第百五十四話 満たす想い
優奈たちも加えたメンバーで試験前の勉強に取り組むことが決定してからの流れは非常にスムーズであった。
まぁそれはそうだろう。
勉強会なんて仰々しい名前こそついていてもやることは試験範囲内で各々の苦手項目を洗い出していくだけだし、ひたすらに知識を詰め込んで問題を解いていく。その繰り返しだ。
一応は彰人と朱音がサポート役として待機はしているものの、二人とてそれぞれで勉強するところはあるのだから常に助力をしているわけにもいかない。
なので大まかな流れとしては彰人たちの手が空いた際に航生及び優奈の質問を受け付け、向こうの分からない部分を可能な限り削り取っていった。
この調子なら試験当日を迎えても最低ラインは超えられるだろうし、当人のやる気次第ではあるが物量を詰め込んでやればある程度応用も出来るようになるだろう。
…あくまで本人のやる気次第なところは変わらないので、そこについては手を出すこともできないのが何とももどかしい部分ではある。
まぁ仮にそのせいで点数を落としたとしても、ここまでやって点が下がったのならばもうそれは完全に張本人の責任だ。
諦めて補習なり何なりを受けてもらうしかあるまい。
「…つっかれたー…! もう手が動かせねぇ…」
「あ、朱音ちゃんが休ませてくれない……いつも優しいだけに、淡々と勉強させて来るのが怖い…!」
そう彰人が考えた一方で勉強に励んでいた航生たちがくたびれたように弱音を出していたが、正直そこまで疲労困憊するような内容でもなかった。
彼らがやっていたのはひたすらに基礎演習というか、そもそもの根本的な土台からして覚えているかも怪しかったのでとにかく基本部分の理解に努めさせたのだ。
なのでそこまで頭を使うというわけでもなく、どちらかと言えば体力的な消耗が大きかったようで…ようやく一段落すると二人同時に机に突っ伏していた。
「まだ終わったわけではないけどな。一旦区切りがついたってだけだし、全体の量で言ったら半分にも届いてないし」
「ここでそんなこと言うのやめろよ!? …うぐおぉ……! こんだけ頑張っても終わりが見えないとは…!」
「勉強っていうのはそんなものだ。さっさと受け入れて本腰を入れた方が楽だぞ」
ただ、そんな倒れ込むようにして疲労を口にする彼らと比較して彰人は未だに黙々とペンを走らせている。
その表情には目立った疲れも見えず、ましてや無理をしているような気配すら感じられない。
目の前で友人たちが明らかに疲れが蓄積しているという風貌を晒しているというのに、こちらは微塵も消耗を感じさせないというのは少々違和感もあるが…特におかしなことでもない。
これは単に彰人が普段から日常的に勉強に取り組んでいるため、自習をする際のペース配分や小休憩の使いどころを熟知しているというだけだ。
日々の積み重ねによって獲得した自分の最適なやり方を使っているだけなので、こればかりは日頃の努力の賜物というやつだろう。
「……私、休憩がてら飲み物でも買ってこようっと。ちょっと行ってくるねー…」
「俺も行くわ……少しは身体を休めてやらないとやってられんぞ…」
するとそれまでは意気消沈した様子で突っ伏していた二人がくたびれ切った声を出しながら立ち上がり、揃って教室の外へと出て行ってしまった。
発言からするに小休憩も兼ねてここを去っただけだろうし、すぐに戻ってくるだろう。
そういうことなら彰人は自分の勉強に集中するだけだ。
彼らが戻ってくるまで数分もないだろうが、そこは勉強量の密度でカバーである。
なのでここは心機一転。
友人の試験勉強サポートに注力していた集中力を己の学習に投じることとして、目の前に広げている問題集の山と向き合った。
——そうこうしていれば、しばらくは教室の中にカリカリというノートにペンを走らせる音のみが響く。
放課後になってからしばらく経っているということもあって既に彰人たち以外に人の姿はなく、時折聞こえてくる物音も問題集のページを捲る音のみ。
ある種、最も集中するのに適している環境とすら言える状況下でしばしの間彰人は眼前の問題を無我夢中に解き続け……ふと、どこかから視線を感じた。
ただ視線を感じたとはいっても嫌な感じがするものではなく、朝方に実感していた恨みがましい感情なんてものとは似ても似つかない気配だ。
それでも何を感じ取ったのかと気になりはしたので、顔を上げて確認してみれば…今まで彰人と同じように勉強に取り組んでいた朱音がジッとこちらを見つめていた。
「…どうした朱音。何か気になることでもあったのか?」
「あ、邪魔しちゃったかな? 別にそういうわけでもないんだけど…隣に行ってもいい?」
「…そのくらいなら許可なんて取らなくてもいいって。ほれ」
「うん、ありがと」
彰人へと目を向けていたのは彼女自身も無意識だったのか、気が付いたこちらが声を掛ければハッとしたように目を丸くしていた。
何か用があるのなら聞こうかとも思っていたが、様子を見る限りそういうわけでもなさそうなのでおそらく本当に意味はない行動だったのだろう。
だが、次に朱音から申しだされた言葉には特に迷うこともなく了承の姿勢を見せた。
何せ可愛い彼女の方から隣に座りたいと言われたのだ。
これを断るなど男としてどうかしていると思う。
「それで? 何で俺の方を見てたんだ?」
「うーん…何でって言われると難しいね。特に理由があったわけでもないから…強いて言うなら真剣に勉強してる彰人君を見てるのが楽しかったからかな?」
「…そんなところ見てて楽しいのか」
ちょこちょこと微笑みを浮かべながらやってきた朱音に席を差し出してやれば、彼女もそのまま彰人の隣へと座り込んだ。
その流れでどうしてこちらを見ていたのかと疑問を投げかけてみれば、あまり要領を得ない答えが返ってくる。
あちらも自分で理由を自覚しているわけではないらしいので仕方ないのかもしれないが、正直彰人の勉強風景など見ていても面白くはないと思う。
こちらとしては黙々とペンを動かしているだけだし、何か特別変わったことをしているつもりもないのだから。
…ただし、それとてあくまで彰人の主観によるもの。
彼が朱音のことを可愛く思っているように、彼女もまた…特別な視点を持っていても決して不思議ではない。
ゆえにこそ、次に彼女はこんなことを言ってきたのだろう。
「楽しいよ? 彰人君が頑張ってるところは素敵だなぁって思うし……それにね…」
「ん…?」
恋は盲目というやつなのだろうか。
彰人の視点では何気ない素振りであっても、朱音にしてみれば心を動かされる動作に早変わりするものなのかもしれない。
納得するのも難しい理論ではあったが、彰人とて朱音の一挙手一投足にはいちいち目を惹かれるのだから案外それに近いものなのかもしれないと解釈しておいた。
そうして彼なりに飲み込もうとしたところで…言葉を続けていた朱音は何故か周囲をキョロキョロと見渡し、誰もいないことを確認し終えると……彰人の耳元にて小声で囁いた。
「……そんな彰人君を見てるとね。すっごく格好いいなって思ったり…好きだなぁって気持ちが溢れてきちゃうんだ」
「…っ!?」
「ふふっ。…優奈と青羽君には申し訳ないけど、やっぱり…こうやって近くにいると彰人君のことが好きなんだって気持ちが強くなるね」
…そう言われた瞬間、彰人は驚きのあまり声を出さなかった己を褒めてやりたかった。
傍から聞けば惚気としか捉えられないような言葉ではあったが…それを口にする朱音の表情はまさしく幸福の真っ只中といった様子だ。
冗談のような気配は一切感じられず、どこまでも純粋な好意に溢れているからこそ…こちらもその真っ直ぐな感情を実感させられる。
「…それは俺も同じだよ。こうやっていると、朱音の存在が強く感じられて嬉しいって思う」
「そうなの? …だったら、もうちょっとこうしててもいい?」
「…あぁ」
…しかし、そう思っているのは朱音一人だけではない。
彼女は彰人の近くに来ることで彼の存在を間近に感じ、それによって湧き上がる多幸感を実感できると言っていた。
ならばそれは…彰人も同じことだ。
傍に近づいてきた彼女を見ればそれだけで愛しい相手の幸せそうな表情が目に入り、つられて笑みを浮かべてしまう。
こてんともたれかかるようにして体重を預けてきた朱音が倒れないようにとそれとなく重心を傾けつつ、彰人へと純粋な思いの丈を明かしてくれた彼女との時間。
思いもよらぬところからもたらされた二人きりの時間は…勉強の手が進むことこそなかったが、それ以上に満たされたもので埋め尽くされていたのだった。