第百六十四話 いつかの話
「…少しは落ち着いたか、朱音?」
「う、うん…まだちょっとショックだけどね。もう大丈夫…なはずかな」
原因こそ不明だが、朱音が猫に腕を振り払われてからショックを受けてから数分後。
あれから少しの間は彼女も項垂れてしまい、まさしくガックリといった様子で周囲に沈み込んだ空気を滲ませていた。
そんな彼女を目の当たりにして彰人が静観しているわけもなく、彼の方も必死にフォローは継続していたわけだが…正直に言うと彰人も驚いていたのだ。
というのも、朱音はこれまでの光景を見ていても分かり切っていた事実だが全般的に動物には好かれやすい少女なのだから。
朱音がそこにいればたちどころに猫が集まってくるほどであり、その雰囲気に釣られて更に多くの猫が集ってくる。
それが今に至るまでに見ていた朱音という少女が持つ魅力ゆえの性質……だったというのに。
このカフェにやってきてから唯一、彰人の傍にやってきてくれたミロだけは朱音にも懐くような気配を一切示すことが無かったのだ。
他のキャストでもある猫であればわずかなりとも好意を抱かれていた朱音が、だ。
はっきり言って眼前で繰り広げられた光景には彰人も驚かされたし、猫相手とはいえよりにもよってあの朱音が真っ向から拒まれるようなことなどあるのかと一瞬目を疑いもした。
「でも…ごめんね? せっかく彰人君がミロちゃんと一緒に遊んでたのに…私が余計に構っちゃったせいでどこか行っちゃったもんね」
「気にする必要なんてないって。猫は気まぐれなものだし、元々俺のところに来てくれたのも何となくだろうからな」
そして後々の現状についてだが、今彰人の傍にミロの姿はない。
彼女の所在についてはあの後すぐにどこかへと逃げるようにして移動を開始してしまい、ふと目線を動かしてみれば近くにあるキャットタワーで丸まっている光景が確認できる。
どうやらあちらの興味は既に彰人から昼寝へと移ってしまったようだ。
それを残念とは思わない。
朱音にも伝えた通り、向こうから近くに来てくれるのならもちろん嬉しいし多少は戯れたいとも思うが、無理に深追いをしようとまでは考えてもいないのだ。
仮にそのようなことをしてしまえば猫には粘着質なことをしてくる人物として覚えられてしまうだろうし、双方にとっても良い結果にならない。
なので彰人もここからミロが去ったことに関して朱音に原因があるなどとははなから考えておらず、むしろ立ち去って当然のものだと思っているくらいだ。
「だからそんなに気負わなくてもいい。…ほれ、これでも飲んで一緒に楽しもう」
「…うん、そうだね。せっかくここに彰人君と来たんだもん。いつまでも落ち込んでばかりいたってしょうがないよね」
「その意気だ」
ゆえに彰人は朱音を責めない。…それどころか、ある意味この状況をポジティブに捉えていたりもする。
ものは考えようとも言えるが、ここまで彰人と朱音は少し互いの会話量が減ってしまっていた。
彼も彼女も、どちらも目の前に歩き回っている猫へと意識が集中していたためにどうしてもそちらへ注意は寄ってしまい…必然的にここに来てから二人の間で行われたコミュニケーションは減少してしまったわけだ。
それ自体が悪いというわけではない。
猫カフェに訪れているのだからキャストの猫に夢中になるのは当たり前のもので、正しい反応なのだから。
だがそれでも…彰人の意見として、やはりせっかく二人で来たデートなのだから朱音と過ごせる時間を大切にしたいとも思っていた。
そんな折に偶然とはいえ巡り巡ってきた現在。
彼女がミロに突き放されてショックを受けるというアクシデントこそ発生したものの、結果だけを見ればこの場に来て初めて彰人と朱音はのんびりとした二人の時間を過ごせている。
そして彰人も…自らの隣に座りながらドリンクを口へと運ぶ彼女の姿を見て、思わず笑みがこぼれてしまう。
「…? 彰人君、どうかしたの?」
「ん? …いや、別に何でもないけどな。ただこうして見てると、やっぱり朱音が可愛く見えるなって思っただけだよ」
「…っ! …いきなりそういう事を言うのはズルくないかな」
「ズルくはないだろ。本当にそう思ったから言っただけなんだし」
「だから…そういうのがズルいの!」
すると、短い間だったとはいえ見つめていたから視線を感じ取られたのだろう。
隣でドリンクを味わいつつも敏感に彰人の向けていた視線を察知した朱音から何かあったのかと問われ、そこで彼自身の胸中を語れば…どうしてか叱られてしまう。
無論、こういったリアクションを朱音が取る時は大抵が照れ隠しであるというのは把握しているため拗ねたように反論されても微笑ましく思うだけだ。
実際横から覗く肌には微かに赤らみが増しているため、彼女も口ではあのように言っているもののどのように捉えているかは一目瞭然。
これもある意味では二人なりの微笑ましきコミュニケーションの一環である。
…その分、辺りに振りまかされている甘さの濃度がとてつもないことになっているがそこに関しては気にしたら負けというもの。
「…お、そんなこと言ってたらまた来てくれたみたいだぞ?」
「え…? あっ、本当だ……可愛いねぇ」
だがそんな甘さに満ち溢れた時間もいつしか区切りはつくもので、次にその瞬間が訪れたのはさほど時間も経たない頃合い。
ふと彰人が視線を向けた先。朱音の真横へと新たに近づいてきた縞模様の体毛をした猫の存在によって二人の意識は再び誘導された。
「なーに? 私のところに来てくれるなんて…大人しい子だし、この子は人懐っこいのかな?」
「というよりは朱音に構ってもらいたくて来たんじゃないか? …相変わらず、よく猫に懐かれるよな。朱音は」
「そうだったら嬉しいけどね。…ほらほら、これが気持ちいいの?」
タイミング良く傍にやってきた猫を彼女が拒むわけもなく、それまでは少し沈んでいたように見えた表情も明るくして顎下を撫でる。
そうすれば心地よさそうに鳴き声を上げる猫の様子に朗らかな笑みを浮かべて…朱音は優し気な顔を露わにする。
…そしてそんな時、彰人が不意に思ったことが一つ。
「…なぁ、朱音って自分で猫を飼ってみたいとかは思ったりするのか? 今はペットを飼ってたりはしてないんだろうし」
「え? また突然だね」
「悪い、少し気になったんだよ。…それだけ猫が好きだって言うなら、自分で世話をしてみたいって思ってても不思議じゃなさそうだからさ」
彰人がこの折に気になったのは、今も尚夢中で猫を愛で続ける彼女の内心。
これまでの付き合いと素振りから朱音が猫という動物を愛しているのは疑うまでもなき事実であるが、そうだとするのなら彼女自身で飼ってみたいと思ったこともあるのではないか。
ふと浮かんだ疑問であったが、一度考えてみると彼女もそういった思考に至っていたとしても何らおかしくはなさそうだと思った。
「うーん……そうだねぇ。確かに将来的には飼ってみたい、かな? そういう生活も楽しそうだもん」
「やっぱりそう思うこともあるんだな。でも、猫ってこうやって愛でる分には良いけど世話となると大変そうだよな…一人だと手が回らなくなりそうだし」
「……うん? あっ、そっか。勘違いさせちゃったね」
「…勘違い? 本当は猫を飼いたくないってことか?」
彰人がそうやって投げかけた質問に対し、朱音は少し考えるような素振りを見せた後で返事をしてきた。
そんな彼女の答えは…ある意味予想通りと言うべきか、いつかは自分でも猫を飼ってみたいという意思事態はあるとのこと。
…だが、その後で更に投げかけられた言葉である勘違い云々というところは彰人も聞き流すことは出来そうになかった。
ここまでの流れから何かを勘違いするような要素など無かったように思えるが、一体どうして朱音はそんなことを言ってきたのか。
その疑問への解答はこれまた何故か……少し悪戯めいた笑みを浮かべた彼女から語られるものであった。
「えっとね。猫を飼いたいっていうのは嘘じゃないけど…そこじゃなくって───将来、彰人君と一緒に暮らせる時が来たら、そういう生活も楽しそうだなって言いたかったんだよ?」
「……っ!?」
「…ふふっ。ねっ、そう思わない?」
(…朱音のやつ、やってくれたな……)
──彰人の傍へと近寄り、他の誰にも聞こえないようにと配慮して小声で囁かれた朱音の言葉。
しかし、そこで語られた内容は…どう考えてもそういう意味が込められているとしか思えないものであって、間近で聞かされた彰人は混乱のあまり思考が一瞬空白となった。
囁いてきた張本人は意味を理解しているのかいないのか…曖昧な笑顔を浮かべたまま言葉を続けていたが、正直それどころではない。
突然の朱音による攻めにはさしもの彰人でさえ対応しきることは出来ず、否が応でも暴れまわる心臓を抑え込むのにひとまずは全力を注ぐことになるのであった。