眠りすぎなんだよ」
「それは言わない約束だからねー…」
彰人の向かう先。その机に突っ伏しながら惰眠を貪るというある意味では異質のはずなのに、それが当たり前のものだとして認知されている彼女の日常風景。
いつ何時でも、それこそ時と場所を選ぶことすらなく睡眠という行為に一点集中した執念を持って眠り続けていた彼女……朱音を起こすために、彰人は少し離れた場所にいた彼女に声を掛けに行ったのだ。
すると朱音はそれまで瞳を閉じながら心地よさそうに眠りこけていた様相を一転させ、彼が声掛けをするのと同時にもぞもぞと身体を動かしながら意識を覚醒させていた。
…これもまた、今となっては見慣れた風景となってしまったがよくよく考えてみれば摩訶不思議な一部始終だろう。
何故ならば朱音という少女は……他の誰から呼びかけられたとしても、大きく身体を揺さぶられたとしても一向に目を覚ますことが無いと以前までは不変の事実として知られていたのだから。
…そう。以前までは、だ。
一か月ほど前までは誰一人として変えることが出来ない壁として君臨していた朱音の睡眠事情ではあったが、それも今となってはクラス内において忘れかけている者すら現れてくるほどに過去の産物と化してきている。
そんなことが起こった経緯というのは至極単純なものであり……何物も踏み込めないと思われていた彼女のパーソナルスペースに、彰人が入り込むことが成功してしまったからだ。
一月前のあの日、朱音と偶然鉢合わせて話すようになったきっかけとなった一幕の出来事。
あの頃の彰人としては自分から何となく声を掛けてみたら思いのほかあっさりと朱音が起き上がってきたので、結局彼女の寝起きの悪さというのも噂だったのだろうなんて呑気に捉えていたが……それこそ大きな捉え間違いであった。
朱音との妙な接点を皮切りとしてクラス中。いや、ともすれば学年中にまで二人の関係性が公のものとなってしまい、そこから発生した騒動には今思い出してみても苦労させられた。
…それでも、そうした過程があったからこそ現在彰人と朱音の二人は大きなしがらみもなく交流を重ねられているので一概に悪いとも言い切れないのだが。
「まぁどう過ごすのかは朱音の自由だからとやかくは言わないけどさ。眠りすぎて前みたいなことにならないようにしろよ」
「そんなことにはならないようにするから大丈夫だよ……それに、もう夏休みに入るからね。学校で寝過ごすなんてことはしないよ」
「そんなら良いけどさ……」
彰人が朱音に声を掛けたのは、以前に似たようなことがあって彼女が放課後になって以降も起き上がることなく学校に留まり続けてしまう可能性を考慮したからだ。
…他の者からすればいくら眠気が高いからといってそこまで長い間校内に留まることなど無いだろうと思うかもしれないが、彰人は知っているのだ。
彼女ならばそんなことになる可能性があるどころか、むしろそのような状態になる方があり得るということを。
何度も交流を重ね、そして身に染みて理解した朱音の眠気を考えればこの対応も自然なものであった。
「だけど夏休みかぁ……お休みになるのは嬉しいんだけど、彰人君と話せなくなっちゃうのはちょっと寂しいね」
「…別にそうでもないだろ。やろうと思えばいつだって連絡も取れるんだから休み中に会うことも出来ないわけじゃないしな」
「それはそうなんだけどね……」
するとそんな会話の中で朱音の方から切り出されたが、彼女はどこか寂寥感を滲ませた表情を浮かべながらそのようなことを口にしてきた。
朱音の言っていることはよく分かる。何故ならそれは彰人も考えなかったことではないからだ。
夏休みともなれば必然的に距離も離れやすくなる彼女との会話を重ねる回数。
休みが明ければそれも元には戻るだろうが、一時的な別れになることも間違いではない。
…そう告げた際に浮かべられた、朱音の物憂げな表情に思わず目を惹かれてしまったのは彰人だけの秘密だが。
「とにかく俺は先に帰るからな。朱音もなるべく遅れないように──」
「朱音ちゃ~ん! 自分から起きてるなんて珍しいね! 一緒に帰ろうよ!」
「…あっ、優奈。それは良いんだけど……彰人君、大丈夫?」
「──ああ。突発的すぎて耳がやられただけだ…」
しかし、そんな女々しいことを口にしたところで返ってくるのは嘲笑だけだろう。
単なる友人でしかない自分たちが、ましてや異性の彼女に対して休みの間も会えないかなんて申し出たところで余計な警戒心を抱かせてしまうだけだ。
なのでここは大人しく身を引いておこうと思い、無難に立ち去ろうとしたのだが……そこに割り込むようにして乱入してきた者によって、無理やりその流れは断ち切られた。
「あれ? 彰人居たんだ。…どうしたの、耳なんか押さえたりして」
「お前のせいだろうが! …全く、馬鹿でかい声を耳元で出すなよな」
…静かに場を離れようとした彰人の鼓膜を破壊し、朱音めがけて一直線に嬉しそうなオーラを全開にして帰宅の同伴を誘いかけている少女。
彰人の数少ない友人でもある航生の彼女にして、誰よりも活力に満ちていると確信できる優奈が姿を露わにしていた。
「あ、そうだったの? いやーごめんごめん! つい朱音ちゃんが起きてるところを見たらテンション上がっちゃってさ! つい声のボリュームが上がっちゃったよ!」
「ついで人の鼓膜を破壊するな。とんでもないダメージだったぞ」
「それはアレだね。私の朱音ちゃんに対する深い友情が生み出した奇跡みたいなものだよ」
「綺麗に締めようとしても無駄だからな? …はぁ、まあいいか。優奈の突撃癖は今に始まったことでもないし」
「…ちょっとちょっと? それじゃあ私がいつも考え無しに朱音ちゃんのところに突っ込んでるみたいじゃん!」
「紛れもなくその通りだろうが!」
クラス全体に響き渡るような大音量の声を発揮させておきながら、優奈の視界には目当てである朱音しか映っていなかったのだろう。
目的の人物の下へと到着してから近くにいた彰人の存在には気が付いたようだが……それでは手遅れも良いところである。
こちらの言い分にも反論するように声を大にしてきたが、明らかに言い返しようもない隙だらけの口答えを正面からぶつけられる堂々とした心意気は…もはや見習いたいくらいのメンタルの強さだ。
「……とりあえず俺ももう帰るから、優奈も朱音に迷惑かけるなよな。…朱音、こいつがセクハラとかしてきたら容赦なく追い払っていいから」
「あ、うん……多分そんなことはしないと…思う、よ?」
「朱音ちゃん!? 私、そんなこと絶対しないから! ほら、この目を見てよ! 信じて!?」
「……じゃあ、今回だけは信じておこうかな」
「本当!? …あっぶない。危うく朱音ちゃんを愛でれなくなるところだった」
「ばっちり聞こえてるぞ。…じゃ、俺はお先に行くからまたな」
「あ、彰人君またね」
だが、そんなコントを眺めていては気が付いた時には時間などとうに過ぎ去っている。
朱音も優奈のことは信頼……しているはずなので、後のことはあの二人に任せておけばいらぬトラブルに巻き込まれることも無いだろう。
…まぁ優奈の方が積極的にトラブルを引き起こそうとした時はその限りではないが、もしそうなった時には朱音から見限られるだけだ。
その辺りの線引きを弁えていないやつではないし、そういった見極めが出来ているからこそ今でもこうして彼女と良き親友でいられているのだ。
そう考えながら彰人は今度こそ帰路に着くために足を進め、彼女たちに軽い別れを告げて校舎を出ていく。
いよいよ始まった高校生活最初の夏休み。
自分一人の時間が増えていく中で何をして過ごそうかと考えながら歩みを進める彰人の思考には、どのように暇を潰していこうかという考えが多く浮かんでいたが……この時の彼には知る由もない。
まさかこの数日後、退屈さとは無縁の事態が発生することになるなど。
…さて、この後に何が起こることやら。




