第百五十五話 聖夜の予定
「も、もう無理…! 手が、手が痺れてきた…!」
「ふふふ、大丈夫だよ優奈。人はそんなに簡単に限界なんて来ないんだから。さっ、もうひと頑張りしよう?」
「ひ、ひいぃ…!? あ、朱音ちゃんの微笑みが怖いよ!? 彰人、ちょっと助けて!?」
…朱音と思わぬ形で癒しの時間を過ごした後。
あれから少しすれば航生たちが戻ってくるような気配を察知したため、名残惜しくはあったが二人も一旦距離を離して元の位置へと戻っていった。
まぁそれでも自分たちがいない間に何かがあったということは悟られたのか、優奈に『あれれ~、何だかお熱い空気がしますね~?』なんて口にされてしまったが。
もはや見慣れた日常風景とも言えるこちらへの煽りに対し、今更何かを思うつもりもない。
朱音の方は自分たちがくっついていたのだということを悟られて気恥ずかしかったのか顔を赤らめてしまっていたが、彰人はこういう時に過剰なリアクションを取ればなおさら揶揄われるだけだと知っている。
なので特に羞恥に悶えるような素振りは見せず、淡々と『そうだよ、朱音を愛でてたからな』とだけ伝えておいた。
…そう言ったら何故か航生も優奈も、二人そろって思わぬカウンターでも食らったかのような反応を見せていたのが少々気になるところであったが。
別にいいだろう。そんなところまで気に留めていたって大した事情があるわけでもあるまい。
なお、優奈に間接的にでも揶揄われた朱音はその時に恨みでも生まれてしまったのか…仕返しとでも言わんばかりに彼女への勉強指導をよりスパルタなものとしていた。
…現在進行形で彰人に助けを求める声が聞こえた気がするが無視である。
あの恐ろしい吹雪すら感じさせる冷徹なオーラを放つ朱音の傍に行く勇気は彰人にはない。
たとえ…最愛のパートナーであっても、わざわざ氷点下の怒りには触れたくないのだ。
その後も悲鳴を上げ続ける優奈には心の中で謝りつつ、彰人は彼女の静かな怒りがこちらに向かないことを切に願うのであった。
◆
「…酷い目に遭った。彰人、何で助けてくれないのさー! こちとら勉強尽くしで大変だったんだけど!」
「それはお前の自業自得だろうが。朱音もそっちの心配して教えてくれてるんだから、諦めて受け入れろ」
「それは分かってるよ! …でも、いくら何でもきつかったんだよ!」
勉強会も区切りのいいところまで辿り着き、そろそろ終わりかという雰囲気が漂い始めた頃。
ようやく朱音の試験勉強地獄から解放されたらしい優奈が倒れ込むのと同時に恨み言を吐いていたが、それは知ったことではない。
元を辿れば優奈にこそ原因があるのだから同情の余地もないのである。
下手につつけば巻き込まれるのはこちら側なのだ。
そこはしっかりと認識しておかなければ。主に朱音の怒りを誘発しないためという意味合いでも。
「まあまあ、優奈もここまで頑張ってきたんだし今日はここで終わりなんだろ? もうゆっくり休んでいいと思うぞ?」
「こ、航生…! 流石私の彼氏、愛してる!」
しかしそんなことも眼前の二人にとっては愛を育む絶好のチャンス程度にしかならなかったらしい。
それまでは項垂れた様子で反省したかのような素振りも見せていたというのに、彼女の恋人でもある航生が話しかけた途端にこれなのだ。
彼に飛びつくようにして己の頬を擦り付ける優奈のことを航生も満面の笑みを浮かべながら受け入れているし、あの様子では既に先ほどの厳しさなど忘れ去っているに違いない。
…切り替えが早いと言えばそれまでだが、それにしてもテンションの落差が急降下すぎてこちらの方が呆れてしまう始末だ。
「…ったくあいつらは。こういう時でもくっつくのは変わらないんだよな」
「あはは…まぁそれが優奈の良さでもあるからね」
「だとしてもな……もう少しこう…加減を覚えてもらいたい」
そんな二人の微笑ましい……微笑ましいと言えなくもないやり取りの一部始終を眺めている側としては流石に辟易としてきてしまいそうだ。
彰人の抱いた感想はそのようなものだったが、どうやらそれは…近くにいたもう一人も同様だったらしい。
いつの間にか近づいてきていた朱音も少々呆れるような表情を浮かべていたので、向こうも似たような感想を持ったのだろう。
苦笑いをしながら仲睦まじく絡み始めたカップルの一幕を眺める朱音の表情から見える感情は大半が呆れであったし、間違ってもいないと思う。
——その後、優奈と航生の絡みがまたもや一段落するまで彰人たちは待たされることとなる。
区切りがつくのと同時に素晴らしく爽やかな笑みで、航生から『待たせたな!』なんて言われた時には少しムカついたのではたいてやったがそれ以外は概ねスムーズな流れであった。
わざわざ人前で見たくもないやり取りを見せつけられたのだ。
これくらいの仕打ちは甘んじて受けてもらう。
「いってぇ……まだ頭がヒリヒリするんだが…」
「お前らがいつまでもバカ騒ぎしてるからだろうが。そっちが周りにも配慮してくれたらこんなことしないっての」
彰人に引っ叩かれた頭頂部を撫でるようにして痛みを訴える航生であったが、そこは自業自得なので特に情けもかけない。
一応隣に座っている優奈が心配そうに見つめてはいるので、万が一の際には対応なんかはそちらに投げればいいだろう。
「二人は相変わらず元気だよねー。あっ、そうだ! ちょうど時間も空いたしこれ聞きたかったんだけどさー……二人とも良い?」
「…? なぁに、優奈?」
そうすれば彼女もつい先ほどまでは当事者側だったというのに、今となってはまるで傍観者にでもなったかのような振る舞いをしている優奈が口を開いてきた。
立場のすり替えがあまりにも見事だったため、朱音も特に違和感を覚えることなく言葉を返していたが…今は別にいいか。
それよりも彼女が尋ねてきた中身を聞いておこう。
「これ聞いておきたかったんだけどさ。二人は今度のクリスマスとか予定入ってたりするの? やっぱりデートとかもう決めちゃってたりする?」
「クリスマス…? ううん、まだそこは決まってないけど…」
「あっ、本当!?」
優奈が聞いてきたのは目前まで迫ってきた定期試験……よりもさらに後のこと。
苦難に満ちた試験を乗り越えた先にて待っている多くの学生が心待ちにしているだろう冬休み。その中でも特別な日に位置するだろう…クリスマスに関することであった。
そんな彼女に言われて彰人も今しがた思い至ったが、この後に控えた試験にばかり集中していてそれがあることを失念していた。
…勤勉な学生としては正しいスタイルなのかもしれないが、これだけの大イベントを忘れかけていたというのは健全な高校生としてはアウトだったかもしれない。
だがそう言われて考え直してみても、特に今に至るまでにこれといった予定は挟み込まれていない。
一応彰人の考えとしても、恋人と過ごすには最適なこの日なので朱音と出かけてみようかという案が浮かび上がってきたが…それよりも前に優奈が嬉しそうに口角を上げていた。
「じゃあさ、二十五日のクリスマスは四人で集まってパーティしない? こういう時じゃないと集まれないし、いいよね!」
「…パーティ?」
「そうそう! 元々は私と航生の二人でやろうかーって話になってたんだけど…予定が空いてるなら朱音ちゃんと彰人もどうかなって! イブの二十四日はお互い好きにしていいから彰人とも二人で過ごせるだろうし…どう?」
「……そうだね。どうしよっか、彰人君?」
向こうから持ち掛けられた誘いはこちらの予定にも配慮してくれていたのか、聞いてみてもそれほど大きなデメリットがあるようなものではない。
朱音と二人で過ごす時間を縛ってしまうことにならないように、クリスマス前日の24日は空けておきながらその後でパーティを行う。
そのパーティも今しがた思いついたものではなく、前々から航生と計画していたものだというので…そこらを加味しても彰人が否定する要素は特になかった。
「いいんじゃないか? 朱音が参加したいって言うなら止めはしないし、俺もしっかり付き添うよ」
「……じゃあ、せっかくだから参加させてもらおうかな」
「やった! なら今度また計画しないとねー! えっと……パーティする場所とか持ち物とか…」
参加するか否かは朱音の意思に一任することにすれば、おずおずとした様子ではあったが無事にそちらにも合流することが決定した。
「…良かったのか? 俺が言うのも何だが、間宮さんと二人きりで過ごすチャンスだったろうに」
「ん? まぁいいだろ。別にイブでも朱音と過ごす時間は確保できるし…それに、あんだけ楽しみな顔を見れたんなら後悔なんてないさ」
「…そうかい。すっかりベタ惚れなご様子で」
「……うるせぇな」
無事に朱音とクリスマスの時間を共有することが決まった優奈は彼女と共にパーティの予定を練り始めていたが、その様子を温かい目で見守っていた彰人に航生が声を掛けてくる。
彼が懸念していたのは今のやり取りによってこちらの予定を縛り付けてしまうことだったようで、そこを案じてくれていたらしい。
こういう時は無駄に視野が広い友であるが、そこについては問題なしだ。
彰人とて、朱音が悩みがちな顔を浮かべながら尋ねてきた時点でその点に関しても考えはしていたし、考慮したうえでゴーサインは出している。
そもそも二十五日に予定が入ったとしても優奈が気を遣ってくれたおかげでその前日はフリーなままなのだから、そこで彼女との時間は満喫すればいいのだ。
なのでそれらのことを伝えれば向こうも納得したのか、その次の瞬間には普段通りの調子がいい言動へと戻っていった。
…ともかくとして、意外な角度から定められたスケジュールではあったが大した問題もない。
クリスマス。たった一日ではあれど…メンバーを考えれば例年よりも騒がしい聖夜になることは確定事項だろう。
しかし、そんなことすら良い思い出の一幕として残るという予感だけは今この時から感じていたのだった。