第三十二話 起床と就寝
「……んっ。ここは…」
静けさに満ちた空間の中で、かすかに響く起床の一声。
ぼやけた視界と意識に思考を遮られながらも彰人が目を覚ましていった先には……微笑を浮かべた彼女がいる。
「…彰人君、おはよう。ゆっくり眠れた?」
「……朱音? あ、そうか……朱音に膝枕をしてもらってて…そのまま眠っちまったんだよな…」
「凄い熟睡してたからね。まだ時間は大丈夫だからもう少し横になっててもいいよ?」
「…いや、流石に起きるよ。くっ…! …ふぅ、大分身体もスッキリした気がするよ」
徐々に徐々に、はっきりと輪郭を結んでいく目線の先にいるのは眠りにつく直前にも見ていたクラスメイトである朱音の姿。
それを認識するのと同時に自分が置かれていた状況も少しずつ記憶に蘇ってきたのか、今自分がいるのが彼女の膝上だということを思い出せばこれ以上向こうに余計な負担をかけるわけにもいかないと気合いを入れて起き上がる。
「一つ聞いておきたいんだけど…俺ってどれくらい寝てたんだ? そこまで長く寝ては無いと思いたいんだが…」
「んー…時間にしたら三十分ってところじゃないかな? そんなに長くは無かったはずだよ」
「それでも三十分は朱音に寄りかかりっきりってわけだったのか……いやすまん。そっちの足も痺れてたりとかしてないか?」
「問題ないよ。このくらいなら彰人君を乗せてたって疲れないし…それに、そっちが寝てる間に寝顔なんかを堪能させてもらっちゃったからね。おあいこじゃない?」
「……ソウデスカ」
身体を起こしていきながら床に横になったことで凝り固まった身体を解しながら尋ねたのは、彰人が眠ってから今に至るまでの時間に関することだった。
これを聞いたのはもし仮に彰人が長時間熟睡してしまっていた場合、その時は膝枕をしていた朱音も両者の位置的に同じ姿勢を維持し続けていたという事になるので、彼女にも相応の負荷を強いてしまったことになる。
もちろん朱音ならばそれくらいのことを気にしたりはしていないと思うが、それでも知っておかなければ気が済まなかったので質問してみれば……幸いにもそこまでの爆睡をしてしまったわけではないようだった。
その事実を知るとホッと一息付けそうになったが……その次に放たれた彼女の一言によってそんな安堵は搔き消されることにもなってしまった。
…確かに、先ほどは場の雰囲気や蓄積していた疲労によって頭がそこまで回り切っていなかったが、言われてみればここで眠るという事は自分の寝顔を他でもない彼女に晒すということでもある。
別にそれくらいのことがどうしたと、普段ならばそう言い切れる程度のことでしかないのだが……どうしてか見られた相手が朱音となると、途端に気恥ずかしく思えてくるのだから不思議なものである。
「はぁ……よりにもよって情けないところを見られた感じだな。まぁ寝顔くらいならまだいいんだけどさ…」
「別に変な寝顔でも無かったよ? ちゃんと可愛かったし……寝息を立ててるのは見てて飽きなかったしね」
「……朱音。それフォローになってないから」
「あれ?」
しかし落ち込んだ彰人の様子を見て朱音も一応は慰めようとしてくれたのか、おかしなところなど無くむしろ可愛かったと言ってくれたが……この状況においてそれはどちらかと言えば悪手である。
おそらく彼女としては本心からそう思ったからこそそのように言ってくれたのだろうが、女子から寝顔を可愛かったと言われても正直微妙な心境になるだけである。
フォローしようとしてくれる心境自体は嬉しいことに違いないのだが、それはそれとしても同級生の異性に……それも仲の良い友人から言及されると更なる羞恥心が刺激されるだけであった。
「…とりあえずそれは置いておこう。話してたら意図してない薮蛇を突いてそうだし」
「本当に可愛かったから問題ないと思うんだけどなぁ……彰人君がそう言うならこれ以上は言うのをやめておくよ」
「……助かる」
どうやら朱音としては彰人が無理やり話題を打ち切ったことに少なからず思うところもあったようだが、何とか納得してくれたようなので心の中で安堵の息を吐く。
…それでも彼女の評価自体は何も変わらなかったようだが、その辺りを改善するのはまた今度という事にしておく。
そうしておかなければ、いつまで経っても話が前に進まなくなってしまう。
「とにかくありがとうな。かなり身体も軽くなってるし気分もスッキリしてるよ。これも朱音のおかげだ」
「仮眠って結構大事だからね……私もよく寝てるから分かるけど、少しでも睡眠時間を削っちゃうと人って本来のポテンシャルを発揮できなくなるんだよ」
「……朱音が言うと説得力が凄まじいな」
朱音に少し説教のような口ぶりで注意されてしまったが、確かに睡眠というのは日常生活を送る上でも無くてはならない要素の一つだ。
これが欠けてしまうだけでも注意力の散漫や集中力の低下、それ以外にも様々な弊害が出てきてしまうし、やはり軽視していいものではないことは確かだ。
…それに何より、普段の生活から眠ってばかりの朱音からそう言われると他の誰から言われるよりも重たい説得力が込められているように感じた。
これが長年の経験による年の功というやつなのだろうか。…一応同い年のはずだが。
「なんにせよ、これからはあんまり無茶したら駄目だからね? 頑張りすぎて倒れたりしたら元も子も無いんだから」
「気を付けるよ。…今後は勉強の時間配分も見直さないとな」
「それでよろしい。……ふわぁ。じゃあ私たちもそろそろ戻ろうか」
「そうしよう……って、朱音もかなり眠そうだな」
しかしそんなことを考えている間にも朱音の言葉は止まらず、こちらに忠告するようにしてビシッと指を向けられながら心配する声を掛けられてしまった。
彼女が言っていることも最もだ。
いくら試験が控えているからといってそのために身を擦り減らし過ぎていてはせっかくの努力の成果も発揮出来なくなってしまうかもしれないし、そうなっては意味がない。
ありがたい朱音の言葉を己の胸に受け止め、反省しながら両者の間で教室へと戻ろうかという空気になった時……不意に朱音が大きな欠伸をしていた。
「さっきまではそこまででも無かったんだけど……ずっと眠ってる彰人君を見てたからかな? 眠気が移ってきたのかもしれないね」
「朱音の眠気ってそんな風邪みたいなシステムなのか? …まぁそんなら、尚更早く戻った方が良さそうだな。こんなところで寝たら朱音の身体を痛めるかもしれないし」
「んー……じゃあそうしよっかな…」
長い時間……とはいってもせいぜいが三十分程度なのだが、それでも朱音にとっては睡魔が襲ってくるのに十分すぎる時間だったのだろう。
ついさっきまではしっかりとした様子で受け答えに応じていたというのに、気が付けば瞼を重そうにしながらゆらゆらとその身を揺れ動かしていた。
このままでは少しした後に意識を夢の世界に落としかねない。
そうなれば後々に面倒なことになるので、彼女には申し訳ないが眠るのはもう少しだけ我慢してもらい自力で教室まで歩いてもらうこととした。
「自分で立てるか? 立てなさそうなら手くらい貸してやるよ」
「…ちょっと無理そうだから、おんぶして教室まで運んでもらってもいいー…?」
「……おぶっていくのは流石に断念してくれ。俺の理性が死ぬから」
「えー…じゃあ手を貸してくれたらいいや…」
「はいよ。仰せのままに…っと」
今にも眠ってしまいそうな朱音に彼女一人で歩いていくのは難しいかもしれないと考えて助力出来ることはないかと尋ねてみたのだが……いくら何でも女子をおぶっていくのは許容できなかった。
これが外であるのならまだしも、学校という多くの人目に付く場所でそんな目立つことをしてしまえばどんな噂が立つものか分かったものではない。
火のない所に煙は立たないなんて言うが、わざわざ余計な燃料を投下する必要もないので大人しく手を貸すあたりで妥協してもらうこととした。
幸いなことに朱音はその小柄な見た目に比例するように、体重もしっかり食べているのかと思えてしまう程に軽いため、彰人の腕力でも難なく立ち上がらせることが出来た。
「ほれ、悪いけどこっからは少しだけ自分の力で歩いてくれ。俺も教室までは一緒に行くからさ」
「了解だよー……あっ、そうだ。そういえば彰人君に言おうとしてたことがあるんだよね」
「…? なんだ、言おうとしてたことって」
この空き教室から彰人達の教室まではそこまで離れているわけではないが、それでも今の朱音からすれば体感的には相当な距離があるように思えるだろう。
なのでその辺りを考慮しながら戻ろうとすれば……それよりも前に朱音から伝えることがあったと告げられる。
「前々から思ってたことではあるんだけど……いつもありがとうね。彰人君のおかげで最近がずっと楽しいんだ。そのお礼を言いたくて」
「……何だ、そんなことか」
「そんなことって何さー……これでもちゃんと感謝してるんだよ」
朱音の口から語られたのは、彰人に対するこれ以上ない感謝の証。
彼と出会ってからの日々が彩られたものになったということを伝えるために言ったのだろうが……それを聞いた彰人はというと苦笑を浮かべながら朱音の言葉を受け入れていた様子だった。
「別に朱音が言ったことを軽視したわけではないよ。ただ、そんなことをわざわざ言わなくてもお前が楽しんでることくらいは見てれば分かる」
「え、そうだったの?」
「そりゃな。話し始めたばかりの時ならいざ知らず、こんだけ話すようになればそのくらいは分かるっての」
少し呆れたように朱音の言葉を聞いていた彰人だったが、何を言われるのかと身構えてしまっていた反面そんな些細なことであるのなら改まって言わなくてもこちらだってその程度の事はとっくの昔に知っていたつもりだった。
出会ったばかりの頃は何を考えているのかも分からず、何を楽しみにして生きているのかすら察せられない相手として認識していた人物。
しかし今となっては彼女も他と何も変わらない、一人の少女でしかないと捉えられているのだから言わずとも朱音が楽しんでいる時とそうでない時の区別くらいは付けられるようになっている。
「むぅ…それじゃあ改めて言った私が馬鹿みたいだよ。これは彰人君に責任を取ってもらうしかないね」
「責任って……これに関しては俺悪くないよな?」
「いーや、私にここまで言わせたんだから相応の報いを受けてもらわないと気が済まないよ。そうだね……じゃあ、これからも私の近くに居てくれるなら許してあげよう」
「…そんなんでいいのか」
「お手軽だし簡単に出来ることだからいいでしょ? それとも……彰人君はもう私とは関わってくれないのかな?」
「そうは言ってないっての。…まぁ朱音が俺を嫌わない限りは一緒にいるだろうさ」
「おぉ…! それは、嬉しい限りだね」
何故かむくれたようにして己の発言を後悔する朱音。
それからどういうわけか、その責任の所在が彰人へと向かってきてしまったようだが…その賠償はこれからも彼女と友人であり続けることで賄えるらしい。
…拗ねていた割には何とも軽いコストで済むものだと苦笑いが出てきてしまう一方、この自由奔放さが朱音の代えがたい魅力であるのだろうとも思った。
何者にも代えがたく、だからこそ輝いて見える朱音の人を惹き付けてやまない魅力。
それに間近に触れられている自分はきっと幸運なのだろうと思いながら彰人は彼女と共に部屋から足を踏み出し、元の教室へと向かって行く。
どこか甘えたがりな彼女との日常には、むず痒い甘さと温かさが満ちているのだった。
第一章、これにて完結です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
彰人と朱音、二人の出会いを描いてきたわけでしたが……いかがでしたでしょうか?
自分としてはもう少し甘さを足しても良いんじゃないかとも思ったんですが、まぁそれは今後の展開次第で自然と増していくと思われますので、ひとまずは糖度抑え目で進めてまいりました。
なので二人の甘さをご期待してくださっている皆さん、ご安心ください!
次から始まる第二章では(多分)甘さが増していきますので、しっかりお楽しみいただけるはずです!
何にせよ、ひとまず物語のスタートラインは超えられたのでホッとしております。
この安心感と勢いのまま、第二章も書いていきますのでどうぞお楽しみに!




