第百二十五話 正体不明の独白
「……ふぅ、これで時間には間に合うな。……しかしさっきのあの少年。今もあんな良い子がいるものなんだな…」
彰人がやけに目を引く存在感を放つ男を目的としていた店まで案内し、目的を果たしたので帰って行った後。
あちらはあちらで帰宅した後にゆったりとした時間を過ごしていくわけだが…こちらはそのもう一方。
彼に案内をされた店の前で彰人が去って行った背中姿を見つめながらぽつりと独り言をこぼすガタイの良い男が所感を口にしていた。
彼はこれから仕事の都合でこの店を訪れる予定であったのだが、運の悪いことに目的地までのルートがかなり入り組んだものとなっており、なおかつ彼が訪れたことのない店だったために迷っていたのだ。
このままでは予定していた時間にも遅れてしまう。そうなったら相手方にも迷惑をかけてしまうことになる…そう思っていた矢先。
困惑する男を目にした彰人によって無事にここまで辿り着くことができ、何とか時間にも間に合わせることができた…という次第である。
「あの子には感謝してもしきれない…菓子は渡したが、それも最初は受け取ろうとすらしてみなかった…どちらにせよ、物欲が薄い子だ」
彰人に聞かせればそんなことはないと否定するだろうが、男からすれば誇張抜きに返しきれない恩を受け取ってしまったというほどの事態だった。
何せ今日は、数ある仕事の中でもかなり重要度の高い案件を取り扱うものであり…万が一にも遅れようものならば一大事であったのだから。
…そんな事情を知らないからこそ両者の間にはこの一件に関する認識に差が開いているのだが、そこを彼らが理解することはない。
時間的にもそこまで考えが至らないという事情もあるし、問題なく到着したという安堵ゆえに視野が狭まっているという理由もある。
「…あの子のような男の子が娘の友人であってくれたら良かったのだがな。それならば私も安心できたというのに……はぁ。本当に、件の少年というのは誰なんだ…?」
…しかし、そんな安堵の一方で彼が次に取った行動は重く苦しい溜め息をつくことだった。
せっかく重要な案件でもある仕事に遅れるというアクシデントから免れられたというのに、その喜びすら味わうことなく憂鬱な雰囲気を滲ませているのはここ最近彼を苦しめるとある悩みが原因である。
というのも、これ自体を知ったのはつい最近のこと。
彼の妻から聞いた……というより彼自身が些細なキッカケから尋ねたことに端を発している。
彰人にも少し話していたことだが、彼には一人の娘がいる。
親の贔屓目抜きに見ても可愛らしい子どもであり、十人が見れば十人が彼女のことを二度見すると確信するほどに魅力あふれた娘だ。
あいにく彼女自身は己の魅力に無頓着であるが…親からすれば子のそんな姿は誇らしくもある。
幸いなことに大きな反抗期を迎えることも無く今まで成長してきてくれたので、まさしく目に入れても痛くないほどに可愛い子である。
…しかしてある日、そうした彼の日常にも一つの陰りが見えた。
別に大して深刻な前兆があったわけでも無い。ただ単に…そんな娘の様子にふとした違和感を感じたことが始まりだったというだけのこと。
以前までは学校に通っていながらもどこか退屈そうに過ごしていた娘の雰囲気が、心なしか明るいものへと変化しているように思えたのだ。
それ自体は良い。特段学校に通うのが嫌だなんて言われた経験もないが、前は義務的に学校へと足を運んでいるという印象だったため…何か楽しめるようなことが出来たのなら彼も喜んで受け入れた。
…問題があったとすれば、その先。
彼の娘が纏う雰囲気が明るくなったことを喜ばしく思うだけに留まらず、どうしてそうなったのかという事情まで込みで気になってしまったことだろう。
それゆえに、彼は己の娘に聞いたのだ。
『学校で何か良いことでもあったのか、新しい友達でも出来たのか』、と。…聞いてしまったのだ。
彼女にも悪気があったわけではないし、別段隠していたつもりだって微塵もない。
だからこそ、何気なくサラッと告げられた言葉。
…『仲のいい男の子の友達が出来て、その人と話すのが楽しい』なんて言葉が返ってくるとは露も思っていなかったし、心底驚かされる結果となったが。
無論、そう伝えられた時は内心はともかくとして動揺は決して表に出さないように努めた。
…胸の内では異性との関係など毛ほども感じさせてこなかった娘から伝えられたいきなりの告白にひっくり返りそうにもなったが、何とか父親としての体裁は保てたと思いたい。
…しかしそうは言っても、娘の交友関係が気になり始めたことにも変わりはない。
親の過干渉ほど子供にとって煩わしいものもないというのは自身の経験含めて理解しているし、その線引きをしっかりとしているからこそ彼は娘とも溝を作ることなく接してこれたのだ。
だが……今回ばかりは静観に徹するというのも難しい。
自分が知らぬ間に出来たという娘の異性の友人。話を聞く限りでも相当に彼らの距離感は近いようであるし、実際娘の反応からしてもただの友達同士という枠組みではなさそうだった。
自覚があるのか無意識なのか。そのラインこそ曖昧だが…単なる友人にしては異なる感情を抱いている様子だったし、思考に沈めば沈むほど気になる事柄は増えていく。
なので彼はこの状況を打開するためにも、一旦自身の妻に詳しい話を聞いてみることとした。
あの子の母親でもあり自分のパートナーでもある彼女ならば何らかの話を聞いているかもしれないし、そこから知りえなかった情報が入ってくるかもしれない。
そんな淡い期待から聞いてみた、のだが……返ってきたのはこれまた想定外も良いところな答えである。
いつもと変わらぬ愛する妻がのほほんとした雰囲気で教えてくれたのは、何とその男友達とやらは自分たちの家に訪ねてきたこともあるとのこと。
…本当に、その日は何度驚愕させられたら良いのか分かったものではない。
最初は少し容姿や特徴に関する話題を聞ければ御の字だろうなんて考えていたというのに、聞いてみればそんな予想を優に上回ってくる情報が飛び出してきたのだから当然なのだが。
それでも驚きから持ち前の精神力で混乱から回復し、より具体的な話を聞くことに徹すれば…妻からは『そうねぇ……ちょっと大人びてはいるけど、おかしな子ではないわよ? むしろうちの子と相性ピッタリって感じかしらね~!』なんて言葉を返される始末。
……別に、娘に仲の良い男友達ができるというのは良いのだ。
家族からも細かい話を聞けば聞くほどその少年というのが悪い相手ではないということは伝わってくるし、娘も人を見る目はあるのだからそこは信頼している。
ただ、何というか……父親として、自分の子供に異性の友人ができたというのは…少々複雑な気持ちにもなるのだ。
馬鹿な親だと思うのであればそう思ってくれればいい。
自分が知らない間にまるで自分の手を離れるように成長していく子供の姿を見つめる親の心持ちなんていうのは、大概これと似たようなものに違いないのだから。
「……悪い相手でなければいいんだがな。あの子も…その辺りの判断はしっかりしているし、大丈夫だとは思うが…」
…確かに娘の人を見る目は信頼している。そこに嘘はない。
嘘はないのだが…やはり、彼の本音としても話題の中心にいる少年を一目確認しておきたいというのも事実である。
それは見定めるという意味でも、確認をするという意味合いでも。
無いとは思うが、これでかなりの素行不良を抱えている相手であれば…したくはないが娘に交友関係を見直すことも進言しなければならない。
「…今度、会えないかどうか聞いてみるとしようか。向こうの都合が付けば、だが…」
あまりの過干渉は親子関係の不和をもたらしかねないのでなるべく避けてきた選択肢であったが、今回ばかりは不可抗力であろう。
彼の娘も……人を見る目は確かなものを持っていたとしても、普段の生活態度からして少々特殊な子だ。
その隙をついて距離を縮めてきたという可能性も、小数点の彼方程度には存在しているだろうし機会を作って対面できるかどうかを聞いてみよう。
…尋ねる際にまた眠そうにしているかもしれないが、そこは娘が意識をはっきりとさせている時間を狙って頼んでみるしかないだろう。
誰なんですかねぇ……一体…。