第十三話 バイト先と店主
「じゃあ俺は先に帰ってるな。航生も部活気合い入れてけよ」
「おうよ! お前もこれから気合いの入れ時だろ? しっかりやってこいよ!」
「せいぜい倒れないくらいに捌いてくるよ……そんじゃな」
「あいよ!」
時刻は放課後となり、この時間になれば多くの生徒はそれぞれの帰路に着いてようやく学業から解放されたと各々の自由を噛み締めていく。
しかし一部の生徒にとってはそうでもなく……ここにいる彰人と航生もそんな例外の一部だろう。
航生はいつものノリと勢いで全てを圧倒してくる生活態度があるので忘れがちだが、あれでもサッカー部に所属しているので中々に忙しい身だ。
授業が終わった放課後は当然として、休日もほとんどは練習に費やしていると聞いているのでかなりの時間を部活に捧げていると言えるだろう。
それに対して彰人の方はというと、こちらは部活にこそ所属していないので帰ろうと思えばすぐに帰宅することも出来るが、それとは別にやらなければならないことがある。
それはこれから予定にも組み込まれているアルバイトであり、こればかりは理由もなく休むことも出来ないので時間までに店に到着していなければならない。
…あの店長さえいれば彰人一人が休んだくらいで店の営業にも大した影響は出ないとは思うが、それはそれとしてこればかりは自分に与えられた仕事なのできちんと全うするべきことだ。
内心でそんなことを考えながら航生に別れを告げ、彰人も現在の時刻を確認しながら教室を出て行こうとすれば……その直前に、ある一つの光景が目に入ってきた。
「…だから、さ。この時間なら何とか………」
「う、うーん……けどそれって………」
「大丈夫! 何かあっても私がいるし、それに………」
(…朱音と優奈? 何話してんだ、あんなところで…)
視界に映ってきたのは教室の隅に近い場所で珍しく起きていたらしい朱音と話し込んでいる優奈の姿であり、距離が遠いため正確な会話内容なんかは聞こえてこないが何かを二人で話し合っているような状態だった。
見た感じとしては何かを悩むような素振りをしている朱音に対して、優奈がその背中を後押ししているようにも感じられたが……肝心の内容が何一つとして分かっていないので、珍しい光景ではあったもののそれ以上のことはまるで把握することは出来なかった。
まぁ特段気にする必要も無いだろう。
優奈のことだし朱音にとって害が及ぶような真似はしないだろうし、今更その辺りは疑っていない。
…害が無いからと言って信用し過ぎれば、今度はこちらの思いつきもしないような方向性で度肝を抜いてくるのが優奈でもあるのであまり任せきりにするのも問題なのだが今回は特に干渉する必要も無いだろう。
向こうは向こうで楽しそうに過ごしているのだ。女子同士のやり取りに無理に割って入る必要もあるまい。
「っと、そろそろ行かないとな」
それにもうそろそろ向かっておかなければバイト先に到着するのもギリギリになってしまう。
彰人としてもそれは避けておきたいところなので、優奈と朱音のことも気にはなったがそちらは特に話しかけることもせず今回は見送ることにした。
教室から廊下へと勢いよく駆け出していき、自身のバイト先へと足を進めていく彰人の頭の中からは時間が経つごとに彼女たちのことなど抜け落ちていくのだった。
「お疲れ様です! …時間、間に合いましたかね」
「お疲れー! ギリギリセーフってとこだね。とりあえず最初に着替えてきちゃったら?」
「そうしてきます。まだ忙しくはない感じですしね」
「こらそこ。あんまり失礼なこと言ってるんじゃないよ?」
「……失言でした」
彰人がとある店の扉を開け、勢いよく飛び込んでいけばそれを出迎えるかのように良く通った女性の声が響いてきた。
それと同時に軽い言葉の応酬のようなものが展開されてきたが、これくらいのことはこの人とならば日常茶飯事であるためさして気にもしない。
…そんなことよりも気にかかることがあるとすれば会話の中でうっかり放ってしまった失言だったが、何とか許しはもらえそうなので良しとしておこう。
彰人がやってきた店のカウンターに立ちながら来訪を出迎え、声を掛けてきた髪をウルフカットにした女性。
彼女こそがこの喫茶店の店主にして彰人の雇い主であり、女手一つでここを切り盛りしているバイタリティに溢れた人物でもある皆瀬佳奈さんだ。
この人の正確な年齢は知らない……というか尋ねようとすれば物理的にぶっ飛ばされるので容易く踏み込める領域ではないのだが、少なくとも彰人よりは確実に上であることだけは確かだ。
そして何より、そんな不明瞭な年齢など全く感じさせない若々しさもこの人の大きな特徴の一つとして数えられるだろう。
艶やかな肌は彰人たちの同年代と比較しても全く見劣りしないどころか明らかに優れているくらいだし、メリハリのあるプロポーションなんかは周囲の男の視線を独り占めしてやまないくらいだろう。
そんな完璧とさえ言える容姿を持つ佳奈だが、その見た目に反して纏う雰囲気は大人の色気というものを全開にしているのだからもはや反則級である。
過去の経験から得たものなのか生まれ持ったものなのかは知らないが、容姿と相反するオーラによって魅了される者は数えることが馬鹿らしくなってくるくらいに多いはずだ。
事実、時折ここにやってくる彰人と同じ年代の高校生がいたりもするが、彼らは例外なく店長である彼女に見惚れるように呆けた表情を浮かべることが大半だ。
「そんじゃ、ちょっくら着替えてきますよ。なるべくすぐに済ませてきます」
「相変わらず真面目だね、あんたは。まっ、あまり急ぎすぎなくても良いからねー!」
「…そっちが不真面目すぎるだけだと思うんですが」
「…なーんか今、ぼそっとつぶやかなかったかなー?」
「気のせいですよ。じゃあ少し外します」
しかしそういった客のほとんどを魅了してしまうほどの色気というものを醸し出している佳奈と同じ空間にあって、彰人はいつもと何ら変わらない態度で接している。
これに関しては別に彰人が女性に興味がないとかそういった話ではなく、単にこの人が恋愛対象なんかの枠から外れているというだけに過ぎない。
確かにほとんど毎週のように顔を合わせている佳奈がとても素敵な女性だということはよく実感しているが、だからと言ってそれが恋愛感情に直結するとは限らない。
現にこうしてこの店で長く働けているのはそういった感情の切り離しが出来ているからこそ、という要因が大きいと思っているしそれは向こうからも言われたことだってある。
…それと、最も大きな理由としてはまた別の要素が挙げられるのだが……そこに関してはあまり言及したいところでもないので今は伏せておいてもいいだろう。
あえて言うのであれば、あの人の本性を知っている身になってしまった今では佳奈を自らの恋愛対象として捉えることなど出来ないというだけの話だ。
それはどうでもいい。今更言ったところでどうこうなることでもないし、そもそも言い聞かせてどうにかなることならばとっくの昔にやっている。
今になってそれをしていないということは……まぁそういうことである。
とにかく今は早いところ制服から仕事着へと着替えてしまわなければ。
そう考えてそれまでの思考を中断した彰人は、いつも通り仕事をこなすための服を身に着けるために店のバックヤードへと進んでいった。
…今日この時に待ち受けているトラブルには、まるで考えもしないまま。
喫茶店の雰囲気とか彰人は結構好きだったりする。
というよりは落ち着いた場所全般が好きなだけとも言えますが。