第三十一話 誰にも聞かれない中で
「…もう寝ちゃった。よっぽど疲れてたんだね」
私たち以外の誰もいない教室…そんな静けさに満ちた教室の隅で私──間宮朱音は、自身の膝上で眠ってしまった彼を見ながらそんなことをつぶやいていた。
すやすやと心地よさそうな寝息を立てながら……こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないけど、可愛い寝顔を見せている彰人君を見つめながらゆっくりとその髪を撫でていく。
…男の子ってもう少し髪はゴワゴワしてるのかと思ってたけど、そうでもないのかな?
彰人君の髪を撫でていると予想以上にサラサラとした触り心地が実感できるので、もしかしたらお手入れなんかもしているのかもしれない。
それに…最初は困らせてしまうかもしれないと思っていた膝枕だったけれど、この姿を見れば少なくとも迷惑ではなかったようだから安心した。
元々彰人君なら大丈夫だとも考えていたのでそこまで心配はしていなかったけど、やっぱり実際に気持ちよさそうにして寝ている彼を見るのとでは安心感が段違いだ。
「…本当に、彰人君は不思議だよね。こんなに話せるようになるなんて思っても無かったもん」
そんな彼の顔を見ながらこぼす独り言は、これまでの彰人君とのやり取りを振り返ってのことでもある。
自慢でも何でもないし自分で言うことでもないとは思うが、これでも私は周囲と比べても相当に変わっていると思っている。
何せ学校における私の普段の過ごし方といえば、その時間の大半を睡眠に費やしているのだからそんな評価も致し方ないだろう。
こればかりは私自身でもどうしようもない。昔からなぜか睡眠欲というものが人一倍強いようで、どんな時であってもすぐに眠れてしまうくらいには強力な眠気を抱え続けているのだから。
ただ、今までにも何度かそんな私の状態を心配したお母さんに病院に連れられて行ったりもしたけど、どうやらこれに関しては病気とかでもなく私自身の先天的な体質によるものだろうとのことだった。
別にショックなんかは受けていない。そのことを聞いた時にはへぇ、珍しいこともあるんだな、程度の感想が浮かんだくらいであって大して困ったことになるということも無かった。
小学校、中学では何度かクラスメイトと話したこともあったけどそれも私が眠ってばかりだから皆いつしか他の人と話していくようになったし、深い付き合いをしたことなんて皆無だ。
それを悲しいと思ったことは無い。私自身体質に引っ張られたのかは分からないけど、眠ること自体は好きだったからそうやって過ごしてきたし、それは今までもこれからも変わらないだろうなんて思ってた。
──だからこそ、あの時は驚かされたものだ。
『間宮、俺ももう帰るからな。本当に起きないとここで一人残していくことになるぞ……って、聞いてるわけもないか…そんじゃ、そろそろ本当に帰るとするかな……』
『……んぅ! ふあぁ……あれ、もうこんな時間になっちゃってるんだ…流石に寝すぎちゃったなぁ……』
偶然私が放課後まで眠り続けてしまったあの日。
彰人君と話すようになったきっかけとなったあの時、私はどこかから聞こえてくる呼びかけの声に応じて起きたけれど、それは今までのことを思い返せばありえないことなのだ。
これもどちらかと言えば良いことではないんだけど、私はかなり寝起きが弱い。
それこそ毎朝の起床でもお母さんの声が無ければまともに意識を目覚めさせることすらできないくらいに眠っている時は意識を深く落としているので、他の人から軽く呼ばれた程度ではまず起きることなんてないのだ。
…だというのに、彰人君は非常にあっさりとした様子で眠っていた私を簡単に起こして見せた。
あの時は寝起きで意識も曖昧だったのでそこまで顔には感情には出さなかったけれど、内心では誰かに起こされるなんていう新鮮な体験をしたことにテンションも上がってしまっていた。
それからは、毎日の様相が丸っきり反転したのでないかと思えるくらいに代わり映えした日々を過ごすことになった。
何か用事があった時には彰人君によって起こしてもらい、それによって私とクラスメイトとの交流は一層増えることとなって前よりも学校に行くことが楽しく思えてきたように感じる。
さらに、そんな日常を通して彰人君以外にも青羽君や優奈といった親しい友人まで出来たのだ。
…まぁ優奈は度々興奮したようにくっついてくるけど、それもあの子の良さだからと思えばそれほど気にはならない……かな?
なんにせよ、彼のおかげで私の日常は見違えていった。それこそ前とは比べ物にもならないくらいに。
「…ずるいなぁ。こんなに私ばっかり貰ってばっかりなんて、いつか返しきれなくなっちゃうよ」
彰人君は時々私から色々と貰いすぎだとか、私への負担になってしまうだなんてことをよく口にしている。
それは彼の嘘偽りのない本心だろうし、確たる事実なのかもしれないが……私からすればそんなことはない。むしろ貰いすぎなのはこちら側なのだ。
彼との縁が出来たから、私の日常は大きく変わっていった。見違えるほどに楽しいと言えるだけのものを与えてくれた。
その始まりを作ってくれたのは、他でもない彰人君なのだから……私はその恩を返しているだけに過ぎない。
「それにしても…何で彰人君の声でだけ起きられるんだろうね、私。自分でもよく分からないよ」
ぽつりぽつりとこぼされる独白の中で出てきたのは、前々から考えてはいた疑問の一つでもある彰人君の呼びかけだ。
これももうクラス内での共通認識としても知れ渡っていることだが、私に声を掛けただけで起こせる人物というのはお母さんを除けば彰人君だけだ。
…が、何故そんなことになっているのかというのは私自身にもよく分かっていない。
前に優奈には彰人君の声が落ち着くとかスッと頭に入ってくる、なんて説明をしたこともあるが……それだってはっきりとした理由にはならない。
他の人であれば身体を揺さぶられても、近くで轟音が響こうとも起き上がらない私に声掛けをするだけで起こせるたった一人の男の子。……うーん、やっぱり考えたところで答えなんて出てきそうにもない。
そもそも原因がそんなにあっさりと分かるのであれば、こんなことにもなっていないのだから当然なんだけど。
「…まっ、いっか。そんなことが分かってなくても問題はないもんね」
けれど最終的に自分の中で出した結論としては、そのことを気にかける必要などないということだった。
たとえ彰人君が誰であろうと、どんな関係があろうとこの人が私の日々を豊かなものとしてくれたことには変わりないし、そこに感謝しているからこそ私は彼と良き友人であり続けたいと思うのだ。
「それにしても……本当にぐっすりだね。ちょっとくらい悪戯なんてしてもバレなさそうだよ……いくら私が女子だと言っても、少し油断し過ぎなんじゃないかな?」
しかしそんなことに思考を割いているくらいならば、この現状を満喫していた方が何倍も建設的だ。
そう判断した私は今も尚眠り続けている膝上の彼に視線を戻し、年相応のあどけなさを全面に出している彰人君の頬を軽く指で突いてみた。
「…全然起きない。ふふっ。こうなってくるとちょっと面白くなってくるね」
彰人君は自分のせいで不快な思いをしたら引き剥がしてくれ、なんて眠る前に言っていたが、珍しく熟睡している彼を見ていると不快どころかその反応が面白おかしく見えてきてしまう。
いつもであれば私が眠り、彰人君がそれを傍目で眺めるという構図が圧倒的に多いのでその立場が逆転しているというのも新鮮さを実感できて面白さを引き上げているのだろうが……それはそれとしても、指でつつくたびに微かに身じろぎする彼の挙動には癖になりそうな良さがあった。
「…そういえば、よく見てみると彰人君って結構整った顔立ちしてるんだよね……今まで注目してなかったから分からなかったけど、これなら他の女の子にも惹かれることだってあるんじゃないかな?」
その過程の中でふと意識が向けられたことだったが、彰人君の前髪を何気なくかき上げてみればいつもは目線を向けることも少ない彼の顔が体勢もあってよく確認できる。
普段は前髪で目元が少し隠れてしまっているので一見地味な印象を受けることも多い彰人君だが……こうして見てみると、結構……いや、かなり容姿は整っている。
清潔感には気を遣っているのか髪や顔には少しの汚れもないし、目鼻もはっきりとしているので見る者が見れば惹かれるものだってあるだろう。
今までは残念なことに、クラス内でも目立つことも無かったからこそ注目されてこなかったのだろうが……多分、前髪を短くして堂々とした振る舞いでもすれば想いを寄せる女子の一人や二人は現れる気がする。
「…何だかもったいないね。どうするかは彰人君の自由だから、私が口を挟む権利なんて無いけど……いつか君をしっかり見てくれる人が現れたら、逃がしちゃ駄目だよ?」
一体何様のつもりで言っているのかと他人に聞かれれば言われてしまいそうだが、それでも口にしなければ気が済まなかった。
言動では少し冷たい印象を与えてしまうかもしれないが、その本質では己が心許した相手に対してどこまでも優しく、相手を思いやった行動が取れる男の子。
これだけ魅力的な長所を持った友人が傍にいるのだから、そんな彼だからこそいつしか幸せな結果を迎えてほしいと思わずにはいられない。
そんな思いを抱えながら、先ほどと同じように髪をかき上げて彰人君の顔を眺めていれば……
──不意に、トクンッと自身の心臓が跳ねた気がした。
「…? なんだろう、今の…?」
唐突な己の体調変化に、胸に手を当てて疑問符を浮かべるも今の妙な心臓の跳ね方をしたのはさっきの一瞬だけ。
何か変な物でも口にしてしまっただろうかと自分の行動を振り返ってみるも、特におかしなことをした覚えもないため気のせいだろうかということで結論付けてそれ以上は気にしないこととした。
…この時の違和感が明確な形となって現れるのは、そう遠いことでもないような予感も共に抱えながら。




