第二十七話 蕩けた一言
朱音とキッチンにてしばしの間共に片付けを行っていた彰人だったが、それも一段落すれば航生達が騒いでいるリビングへと戻って彼らと少しの休息を満喫することとなった。
相変わらずハイテンションを維持しながら朱音に余計な絡み方をしていく優奈への対処とそれを楽し気に傍観している航生を叱りつけたりと忙しさもあったが……まぁ、何だかんだで良い休みになったのは間違いない。
それに事前に決めていた休憩時間を過ぎれば構成と優奈もしっかり意識を切り替えて…は、いなかったかもしれないがそこそこに集中して勉強に取り組んでいたのでひとまず良しとしておこう。
ともかく、四人は時々騒々しさを交えつつも順調にテスト対策のための準備を進めていき、時間は気が付かぬ間に過ぎていった。
「…ん、もうこんな時間になってんのか。流石にそろそろ帰っとかないとヤバいかもな」
「え? …あちゃー、本当だ。ちょっと入り浸りすぎちゃったね」
最初にそのことに気が付いたのはふと部屋に置かれている時計を見た航生であり、彼は現在の時刻を確認すると自分が思っていた以上にこの場所に居たことに驚いたような反応を見せていた。
そしてその発言に続くように優奈もこの状況には気が付いたようで、頬を搔きながら気まずそうな表情を露わにしている。
時間にすれば帰るのにも遅すぎるというほどではないが……想定していたよりも彰人の家に居座ってしまっていたことに申し訳なさでも感じたのだろう。
「結構集中してやってたからな……まぁ航生の勉強も区切りの良いところまではいったし、今日のところはもう解散でも大丈夫だろ」
「よっし! 彰人からお墨付きももらえたなら今度のテストの結果は期待できるな!」
「…俺が言ったのはあくまで今日の勉強範囲の中での話だからな? 明日からもサボらずに勉強はしろよ?」
「分かってるって! …くっくっく。これで赤点の恐怖に怯える必要もなくなるぜ……!」
「……だから人の話を聞けっての」
この時間まで航生の勉強をサポートしていた彰人だったが、確かにここまで来てしまえば一旦は解散という事でも構わないだろう。
欲を言えばもう少し先まで勉強を進めておきたかった気持ちもあったが……流石にそれは望みすぎというものだ。
それに勉強の進行速度に不満があったのなら後で自分一人で自習なり何なりをして進めておけば良いし、そこに関してはどうとでも出来るだろう。
なのでそろそろこの勉強会もお開きという流れに自然と移っていくこととなった。
…そのどさくさに紛れて航生が聞き捨てならないことを口にしているのを耳にしてしまったので、それとなく忠告しておいたが無意味だったようだ。
こいつは調子に乗ったが最後、痛い目に遭うまで反省することも無いのでここから先は向こうに身を任せてもらうとしよう。
今日この日に勉強の面倒を見るという名目で手は貸してやったのだから、その後のことまでは責任など負えないというだけのことだ。
「…というか来た時に聞くのを忘れてたけどさ。お前ら俺の家に来ることはちゃんと親に伝えてるのか?」
「そこんところはしっかり伝えてから来てるっての。いくら何でも黙ってきたりはしてないから安心しろ」
「私もお母さんに伝えてきてるから問題ないよー! …というか言っておかないと後が怖いし……」
「ふむ。朱音の方も大丈夫か? もしあれだったら連絡なり何なりするけど」
「こっちも友達の家で勉強してくるって言ってあるから平気かな。ちょっと予定より遅くなっちゃったかもしれないけど……そこは説明すれば納得してもらえるだろうから大丈夫だよ」
航生たちがやってくると同時に聞くべきことだったかもしれないが、そういえば彼らの親に自分たちの子供がここに来ることが伝達されているかどうかの確認をしていなかったことを思い出した。
今更過ぎるので聞くまでもないかとも思ったが……万が一のことを考えれば自分の子供がいつまでも帰ってこないともなると親は心配するだろうし、そこで無用なトラブルなんかは起こしたくない。
そういった判断もあって自分以外の面々に報告はしているのかと尋ねたのだが、どうやら全員問題なく伝えてきているようだったので一安心だ。
「そうか。なら…全員今日はここでお開きってことでいいか?」
「俺はそれでいいぜ。彰人もマジで手伝ってくれてサンキューな!」
「…航生には今度、家でもしっかり勉強してるか親に聞いた方が良さそうだな」
「ちょっ!? そこまで徹底管理されることになるのかよ!?」
「お前は普段の生活態度が悪すぎるんだよ。…まぁそれは冗談だとしても、テストまでそんな日数も無いんだから計画を立てて勉強しろよ」
「任せておけって! この俺が本気を出せばそんなの余裕だっての!」
「…そういうところだからな。本当に」
時間を考えてもここで勉強会をやめておくことに異論はない。
むしろこれ以上長引かせてしまえば全員の効率ややる気も下がっていくだけだろうし、何事もやりすぎるだけでなく程々の塩梅を見極めていくことが重要なのだ。
「じゃあ私達は帰る準備しないとねー。あっ、朱音ちゃんは私がしっかり送っていくから彰人は心配しなくてもいいよ!」
「本当か? そりゃ助かるけど……いいのか?」
「当然! …というか、朱音ちゃんを一人で帰す方がありえないでしょ。こんな可愛い子が人気のない道を歩いたりなんかしてたら、私だったら確実に襲ってるよ!」
「…それは不審者を警戒してくれてるって認識でいいんだよな? お前が言うと私情が混じってるようにしか聞こえないぞ」
「ふっ。そんなの…私の願望も混じってるに決まってるじゃん!」
「堂々と言い切るな、そんなこと! …はぁ、お前に朱音を託すのがいきなり怖くなってきたぞ」
彰人もテーブルの上に置かれていた自分の文具や教科書をしまいながら荷物をまとめている朱音と優奈に向き合うが、その会話の中で不穏な予感しかしない宣言を優奈から食らってしまった。
…朱音を送ってくれるという提案はまだいい。それは彰人も内心懸念していたことだったので彼女が請け負ってくれるというのならば安心して任せられる。
問題があるとすれば、その先……私欲を表面に浮き彫りにさせてきた優奈の発言の方だっただろう。
というか不審者に絡まれないようにするために優奈に朱音を託送としているのに、肝心の頼む相手が不審者になってどうするというのか。
「別にいーじゃん! 可愛いものを愛でるのと実際にするかどうかは別だし、流石の私でも見境なく友達を襲ったりはしませんー! ねっ、朱音ちゃんも私と一緒に帰ってくれる?」
「うん…? …ま、まぁ変なことをされないならいい、かな?」
何だか話がおかしな方向に転がっていってしまったような気がするが、それにつられて朱音が詐欺に騙される被害者のような空気を醸し出し始めてしまった。
別に放っておいても大きな問題はないのだが……あまり見てもいられなかったことと忠告しておきたかった点もあるので少し口を挟むこととする。
「朱音、騙されない方が良いぞ。こんなこと言ってるけど優奈は隙さえあればお前を愛でようと狙い続けてるようなやつだからな」
「えっ? そうなの?」
「そ、そんなことないよ! あれは彰人が勝手に言ってるだけで…今まで私が朱音ちゃんに変なことしようとしたことなんて無かったでしょ!?」
「……結構たくさんあったような気がするけど…」
朱音から見たらどう感じたのかなんてことは知る由もないので分からないが、彰人の目から見れば優奈は朱音と仲が良い……それは間違いではない。
しかしそれと同時に、優奈の方がいつ朱音のことを愛でてやろうかと獲物を狙いすます狩人の目をしていることもよく知っているのだ。
その視線が意図している目的に関しては、今更語るまでもあるまい。
第三者から見て分かることと言えばせいぜいが碌でもないことを目論んでいるということくらいのものだろう。
そしてそれは張本人である朱音をしてもこれまでの経験から見破られてしまったようで……彼女から怪しげな目を向けられた優奈も焦ったような口ぶりで弁明していたが全て自業自得である。
というより、今まで見破られていなかったことの方が奇跡のようなものだったのだからこれを機会に反省してほしい。
「…まぁ優奈と帰ること自体は嫌じゃないから、別にいいよ。一緒に帰ろう?」
「あ、朱音ちゃん…! 流石私の親友! 信じてたよ!」
しかしそれを含めた上で朱音はさして気にしていないとでも言うのか、ふっと微笑を浮かべた後は優奈を受け入れるように優しき言葉を掛けていた。
そんな彼女の言動を受けた優奈はというと、感極まったかのように一転してパアァッ!と一気に明るさを取り戻していったが……全く調子がいいことやら。
朱音がそれ以上は何も言わなかったからこちらも特に言及はしないが、普通なら呆れ果てられていてもおかしくはないというのに。
「という事だから彰人君、今日は優奈と一緒に帰っちゃうね。色々と心配してくれてありがとう」
「朱音がそれでいいなら俺から言うことは無いけどさ。とにかく気を付けて帰れよ」
「うん、彰人君もお邪魔させてくれてありがとうね。皆と一緒に勉強出来て楽しかったよ」
だが、そうすると朱音が判断したことであるのなら部外者でしかない彰人は挟む口を持っていない。
これが危険性のある事柄が絡んでいるのならともかくとして、朱音にしても友人である優奈との帰路を邪魔することは無粋でしかないのだから。
(…いや、ある意味優奈も危険だと言えなくも無いから困るところなんだけどさ。いくら何でも帰り道でそこまで暴走することはない……はずだ)
…頭の中では複雑な懸念点が浮かび上がってきてしまったが、その辺りは彼女たちの動向を信じるしかあるまい。
優奈とて友人に対する最低限のセーフティラインくらいは意識しているはずだ。
そこを信じるのであれば、向こうだって無茶苦茶なことはしでかさないと……思いたいところだ。
「そんじゃ彰人、また学校でな!」
「あいよ。無駄な寄り道とかすんなよな」
「そんなことしないっての。じゃあまたな!」
彰人以外の三人が帰宅する準備も整い、自宅の玄関先にて最初に帰っていく航生の見送りをしていた彰人は大きく手を振りながら別れの挨拶を済ませてくる友の後ろ姿を見つめながらその横にいる人物へと視線を移らせた。
「…朱音ちゃん、遅いねぇ。何してるのかな」
「さっきまで荷物まとめてる感じだったし、まだ片付けでもしてるんじゃないか? そんな時間もかからないと思うけど………っと、噂をすれば来たな」
扉の横にある壁にもたれかかりながらまだ来る気配を見せない朱音への思いを募らせる優奈と他愛も無い会話を繰り広げながら待っていた彰人だったが、それも少しすれば終わりを告げる。
玄関先の向こう側から聞こえてくるパタパタと響くような、軽い足音はそれを予兆していた。
「ごめんね優奈、少し遅れちゃった。待った?」
「全然待ってないから気にしなくても大丈夫だよ。それより忘れ物とかはしてない?」
「それは平気だと思うよ。何回も確認したからね」
「そっか! じゃあ帰ろう! …彰人、今日はありがとね。楽しかったよ!」
「はいはい……くれぐれも朱音に構いすぎないようにな」
「難しいことを言ってくれるね……まぁ考えておくよ。また明日!」
「あっ、彰人君。今日は誘ってくれてありがとうね、楽しかったよ。ばいばい」
「ん。帰りも気を付けてな」
航生を見送り終わり、残すところは朱音たちだけとなった今だがこの集まりも軽く挨拶を済ませてしまえば終了だ。
それをどこか物悲しく感じてしまう心はあるものの……その感情は表に出すことなく別れを告げた。
優奈と横並びになって歩いていく、少しずつ離れていく朱音の後ろ姿を見ながら言い表しにくい哀愁を感じつつも、高校生にもなってそんなことに尾を引かれてばかりなんて情けないと意識を切り替えようと家のドアノブに手を掛けた。
「…夜飯、何食うかな。今から買いに行くのも少し面倒だし……」
独り言をぶつぶつと無意識につぶやきながら扉を潜り、閉めようとする。
先ほどまでの寂しさを忘れようということに意識を集中させていたためか、今の彰人に周囲の情報はさほど目に入っておらず───そこに近づいてくる彼女のことも、また気づくのが遅れてしまった。
「──彰人君、ちょっとだけいいかな?」
「…え? 朱音!? 何やってんだよこんなところで。優奈と帰ったんじゃないのか?」
家に入るために扉を閉める直前、聞こえてきた微かな声。
その声の主が誰なのかと一瞬脳が理解を拒みでもしたのか混乱しそうになってしまったが……間違えようもない。
慌ててドアを再度開き直し、何故まだここにいるのかという疑問が際限なく湧き上がってくるのを抑えながら見てみれば…眼前に立っていた朱音の姿が視界に入ってきた。
「いきなりごめんね。優奈には少し行ったところで待っててもらってるから、私だけ戻ってきたんだよ」
「そうか……ってそうじゃなくて、何で戻ってきたんだよ。忘れ物でもしたのか?」
「忘れ物というか……どっちかと言うと言い忘れたことかな。ちょっと彰人君に伝えたいことがあって」
「伝えたいこと…?」
数十秒前と何ら変わらない出で立ちで佇んでいる彼女の風貌からおかしなことは感じ取れなかったが、わざわざ引き返してきたという事は何か取り忘れたものでもあったのだろうか。
そう思って忘れ物があったのかと問いかけてみたのだが、どうやら目的はそこではないらしい。
彼女がここに来たのは彰人に伝えたいことがあるからと言うが、一体何を言いたいのかと頭の中で考えてみればその答えが出る前に朱音の方からとある要望が飛んでくる。
「うん。だから彰人君には少しだけ屈んでもらっても良いかな? その方が言いやすいから」
「屈むって……まぁそれくらいならいいけど。ほら、これでいいか?」
「そうだね。そのくらいで大丈夫だよ。それじゃあ……」
朱音が望んできたのは彰人に対してあることを伝えるために屈んでほしいということ。
別に用件を話すのであれば無理に背を縮める必要も無いと思うのだが、確かに考えてみれば二人の身長差は大きく離れているというわけではないがそこそこには存在している。
これが普通の内容であるのならともかく、彼女の様子からして他の者には聞かせたくない類のものであるようだし……その辺りを考慮すればなるべく小さな声で届くようにしておきたかったのだろう。
すると彰人が屈んだのを見て満足げに頷いた朱音は、少しずつ彼の耳元に自信の唇を近づけて気になる用件を話してくれた。
──そして、その内容に彰人はまた驚かされることになる。
「…さっきのコンビニの帰り道で私の分の袋を持ってくれたこと、ありがとうね。それとお菓子の感想を言ってくれたことも凄く嬉しかったからそのお礼。二人がいる前では言えなかったけど……あの時の彰人君、すっごく格好良かったと思うよ」
「な……っ!」
「ふふっ。私が言いたかったのはそれだけだから、もう行くね。じゃあね」
口調も声色も、囁かれた声は普段と何一つとして変わらないもの。
だというのに……その声の奥に隠された感情からは、とめどないほどに蕩けそうな甘さが満ち溢れていたようで、不覚にも心臓を大きく高鳴らされてしまった。
そしてそう言い終えると自分のやりたかったことは果たせたからか、早々に朱音は先ほどの帰り道を辿って行ってしまったが……残された者の心境までは数秒前までとはまるで違うものとなってしまっていた。
「…あんの馬鹿。最後の最後に爆弾置いていきやがって…!」
あまりの衝撃に数秒はまともな思考すらまとめられず固まってしまっていた彰人だったが、それも時間が経てば徐々に状況は飲み込めてきた。
…不意打ち気味に放たれた言葉の威力はこちらの想定を遥かに超えてきていたし、それによってもたらされた被害は甚大だ。
今も尚、朱音の言葉によって収まる挙動をまるで見せない自分の心臓を恨めしく思いながらも、それを引き起こした少女のことを思い出して頬を熱くさせるのだった。
耳元で発せられた言葉。そこに掛けられた吐息や甘さを思わせる感情の発露。
おそらく当人はそんなことを意図せずやっているのだろうが……だからこそ、意識せずともあれだけの蠱惑的な魅力を引き出せる朱音には敵う気が微塵もしないのだ。
この後、彰人はしばらく朱音の言葉を思い出して悶々とする羽目になったそうな。




