第十六話 溢れた嗜好
「はっはっは! いやーごめんなさいね! 私も思わず理性が吹っ飛んじゃったわ!」
「あぁいえ、確かにびっくりはしましたけど…とりあえず何かをされたってわけでも無いですから、大丈夫です」
「あ、本当? じゃあせっかくだし、お近づきの証に今夜私の家にでも……」
「……また頭叩かれたいんですか? 佳奈さん」
朱音たちが来店してから数分後。
あれから混乱の渦中にあった朱音を何とか落ち着けたり、相変わらず暴走しかけている佳奈に無理やり理性を取り戻させたりと紆余曲折こそあったが、何とか現在は場も静けさを取り戻して朱音と優奈はテーブル席に着いている。
…いやはや、本当に大変だった。
今思い返してみてもあれだけ大暴れをした佳奈を止めるために労力を使い果たしたというのに、そこに追い打ちをかけるように朱音を落ち着けさせなければならないのだ。
控えめに言っても限界。さらに言うのであれば混沌を超えた何かだっただろう。
「それにしてもさぁ……彰人! あんたこんな可愛い子が友達なら言いなさいよね! 思わず襲っちゃうところだったでしょうが!」
「それに関しては佳奈さんが衝動を抑えればいいだけの話では? 俺は別に悪くないでしょ…」
「それは無理よ! 私の中の溢れるリビドーは止められるもんじゃないもの!」
「堂々と言い切らないで欲しいんですけど……」
あまりにも理不尽なキレ方をされてしまったので自らの雇い主という立場さえ忘れて呆れの感情が湧き出てくるのが留まることを知らないが、それにしてもさっきの一幕は焦ったものだ。
…そう。これこそが彰人が朱音を店に訪れさせないようにしていた最大の理由であり、最も危険視していた状況。
完璧とさえ言っても差し支えないほどの美貌を持ち、性格だって決して悪いものではない。街を出歩けばそこかしこから男の視線を独り占めすること間違いなしの佳奈が持っている、唯一にして最大とさえ言える欠点。
それは彼女が……無類の女好きであるという事実だった。
しかも、その嗜好はとんでもなく強い衝動を携えているというおまけ付きで。
「いい加減その衝動もどうにかなりませんかね? 流石にいちいち止めてるこっちの身にもなってほしいんですけど…」
「これに関しては私の方でもどうにかなるものじゃないわね。そこに美しい女性がいたら逢瀬を重ねたくなる……当然のことでしょ?」
「そんな『当たり前でしょ?』みたいなノリで言わないでください。全く共感も出来ませんから」
こうすることが至極当然である、といった口調で淡々と言いくるめてこようとしてくる優奈だったがそんなことを言われたってまるで理解できる考え方ではない。
一応こちらとしても他人の嗜好にとやかく言う筋合いも持ち合わせているわけではないので、その辺りに関しては放っておいてもいいかと思っていた時期も彰人にはあったが……そうするためには如何せん佳奈の衝動を発露させるインターバルが短すぎるのだ。
今となっては何とか向こうも抑えられるようになったのか頻度は減ってきたものの、かつての酷い時には週に一回のペースであの調子になっていたので流石にここまで来ると口出しもしたくなるというものだ。
「それに私だって、流石にお客にまでは手を出さないように気を張り続けてるのよ? それこそとんでもない美人か美少女でも来ない限りはばっちり耐えられるわ!」
「……まさにその例外が現状で起きてた所なんですが」
「そこはあれよ。訪ねてきた子が美少女過ぎたのが駄目だったわね」
「サラッと責任転嫁しないでください。あと、格好つけたところで手遅れですから」
真顔で言ってくるので思わず流しそうになってしまうが、どの口が喋っているのかと問いただしてやりたくなる。
店にやってきた人物には手を出さないように……なんて口にしているがそもそも客相手にそんなことをやった時点で一発アウトであり、情状酌量の余地すらない。
一応本人なりに配慮するべきラインは見極めているつもりなのだろうが、その見極めるべき点が微妙にずれているので結果的におかしな方向に突き進んでいるだけなのである。
さっきの言動に関してまるで反省した様子はないし、それどころか責任の所在が朱音にあるとでも言うような口ぶり……駄目だこの人。全く改善するつもりがない。
朱音が大して気にしていないと言ってくれているからこそこの程度の騒ぎで済んでいるが、もしこれが別人だったらどうなっていたことか………
「本当に悪い、朱音。俺の方からもっと強く言っとくべきだった……いや、最初からしっかり伝えておけば良かったな」
「ううん。何も言わずに訪ねてきたのはこっちだし……彰人君が悪いわけじゃないよ。だから謝らなくてもいいよ」
「…そうか。そう言ってくれると助かる」
…本当に、今回は朱音の懐の深さに助けられてばかりだ。
彰人も間違いなく今日この時の一番の被害者となってしまった朱音へと素直に謝罪の意を伝えれば、彼女はそれほど気負った様子もなく普段と変わらない声色で気にしなくていいと言ってくれた。
もちろんその言葉に甘えるばかりで何も詫びをしないというのは朱音に対しても失礼すぎるが、ひとまずは穏便に場を収めることが出来たと言えるだろう。
…それとさっきからメニューを楽しそうに眺めてばかりの優奈。そっちにも原因はあるんだからお前もしっかり説明しろ。無視するな。
「…まぁ改めて紹介するまでも無いとは思うけど、念のために言っておくよ。ここが俺のバイト先でもある喫茶店で、この人は店主の皆瀬佳奈さんだ。一言で言えば……変人だな、うん」
「はいはーい! 皆瀬佳奈って言います! さっきは色々と本能が暴走しちゃったけど基本的に何もしないから安心してねー……って彰人。今変人って言ったかしら?」
「言いましたよ。佳奈さんはそうとしか言い表しようがないでしょ」
「ほーう……どうやら私からの愛の鞭を味わいたいようね…」
「…ぷっ。ふふふ……っ」
しかしここまで来るのに随分と時間を要してしまったが、何はともあれやっと一息つけるようにもなったので軽く挨拶も兼ねて佳奈を朱音に紹介しておく。
…あれだけのことをされておきながら今更と思われるかもしれないが、こういう時だからこそ初心に帰ることは意外と重要だったりするのだ。
まぁそんな紹介の中にあってぽつりとこぼした一言に佳奈は引っ掛かりを覚えたようだが……事実しか言っていないので否定する意味もない。
後々恐ろしい目に遭わせられるかもしれないが、それはそれとして紹介内容に虚偽を混同させるわけにはいかないのだから。
そういった考えあっての言葉だったわけだが……何故か一連のやり取りを席に座りながら聞いていた朱音はふっと笑みを吹き出し、楽し気にこちらの会話を傍聴していたようだった。
「…あっ、ごめんなさい。笑うつもりはなかったんですが……二人のやり取りが少し面白くて……」
「…ほら、笑われてますよ。佳奈さんの挙動がおかしすぎるから」
「別にそれくらいいいわよ。他の人ならともかく、朱音ちゃんほどの美少女に笑顔を浮かべられたんなら本望だからね!」
「……やっぱ駄目だわ、この人」
それでもすぐに自分の態度が失礼だということに思い至ったのだろうか。
朱音の方もそれまで上げていた笑い声を引っ込めると律儀に謝ってきたが、別にその程度のことを気にするような器の小さい人間はここにはいない。
それを気にするどころかむしろここにいるのは美人、もしくは美少女であればどんなことでも受け入れることができるくらいには寛容……あるいはそれすら飛び越えた許容量の広さを持った者なのだから、心配する必要性など皆無である。
全くぶれることの無い女性に対する執着はもはや流石とすら評されるところだが……それに巻き込まれる身としては、何だか複雑ですらあった。
容姿は完璧。器量だって悪くない。
そんな世の男を魅了してやまない色気すら兼ね備えた女性である佳奈の特徴は……飛び抜けた女好きというものでした。
多分、読んでいく中でほとんど察せられていたとは思いますがイメージとしては残念美人が近いかもしれない。
ただ彼女の名誉のためにも捕捉をしておくと、別に佳奈も接客中は誰彼構わず襲い掛かっているわけではありません。
本人も言っていましたが、単純に彼女の理性を吹っ飛ばすレベルの美少女か美人が来てしまえば暴走するというだけで、それ以外の時は普通です。
…まぁ、その時に溜め込んだ欲望を発散するために休日なんかは街に出ると、見た目麗しい女性をナンパなどして愛を確かめ合っているとのことですが。
駄目だ。擁護するつもりだったのにより酷い情報が追加されただけな気がする。