第百四十八話 進んだ道
先ほどまで手を繋ぎながら歩いていた朱音と今は正面から向かいなおし、彼女の瞳から目を離すまいと彰人は意識を集中させる。
幸いなことに彼ら以外に周辺に人の姿はなく、これから話すことも聞かれる心配はない。
だから今から伝えること——告白への返事を、心置きなく返すことが出来る。
「…待たせてごめん。気が付かなかったけど…不安にさせちゃってたよな」
「…そうだね。大丈夫だって思いたかったけど、それでも少しは…待ってる間は怖かったから」
まず最初に返したのは、ここまで朱音を待たせ続けてしまったことに対する謝罪。
たとえこちらにその気がなかったのだとしても、状況を客観的に考えれば彰人が彼女の返答を保留にしていたのは事実。
ただでさえ勇気を必要とする告白の返事を返すこともなく、ここまで思慮の時間に費やしていたのはこちらの責任なのだから。
…理性では大丈夫だと思い込んでいても、明確な答えが返されていない以上断られる可能性はゼロではない。
そんな恐怖にあった彼女の不安感は…どれほどのものだったのだろうか。
だからまずは、そこを謝るべきだと思った。
「そこは反省してる。だからもう…待たせはしない。ここでちゃんと、返事をするよ」
「…うん」
勇気を振り絞って彼女は一歩を踏み出してきてくれた。関係を進めるための一手を打ってきてくれた。
…今度は、こちらの番だ。
「…昨日さ、朱音から告白をされて……凄い嬉しかったんだ。こんな俺のことを、朱音が好いてくれてるんだって思えてさ」
「…むぅ。こんな俺、なんて言わないで? 確かに彰人君のことは好きだけど…そうやってすぐに自分のことを卑下するのは悪い癖だよ?」
「悪い。こればっかりはすぐに直らなくてさ…まぁでも、嬉しかったって言うのは間違いないよ」
「…そっか」
そうして彰人から語られるのは、先日に受けた告白にて浮かび上がった正直な感想。
あの時に彼女から言われた言葉の全ては心の底から嬉しかったし、同じ想いを抱えていたのだと知れて安心もした。
…ただ、それと同時に悩みもした。
「…でもな、だからこそ悩んだんだ。朱音はこうやって踏み出してきてくれたけど…俺なんかに朱音の隣に立つ資格はあるのか、ってさ…」
「……それは…」
「分かってる。こんな迷いに意味なんてないってことは。…それでも、どうしても考えちゃうんだ」
今に至るまで、彰人は朱音に恩を返しきれていない。
献身的に支えてくれたことも、過去のことも。何もかもが彼女に寄りかかってばかりで…こちらは貰ってばかりだったから。
「俺はずっと支えてもらってばかりだ。一つも恩なんて返せてなくて、ただ甘えてばっかりの俺が朱音の隣に立つなんて無理じゃないかって…」
「………っ!」
「…でもな。そんなことにばかり固執しても意味がないってことにも気が付けたんだ」
「……え」
…だが、考えを巡らせる中で彼も悩みに区切りをつけることができた。
もちろん、彼女への恩を返すことを放棄したわけじゃない。
今まで朱音からもらったものは数えきれないほどに膨大だし、その分だけ行動で返していかなければという決意はいまだ健在だ。
思考を切り替えることが出来たのは…単に、恩を返すことと想いを伝えることは決して同一ではないと気づけたからだ。
「前の宿泊研修の時……あの時に朱音が隣にいるって言ってくれて、俺は救われた。もう一人になることはないんだって知れて…朱音がいてくれたから、また立ち上がれた」
「…前にも言ったけど、私は自分で彰人君の隣にいたいって思ったからそうしただけだよ。大したことはしてない。彰人君が頑張ってきたから、そうなっただけだよ」
「だとしてもだ。朱音がそうしてくれたから俺は助けられたし……あの時のことがあったからこそ、朱音のことを好きなんだって気が付けた」
「…っ!」
その一言は、想いを自白するのと同義だった。
朱音のことが好きであると…そう述べた言葉は、何よりも深く彼女の胸に突き刺さる。
綺麗な瞳を大きく見開きながら、彰人の言葉に対して驚くように……そして歓喜を滲ませるかのように反応する彼女の感情には、彰人も思わず笑みを浮かべてしまう。
「…そこからは早かったかな。朱音のことを好きになって、どうしようもなく…離したくなくなってたんだ」
「……うん」
「自分勝手だって思われても、我儘だって思われても……他の誰にも渡したくないって、俺が隣にいたいって思ってたんだよ」
「…そうだったんだね」
一度溢れ出してしまえば、この胸に満ちている想いをせき止めることなど誰にも出来やしない。
近くには誰一人として他人がいない。二人だけの世界。
そこで伝えられた想いは…今の彼らに深く染み入るものだから。
「本当は…俺の方から踏み出すべきだったんだと思う。最初の一歩を朱音に押し付けたのは…情けないところだったよな」
「…そんなことないよ。私は、私がそうしたいからああやって動いただけ。多分彰人君がどう思ってても…あそこで告白してたと思うもん」
「……ありがとうな」
つい口からこぼれてしまう弱音は、彼の根本に染みついてしまった癖ゆえにそう容易く改善できるものではない。
けれど、今ばかりは…そんな弱気な言葉を口にしかけた彼を朱音が優しく諭してくれた。
彼がどう思っていようと、何を考えていようと。
それはあくまで判断材料の一つにすぎず、自分の行動を縛るものにはなりえない。
ただ、自分がそうしたかったから想いを告げただけなのだと…そう言ってくれた。
そう言ってくれる彼女だからこそ、彰人は…朱音のことを好きになったのだ。
「…俺はまだまだ、朱音にとって頼れる人間になんてなれてない。隣に立つなんてそれこそ烏滸がましいって言われてもおかしくない」
「……全く。そんなわけないでしょ? 彰人君はもう十分頼れる男の子だよ。…それに、私は彰人君に与えてばっかりじゃない。こっちだって色々なものを貰ってるの」
「……朱音」
「彰人君が話しかけてくれたから、こんなに楽しい時間を過ごせてる。寝てるばかりだった私を起こしてくれた君がいたから…たくさんの思い出を作れた。むしろ、私の方が返しきれないくらいだよ」
「…それを言い始めたら終わりが見えなくなるぞ?」
「じゃあ私たちは似た者同士ってことだね。…ふふっ」
彰人と朱音はお互いにとって、恩を返しあう相手。彼女はそんなことを言っていた。
…気づいていないだけで、彼らは本質からして相手への感謝を返そうとしている間柄なのだから。
何が面白いのか、その事実に思い至るのと同時に小さな笑い声を上げていた朱音を彰人も苦笑しつつ見守った。
…普段と大差ない、日常的に味わってきた懐かしい空気だ。
穏やかでありつつも、どこか温かく…落ち着くやり取り。
友人として築き上げてきた彼らの変遷を象徴するかのような、気楽さを織り交ぜたこの空気感を彰人はかけがえのないものだと思う。
——それでも、ここから先はもうそれだけでは満足できないから。
ゆえにこそ、彰人はこれまで通りの間柄ではなく……一つ先へと進むために言葉を絞り出す。
今までと変わりない友人としてではなく、彼女の隣に立つための…パートナーとして。
「……朱音」
「……はい」
「情けないところだって山ほどあるし、情けないところばかりの俺だ。朱音に釣り合ってるなんて到底思えないし、支えてもらうばかりの身だけど……俺も、朱音のことが好きです。付き合ってください」
——ようやく、彰人は一歩を踏み出した。
思いの丈を伝えた彼は朱音から目を離すまいと、数秒にしか満たないはずなのにとても長く感じられる無言の時を味わう。
目の前に立っている彼女がこの言葉を聞いて何を思うのかは分からない。
それは他でもない朱音本人にしか知りえぬことであり…彰人が踏み込んでいいものではないから。
…それでも、待ち望んでいた返答がもたらされたことに彼女は瞳を大きく潤ませ、両手を胸に当てる。
まるで彰人の言葉を意識下で反芻するかのように、一度瞳を閉じた彼女は少しすると…再び瞼を開く。
そこで返ってきた答えは…万感の思いが込められた言葉だった。
「———はい、もちろん。こちらこそ、よろしくお願いします」
「……っ!」
返事は、了承。
辺りの雑音などものともせずに彰人の耳へと届いてきた返答は…何よりも如実に答えを示していた。
今までに見たこともないほどに嬉しそうな、満面の笑顔を浮かべる朱音の顔は心の底から嬉しそうなもので…この世のどんなものよりも魅力に溢れたものだと断言できる。
…だからこそ、だろうか。
「ひゃっ…! …彰人君、急にどうしたの?」
「…分からない。でもなんかいきなり…抱きしめたくなった。…嫌だったか?」
「…嫌じゃないよ。すっごく嬉しい」
そんな魅力に満ちた恋人のことを、彰人は不意に抱きしめたくなってしまった。
理性で抗うことなど不可能だと、本能的に理解させられた欲求は凄まじいものであり…いきなりのことだったため彼女を驚かせてしまったが、何とか許しは貰えたので良いだろう。
そんなことよりも今は……愛しいパートナーとの記念すべき瞬間の余韻に浸りたい。
念願叶って関係が進んだことへの喜びを噛みしめたいと、心の底から…そう思った。
二人が恋仲へと発展し、それを見守る者の姿はない。
けれど、今の彼らにとっては…互いに相手の存在さえあれば良いと、そうした心境で一致していたに違いない。
薄暗さに包まれた空間の中。
ほんのわずかに照らされた照明だけが…彰人と朱音の進展を祝福するかのように明かりを強めていた。
互いに互いの想いを確認し合い、ついに結ばれた。
されども彼らの想いが留まることも、停滞することも無く。
───これよりは、幸福が待つのみ。




