第百二十八話 着いた家路
——時間は経ち、早くも土曜日を迎えた。
いつもならば学校に通っている彰人にとって貴重な丸一日の休日であり、それこそ他の同級生達とも同様に自分一人の自由気ままな時間を過ごせる今日この頃。
…それでも、この日に限ってはそんな気楽な気分ではいられそうにもない。
朱音を介して彼女の自宅へと招かれ、さらにはその大元でもある朱音の父と対面する予定であるこの日。
…朝から焦りにばかり思考を乱されまいと注意を払ってはきたが、どうしても意識はそこにばかり向けられてしまう。
場合によっては朱音との関係性にもこちら側の意思とは関係なく変化が訪れかねない場面なのだ。緊張するのは致し方ない。
もう前もって知らされていた時間にも間に合うように家を出てきてしまったので今更引くわけにもいかないし、こうなったら腹をくくろう。
「この時間でもまだ外は少し寒いね…彰人君、カイロあるけど良かったらいる?」
「……いや、うん。こうして付き添ってくれるのは間違いなく嬉しいんだけどな。どうして朱音が道沿いに待機してたんだ?」
「えっ? …駄目だった、かな?」
…しかしまぁ、そんな思考も隣から聞こえてくる彼女の声を耳にすれば自然と緊張感も解れてしまいそうになる。
明らかに今この場にいるべきではない人物だというのに、どこまでも自然体な雰囲気で話しかけてくるがゆえに見過ごしそうになってしまうが…何故かこれから向かう家の住人でもある朱音が通り道で待機していたため、二人並んで向かうことになったのだ。
あの時は…彰人も自分で言うのは何だが、理解不能という言葉がこれ以上ないほどに当てはまるリアクションを出していたと思う。
今から赴こうとしていた場所にいるはずの人物が道の途中で待ち構えていたのだからそれはそうなのだが。
「駄目ってわけじゃないけど…俺の方が向かう立場なんだし、朱音は家でゆっくりしてくれてたら良かったんだぞ? 外も結構冷え込むし」
彰人の考えでは朱音は当然自宅にて待機しているものだとばかり思っていたし、まさか向かう道の道中にて自分を待っていたなど考えもしていなかったのだ。
ここに来るまではあまりにも自然な様子に口を挟むのを躊躇っていたが…やはり、何度思い返してもおかしいことに変わりはない。
わざわざ外にまで出迎えてくれたのはとても嬉しいが、そんなことをして彼女が風邪でも引いたらと思うとありがたみよりも申し訳なさの方が勝りそうだ。
「…だって、せっかく彰人君がうちまで来てくれるんだし……私も早く彰人君と会いたかったんだもん。それが理由じゃ駄目なの?」
「…っ! …ダメじゃ、ないです」
「だったら良かった。ほら、早く行こう?」
「……はい」
…だが、その次に向けられた朱音の言葉には彰人も思わず黙らされる始末。
わずかに不満げな顔を浮かべながら上目遣いで、それもいじらしさを感じさせる発言を向けてくる朱音の姿は正直…破壊的なまでに可愛らしかった。
自分が彼女の家に行くことを楽しみにしてくれていたのだという事実と、朱音の方も彰人と会いたがっていたというまさかの角度から放たれてきた二連撃。
意中の相手からこのようなことを言われて、まともに意識を保てる男など存在するだろうか?
少なくとも、彰人には無理だった。
彼からの返事を待つ間、溢れんばかりのいじらしさを漂わせていながらも了承を聞き届けてからはパッと明るい雰囲気に戻った朱音に対し、想い人の動向に早まる心臓をグッと抑えつける彰人の両名。
…意図的なのか無意識なのか。
どちらにしても、普段と変わらず周囲に配慮など全くない……無遠慮な甘さを撒き散らす二人だけの空間がそこには形成されていたのだった。
◆
彰人と朱音が彼らだけの世界を形成している間にも目的地までの距離は着々と狭められていき、元々大層な距離が離れているわけでもないのであれから十分もすれば朱音の自宅前には辿り着いた。
…彼の心情的にはいよいよ辿り着いてしまったといった感じだが、もうこうなるのは分かり切っていたことなので過剰に身震いはしない。
「…やっぱり、彰人君と一緒だと時間が過ぎるのもあっという間だね。欲を言えば…もうちょっと歩いてたかったかな?」
「それは…また今度な。流石に今からまた時間を潰すわけにもいかないし、別の日ならいくらでも付き合うから」
「…うん、ならその時を楽しみにしてるね」
それに今は、隣に誰よりも心の支えになってくれる少女の姿があるのだ。
たとえ何があろうとも朱音がいる限りは心が折れることはなく、どんな困難にも立ち向かっているとさえ思えるほどに彼女の存在は大きなもの。
そんな彼女は思っていたよりも徒歩で過ごす時間が短かったことに不満を漏らしていたが…そこはまた今度時間を空けて付き合うので、それで勘弁してもらいたい。
朱音にも何とかその提案で納得はしてもらえたようだし、ひとまずは落ち着いたと言えるだろう。
「じゃあ私、ドア開けてくるから彰人君も一緒に来てもらっていい?」
「了解した。…いよいよだな」
場は一段落し、話はようやく本題へと移っていく。
…今までの流れは言うなれば前座であり、彰人にとってはここからが気合の見せ所だ。
なのでもう一度軽く息を吐いて精神面を整えなおし、朱音が玄関ドアの鍵穴に鍵を差し込んでドアを開けた瞬間———勢いよく姿を見せてきた人影には、反応が一瞬遅れてしまった。
「…あっ、開いたね。彰人君、先に入って———もぐっ!?」
「——いらっしゃ~い! 彰人さん、今日はよく来てくれたわね!」
「…鳴海さん、またいきなりのご登場で……」
朱音が扉を開けた瞬間に現れてきたのは、もうすっかり顔見知りにもなった彼女の母である鳴海だ。
いつ会ってものほほんとした笑みを崩すことなく、纏ったおっとりとした雰囲気は強制的に対面した相手の警戒心を緩めてくるかのようなオーラがある。
今日も今日とて気分は良好なようで、来訪してきた彰人の存在を認識した途端に満面の笑みを浮かべて歓迎してくれていた。
…それと、突発的な登場だったがゆえに数秒見逃してしまったが、鳴海が現れた場所にちょうど重なるようにして立っていた朱音が……見事に埋もれている。
比喩でも誇張でもなく、文字通り。
開け放たれた扉から勢いよく飛び出してきた鳴海の胸に飲み込まれるようにして身体を包まれた朱音が、何とか離れようと腕に力を込めているが一切効果は実感できない。
それどころか、押せば押すほどに密着しているようにも思えるのであれではいつか窒息するのではないだろうか。
「…~~っ!? …ぷはっ! はぁ…はぁ……っ! い、息が止まるかと思った…!」
「あら? 朱音ったらお母さんの胸で何してるの? そんなに甘えん坊になっちゃって…彰人さんも見てるのよ?」
「…お母さんのせいでこうなってたんだよ。いつも気を付けてって言ってるのに…!」
ただ、それも必死の抵抗の甲斐あって何とか脱出に成功したらしい。
呼吸を荒げながらジト目を鳴海に向け、隠しきれない文句をこぼしながらではあったが…あの様子を見るに、多分今回が初めてというわけではないのだろう。
自分の娘を胸に沈めながら変わらぬ様子で彰人と話していた様子を豪胆と評すればよいのか、マイペースと言えばよいのかは分からないところだが。
とりあえず、朱音は無事だったらしいので安心………なのか?
「…彰人君、ごめんね。いきなりこんなことばっかりで…」
「うん、まぁ…仲が良さそうでいいと思う」
「…本当にそう思ってる?」
「思ってる思ってる。…同じくらい、大変そうだとも思ったけど」
「……聞こえてるよ」
…パッと見はやって来て早々に親子のトラブルを見せられたようにも思えるが、喧嘩するほど仲が良いなんて言葉もこの世にはあったりする。
相手に文句を口にできるということはそれだけ心を許しているということの証左でもあるだろうし、見方を変えればこれも微笑ましい光景の一つだ。
…見せつけてきた側である朱音としては、あまり他人に見せたい場面でもなかったかもしれないがそこは気にしてはいけない。
「…へぇ? 彰人さん、何だか前と会った時よりも明るくなったかしら? 良いことね!」
「え…? そう、ですかね…?」
「ええ! 何となく吹っ切れたって感じがしてるもの」
「…確かに、そうかもしれないですね」
そうすれば朱音との他愛もないやり取りを眺めていた鳴海が今度は何かに気が付いたかのような動きを見せた後、彰人のことをジッと見つめ…そのようなことを言われた。
しかし、その言葉の意図はすぐに分かる。
おそらく彼女が言いたいことはこの前の宿泊研修、そこで起こった一連の出来事を指したものであり、それによって変化が起こった彼の内心を指摘しているのだろう。
事実、彰人が鳴海と最後に顔を合わせたのはあの行事以前の夏休み終盤であったため…その変化に違和感を感じるのは当然だ。
「けど、私はそっちの彰人さんの方がずっといいと思うわ。前よりもすっきりした顔をしてて格好よくなってるものね! …朱音もそう思うでしょ?」
「え? あ、うん…そうだね、私も今の彰人君の方が格好いいなって思うよ」
「…ありがとな」
「ふふふ……さっ、そういうことなら早く部屋に上がってちょうだい! お父さんもリビングにいるから、ね?」
「……分かりました」
それでもその相違点が発生した要因についてまでは流石の鳴海であっても予想がつかなかったのか、はたまた察しはついたがあえて触れないようにしてくれたのか………。
何にしても、こちらに配慮してくれたようでそれ以上は話題を広げることなく、部屋の向こうに案内をしてくれている。
その気遣いに感謝しつつ、彰人もありがたく彼女の背中に続いて家に上がり込んでいった。
——足を進めた先で対面するのは、まさかの出会いであることなどまるで頭に浮かべることもないまま彰人は朱音の家を訪ねるのであった。




