第百三十二話 戻ってきた日常
「くっ…! ……ふぅ、戻ってきたな。随分早かったけど」
朱音の自宅へと赴いてから一時間と少し。
当初予定していた時間ではもう少しかかるものだとばかり思っていたが、想定していたよりもかなり早い段階で我が家の近辺へと彰人は帰ってきていた。
まぁ今日の用件は朱音の父である雄大と対面することであり、そこで話を済ませてしまえばそれ以上はやることもない。
向こうにはもう少しゆっくりしていけば良いなんて言われてしまったが、既にその厚意には何度も甘えてしまった経験がある。
流石にこうも連続してお邪魔になるわけにもいかないので、こうして早々に帰る選択を取ってきたというわけだ。
…帰宅する際に雄大の運転に頼りにはなってしまったが、そこは触れてはいけない。
一応送ってもらったことに対する礼は分かれる際にもしっかりと伝えていたし、問題はない…と思いたい。
(…今日は色々と考えさせられることも多かった。結果的にではあるけど…行ってよかったかな)
いつまでもしょぼくれた思考にばかり耽っていられない。
あれこれと予想外すぎる展開が待ち構えていた来訪だったために一つ一つの密度も比例して濃いものであったが、結果的に見れば今回も赴いて良かったと思える。
それは雄大と対面して話すことが出来たことと向こうに気に入られたという点も然りであるが、何よりも……最後に伝えられたこと。
雄大から言われた、自分がこれからするべきことは明確にしておいた方が良いというアドバイスをもらえたことが最も大きな報酬だったと思う。
(これからどうする、か……言われてみれば、一番大事なところを疎かにしてたんだよな)
改めて考えてみればこれほど重要な指標になるものも他にないというのに、彰人の視点ではまず朱音の隣に並び立てるようになろう、彼女に支えられるだけの人間で終わらないようにしようと考えるだけでそれよりも先のことなんて思考の余地にもない有様であった。
少しでも深く踏み込んでいけば分かったことだろうに…それすらも考えていなかった己の浅慮が恥ずかしくなりそうだ。
…まぁそれもこのタイミングで気づけたことは不幸中の幸いだったと言えるかもしれないし、結局は捉えようになる。
(…でも俺がやることなんて最初から一択しかない。まだ具体的なことも何も固まってないし、出来るかどうかも分からないけど…いつか、俺の方から朱音に告白する)
それにいくら考えを巡らせたところで最後に取れる選択肢なんてはなから一つ。
朱音の抱く感情や細かい計画も何もない彰人であるが、そう遠くない未来に想いを彼女に伝える。
…無論、不安に思うところだって多々ある。
まだ自分に自信を持ち切れていない彰人では彼女の隣に立つのにふさわしくないのではないかと、他の相手の方が彼女を幸せしてやれるのではないかと、懸念してしまうことは多い。
でもそれは、自分の自信のなさに都合の良い言い訳をしているだけだ。
ああだこうだと勇気を出すタイミングを考え続け、挙句の果てにあれこれと先延ばしにするための道を選んだだけ。
…それはもう、最悪の道筋だ。
言い訳をするのも、自分の本心に誤魔化しを続けるのも、これまでの人生で飽きるほどに継続してきてしまったことなのだ。
いい加減、かつての停滞を選んだ自分とは別れを告げなければならない。
だからこれは、そのための最初の一歩。
(…って、格好つけて考えるのはいいけどタイミングも何も決まってないんだよな…とりあえず家に入ってゆっくり………ん、鍵が…閉まってない…?)
思考に夢中になっている間に家の玄関先にまでたどり着いてしまったので、荷物の中から鍵を取り出して扉を開けようとする。
…が、そこで彰人は奇妙な違和感に気が付いた。
鍵穴に差し込んだ鍵を回そうとして分かったが、まるで空回りをするような感触からして……おそらく扉の鍵は閉められていない。
端的に言えば開けっ放しである。
しかし当然、彰人が閉め忘れたというわけではない。
家を出る前にもしっかりと戸締りの確認はしてから出て行ったし、その際にも鍵が閉められていることをチェックしたことは記憶に残っている。
となれば彰人が出る前には鍵が閉められていたということだ。
…記憶に残っている光景と現実が異なる様相を呈している理由として考えられるのは、主に三つのパターン。
一つ目はまず単純に、彰人が鍵をかけたのだと思い込んでそのまま出て行ったということ。
おそらくは可能性として最も高いだろうこれなら彼の自己責任だし、今度からは注意しようという反省で済む話。
二つ目は、彰人が出かけている間に関係者以外の誰かが入ってきた可能性。
…あまり考えたくはないが我が家に不法侵入者でも現れたとなれば、鍵が開けられてしまっている状況というのも納得できなくはない。認めたくはないが。
そして、三つめは———。
「…とりあえず入ってみるか」
…どの可能性があるにしても、実際に確認してみないことには事実を確かめようもない。
二つ目の予想が当たっていたとしたら下手な刺激をしない方がよいのは分かり切っているが、扉を開けて入った玄関を見た感じ荒らされているわけでもないので泥棒に入られたという雰囲気ではなさそうだ。
それならば安心……と言いたいところなのだが、同時に家へと足を踏み入れたことでさらに分かってしまったこともある。
玄関先から少し進んだ先。
位置としてはリビングに当たる扉の先から、確実に消したはずの照明が点灯しているのだ。
…間違いなく正体不明の誰かがこの家にいる証左であり、知らず知らずのうちに緊張感が高まってくる。
ただし、いつまでも固まってばかりではいられない。
もしも不審者だとするならば放っておくわけにもいかず、自宅に存在している未知の危険性を有した何者かを放置はできない。
なのでここは彰人も勇気を振り絞り、そこにいるだろう存在めがけて足を進め——一気に扉を開け放った。
…そして、そこにいたのは———。
「……なんだ、母さんかよ。帰ってたなら連絡くらいしてくれって…」
「あら彰人、お帰りなさい」
——久方ぶりに姿を見せた、彰人の母親。
前に見た時とは異なりスーツ姿ではなかったものの、全身から放つ冷徹さすら思わせるクールな雰囲気は健在。
黒峰沙羅その人が、何てことは無い顔を浮かべながらコーヒーを片手に休んでいた。
「あんたの方こそどこに行ってたの? 休みの日だっていうのに忙しないことね」
「…俺は少し朱音の家に誘われて行ってた。すぐに帰ってきたけどさ」
「あらそう。…向こうの家に迷惑かけてないでしょうね?」
「そんなことしてないって…母さんの方こそ、家にいるなら言ってくれよ…」
…家に入る前に考えていた三つの可能性、その三つ目。
頭の中ではありえないだろうと思っていた…自分の家族が気づかぬ間に帰ってきていたという推測が当たっていたことに、彰人も何とも言えない表情を浮かべてツッコミを入れている始末。
「あたしの方は久しぶりに仕事が一段落したからその都合で帰ってきたのよ。お父さんの方はまだしばらく忙しいみたいだけど…そっちもまた少ししたら落ち着くみたいね」
「…なるほど。まぁ父さんは年中忙しい立場だし、仕方ないか」
相変わらず帰ってくるタイミングでいきなりすぎる母親のマイペースさに翻弄されてしまうが、そういうことなら問題もない。
そもそもここは彰人たち家族の家なのだから、家族が仕事を終わらせて帰ってくることに不都合があるわけもない。
ただそれでも、この彼にとっては非日常的な光景を目の当たりにして思うことがないわけでもないのだ。
…以前ならば、無意識だったとしても求めていた親と過ごせる時間。
図らずともそんな願望が叶ってしまったわけだが…驚いたことに、彰人自身その光景を目の前にしても感じることはほとんどなかった。
もちろん、母が帰ってきてくれたことは嬉しい。そこは心境に変化があった今でも変わりない受け取り方だ。
しかしその受け取り方が…少し薄くなったというか、そこまで強くは感じられなくなっている。
おそらく、これは前に比べて両親を求める執着心がなくなったからこそ起きた変化なのだろう。
朱音が隣にいてくれると言ってくれて、自分が一人ではないんだと知ることが出来て。
もう自分は大丈夫なのだと知れたからこそ、起こった変化。
意図せずともこうして母と再会したことで知れた事実であったが、それを自覚した彰人はふっと小さな笑みを浮かべた。
…すると、その小さな違和感を沙羅には目ざとく嗅ぎつけられたらしい。
「…ん、彰人。あんた何だか前から変わったわね? 何か良いことでもあったの?」
「え? …ま、良いことはあったよ、色々とな。ただ思ってたことに整理がつけられたってだけだよ」
「……そう」
わずかにも揺らがない表情変化を見せつけながらこちらを追求してきた言葉ではあるが、その意図はこちらを案じてのもの。
もう言わずともそこに込められた意思は通じるし、夏休みの頃から……いや。
それよりもずっと前から、それこそ自分が生まれた時から………。
彰人のことを大切にしてきてくれていた沙羅に質問を投げかけられたが、返した言葉は要点をぼやかした曖昧なものである。
…別に詳しいことを言っても良かったのだが、何となく具体的な仔細を伝えるのは躊躇われたのだ。
理由は単純に、気恥ずかしいからである。
しかし、母でもある沙羅からしてみれば…それで十分だったのかもしれない。
「彰人がそれで落ち着いたというのならそれでいいわ。けど、解決できないことがあったらすぐに相談しなさいよ? その時は仕事を中断してでも飛んでいくから」
「……母さんが仕事を放置するとか、それこそ想像ができないんだが…」
「それはあんたが今まで我儘らしい我儘を言ってこなかったから必要がなかっただけよ。必要になればあのくらいのこと、放っておいても問題ないわよ」
「………まぁ、その時は頼らせてもらうよ」
彼の反応を見て何かに納得した沙羅から更に返されてきたのはこれまた何とリアクションを取ってよいか分からないものであったが、それもまた母の愛情故。
クールな態度を装っているように見えるがその実、誰よりも彰人のことを思ってくれている母だからこそここまで言ってくれているのだというのは指摘されなくても分かる。
「そんなことより、今日は一日休みだからあたしが夕食を作るわ。彰人もそれでいいわね?」
「文句なんてないって。…何か手伝おうか?」
「……あんた、私が知らない間に料理の腕が成長してたの? 今年一番の驚きね」
「………いや、全く」
「…だったら大人しくしておきなさい。気を遣わなくていいから」
「はい…」
そうしてその後に告げられたのはまたもや珍しく、今夜は沙羅が調理の腕を振るうというもの。
…母の料理を味わうなど、いつぶりだろうか。
少なくとも明確に思い出せない程度には久しぶりの食事になる。
そのことに彰人は内心で喜びを覚え、その高揚感のままに手伝いを買って出ようとして…即座に断られてしまった。
…いや、うん。
分かってはいた。分かってはいたのだ。
ただ少しばかり彰人も興奮していたのか冷静な判断力というものを失ってしまっており、己が背負っているハンディキャップというものを一時的に失念してしまっていたのだ。
しかしそこは母親というべきか、即座に彼を冷静な状態へと戻すと賢明な指示を下してきた。
——かつて、彼自身が夢見ていた状況。その再演。
家族と同じ時間を過ごすという、固執していたはずの願いを今になって叶えられたのは何とも皮肉にも思えるが…そんなことももう気にならない。
だって彼は、既に乗り越えられたから。
これ以上しがみつかなくてもいいと、そう言ってくれた少女の言葉があったから…こうして普遍的な日常を取り戻すことが出来たのかもしれない。
…だから次は、自分が行動を起こす時だ。
この胸に灯った熱を……彼女に伝えるために。




