第百十八話 言えない用件
「……もうこんな時間か。かなり付き合ってもらったけど、朱音も大丈夫か? 眠くなったりとかしてるだろ」
「え? …そうだねぇ。今はそこまで眠くも無いからしばらくは大丈夫かな。もう少しくらいなら一緒にいられるよ?」
「…いや、流石にずっと付き合ってもらうのも申し訳ないしな。ただでさえ色々と話を聞いてもらったんだ。今日はこのくらいにしておくよ」
朱音と話し始めてから、様々なことを語ってきた。
その中でこれまでの過去にもケリをつけ、心の整理もある程度つけることが出来た。
…だが、あまりにも夢中に語ってきたために時間が経ったことを忘れてしまう始末であった。
気づけば相応に時は経過しており、窓から覗ける景色も心なしか夜の色を増しているような印象を受ける。
会話内容の密度が濃かったので仕方ないのかもしれないが、まさしく時間を忘れて没頭していたとはこのことだろう。
ただ…現在の時間帯と今目の前にいる少女の体質を考慮すれば、こうして喋り続けていることにも問題が発生してきてもおかしくない。
具体的に例を挙げるのであれば、数時間前にも目にしていた朱音の睡眠欲が強まってきているのではないかと心配だったのだが……本人曰くその心配も無用なようだ。
その言葉だけを鵜呑みにするわけではないものの、確かに言われた通りこちらから見た限りでも発言に嘘は感じられない。
瞼こそ半開きではあるが、そこに関してはいつもと変わらない普段通りの朱音の姿であるため大して問題ではない。
…もしも無理をしているというのなら強制的にでも部屋に戻らせるところであったが、そういった空気は感じられないのであと少しの間はここで雑談に興じていても良いだろう。
最悪、ここで朱音が眠ってしまったらその時は……彰人が責任を持って部屋まで送り届ける覚悟である。
どのようにして熟睡した彼女を運ぶだとか先生に見つかった場合に起こり得る騒ぎだとか、それらの障壁もあるにはあるが……そこを加味した上で、この場面はこちらが最後まで責任を持たなければならないと彰人は考えている。
ここまで散々彼女の世話になり、返しようもないほどに大きな恩も出来てしまったのだ。
せめてそれくらいの責任は彰人が背負わなければ……男が廃るというものだし、何よりもこれほどまでに自分のことを案じてくれた朱音を大切にしたいとも思えた。
……それと同時に、今までは気が付けていなかった…とあるもう一つの感情にも、ほんの少しの自覚を芽生えさせながら。
「そろそろ帰っておかないと航生たちにも心配されそうだ。そっちも同じ部屋のメンバーとかに帰ったら色々聞かれるんじゃないか?」
「……そうかも。特に何も言わずに出てきちゃったから…」
「あぁ……それはまた、深く事情聴取をされそうだな」
まぁそこは一度置いておくにしても、時間的に二人とも戻っておいた方が良いことは事実だ。
彰人は彰人で部屋にいるはずの航生と健二には詳しい事情を語ることなく出てきてしまったし、朱音の方もそちらはそちらで……何やら根掘り葉掘りとこれまでの経緯を深掘りされそうな匂いを漂わせているらしい。
…女子の方も朱音が誰に何を言うでもなく部屋を長時間空けていたともなれば様々な憶測を立てていることだろうし、実際に男子でもある彰人と会うためにここまで来ているのであながちその推測は間違ってもいない。
現実としてはこちらの悩みを聞いてもらった上で過去にケリをつけられただけという…特に甘さも何もない流れだったが、おそらくその辺りはあまり関係ないのだろう。
彼女たちにとって重要なのは朱音が男子との密会を行っていたという点であり、それ以外の点はさほど気にもされない些事といったところか。
「……とりあえず、そっちは頑張ってくれ。力になってやりたいけどそこだけは俺じゃどうしようもないから…」
「うん……でもそこまで深くは、聞かれない……はずだよ」
「……そうだといいな」
こういう時に手を貸してやれないことを歯がゆく思ってしまうが、こればかりは彰人でも干渉することは不可能だ。
女子が寝泊まりする部屋がある階は男子の立ち入りが禁止されているし、気楽に上がってしまえば教師陣にこっぴどく叱られる未来が待ち受けているだけ。
やむを得ない事情があるというのならともかく、彼女の様子が心配だったからついていったなんて理由は…まず認められないに違いない。
…そういえば、大浴場にて女子の部屋に遊びに行くと豪語していたクラスの男衆はどうなったのだろうか。
あれ以降目立った動向も無かったのですっかり忘れていたが……うん。
彼らの末路がいかなるものになるにせよ、一応冥福だけ祈っておこう。
「じゃあ俺たちは…これで別れるってことで。朱音、本当にありがとな。話を聞いてもらえて助かったし……嬉しかったよ。この恩はしっかり返す」
「…いいんだよ、そんなことは気にしなくてね。私がやりたいようにやっただけだもん」
「だとしてもだ。それを言ったら俺も、俺が勝手に恩を返したいから返すってことになるぞ?」
「……もう、彰人君は相変わらず強情だね」
「お互いにな。…じゃ、部屋まで気を付けて戻って………っとそうだ。これを聞くのを忘れてた…」
「…? まだ何かあった?」
お互いにここから先は名残惜しくもあるものの、流石にこれよりも長く時間を共有し続けるのも無理があるため別行動となる。
…彼女とこうして一旦の別れを告げることなど、今までに幾度となく行ってきたはずなのに……それを改めて意識すると切なく思えてしまうのは、きっと心境の変化があったからなのだろう。
しかし、いつまでも名残惜しくしていてはずるずると別れ時を見失って引きずってしまうだけ。
なのでそうなることだけは避けるためにも、半ば無理やりに流れを打ち切ろうとして…そこでふと、このタイミングでもう一つ思い出してしまったことがあった。
「特に大したことでもないけどな。それに今更かもしれないけど…今話してるのって朱音の方から誘ってくれただろ? だからそっちに何か話すことでもあったんじゃないかって思ったんだが……どうだ?」
「………あ、そのことね」
そう。これまでの流れからほとんど忘れていたが、元々この場所で合流することを誘って来たのは朱音側だったのだ。
となれば当然、何らかの用件か用事でもあったのだろうことは容易に想像できる。
…もう会話も終わりかけという場面で思い出せたのが幸いだったのか遅すぎたのかは判断に困るところだが、忘れたまま解散するよりはマシなので良いだろう。
そんなことよりも今は彼女の用件の方だ。
何か言いたいことかあるのなら聞いておきたいし、こちらばかり話を聞いてもらって彼女の用事を蔑ろにするというのは…後味が悪すぎる。
そんなことをすれば彰人も後から後悔するだけでは済まないだろうし、であれば今のうちに尋ねておいた方が後々の心情を考えても良い。
しかし……それを聞いたところで返ってきたのは少し微妙そうな表情を浮かべた朱音の言葉である。
「……そうだね。確かに言おうとしてたことはあったけど…今日はもういいかな。時間ももうアレだからね」
「ん、いいのか? 時間とかなら気にしなくても良いんだぞ?」
「うん。別に今日言わないといけないことでもないし…また今度でも大丈夫だよ」
「…朱音がそう言うなら良いんだけどさ。まぁそれなら今度聞かせてくれ」
「……ふふ、楽しみに待っててね」
「…? あぁ…分かった」
何かを悩むような素振りを見せた後に口にした朱音の言葉は斜め上の方向のものであり、どうやら何らかの用事はあったようだが今となっては慌ててすることでもないとのこと。
…その詳しい内容も気になりはしたが、どうしてか瞳の奥に期待にも似た色を滲ませた朱音の雰囲気と小悪魔的な仕草に気を取られ…深く追及することは叶わなかった。
だが、そういうことなら強く踏み込みはしまい。
朱音が言おうとしていたこととやらは……非常に気になることも事実だが、そこに意識を割きすぎては彼女に嫌がられかねないので切り替えよう。
──その後、やけに悪戯っ子じみた雰囲気を醸し出す朱音に目を惹かれそうになりながらもそこで別れることになった。
部屋に戻ってからはだらだらと待ち続けていたらしい航生と健二からそれとなく何があったのかと質問されるなんて展開も待ち構えていたが、そちらは申し訳なく思いつつも当たり障りもない返答で濁しておいた。
…ただ、そのやり取りだけで航生は何かを察したのかいつもと変わらぬ様子でまた茶化しを織り交ぜた騒ぎに興じていたが。
いずれにせよ、それからの彰人はもう腹に抱えたものもなく……心から残り僅かな宿泊研修を楽しめたと言える。
そのまま就寝時間となってからも布団に潜り込んでくだらない雑談を楽しみ、気が付けば眠ってしまっていた。
再び目が覚める頃には……わずかな朝日が差し込む早朝の時刻である。
ここで言おうとしていた朱音の用件については、ひとまずノーコメントということで。
もしかしたら察せられたかもしれませんけどね。