第百十四話 芽生えた自覚
夜ということもあってか身体に伝わってくる冷気も一段と増している旅館の廊下を歩いていき、彰人はとある場所で一度立ち止まった。
そこはこの建物の中でもほぼ隅に位置している階下を分ける階段のすぐ近くであり、周囲に人の気配は全く感じられない。
位置的にもここはほとんど人通りが無い場所であることは何となく感じられる気配で分かっていたため当然なのだが、こうも自分以外の気配が感じられないと漠然と不安に思えてきてしまう。
…元より約束の場所がここなのでそれ以外の場所に来るつもりなど皆無ではあったが、それとこれとは話が別だ。
しっかりと明るさが確保されているのでさほど恐怖心なんかは湧いてくることも無いが…そうは言っても、シンとした空気が満ちているこの場所だと余計なものが目に付いてきてしまう。
それこそ、廊下に設置された窓から覗ける夜空などといったものを。
「……綺麗なものだな。はっきり星も見えるし…」
自分以外の誰もいない状況下だからか、不思議といつもよりも独り言が増えてきてしまう。
小さな窓枠から眺められる夜空に浮かんだ星の数々はいつも生活している場所からではそうそう見ることも出来ないほどに瞬いているし、本来ならこの光景は美しく見えるものなのだろう。
…だが、今の彰人にとってはどうしても……それ以外の意味を含んだものとして映ってきてしまう。
爛々と輝いて見える星空の景色。そこに暗く浮かび上がる空は……この一日が終わることを告げるもの。
言い方を変えるのであれば、この楽しく思えていた宿泊研修が終わってしまうことを意味しているものでもあった。
「…あぁ、そうか。そういうことだったんだな…」
先ほどから彰人の中で渦巻き続けていた空虚な感情の正体。
その原因不明なやるせなさの根本に思い至った時……彰人は思わず、自分の子供のような感情の揺らぎに呆れてしまった。
…情けない。今の彼の内心を表すにはそんな一言で十分。
顔にはどこか痛々しい面影を残しつつ、どこか深い事情を抱えていそうにも思えるこの現状の原因は……何てことはない。
他者からすれば鼻で笑われるようなことであり…彰人にとっては捨てきれない問題。
そんな些細なことが、今の彼の心を抉ってきているのだから。
その原因は……これまで少しずつ積み重ねられてきてしまった、そして見て見ぬふりをしてきたはずの……己の本音。
「今更寂しく思うなんて……情けないにも程があるだろ…」
…そう。これが今の彰人を蝕んでいる虚無感の正体。
これまで本心の奥底では気が付いていながらも、そんなものはただの甘えだとして自分を律してきたはずの本音が…もう見ないふりが出来なくなってしまうほどに膨れ上がってしまったようだ。
今までは見ないように、目を向けないようにと……いや。
向き合ってしまえばもう目を逸らすことは出来ないから、だからあえて目を逸らし続けていたのに…それも今日一日のことで限界が来てしまった。
…今日の宿泊研修は本当に楽しかった。それは間違いないし、彰人自身も表情にこそ出すことは少なかったが心から充実した一日だったと言える。
だが……そうやって大きな楽しみを味わってしまったからこそ、その反動としてこの後のことを考えると胸の穴でも開いたかのような空虚な気持ちになってしまう。
彰人にとって、友人でもある航生たちと過ごす時間は満たされたものだった。
協力して料理を作り、宿にて非日常的な空気を味わいながら雑談に花を咲かせ、多少の騒動こそあったものの露天風呂にも浸かって身体を休めた。
──では、その後は?
いつもとは違う空気の中で楽しさに満ち足りた時間を満喫した後は、各々が普段通りの日常へと戻って行くだけだ。
それは彰人も同様であり、いつものように自宅へと帰っていくだろう。
…家族の姿が何一つとしてない、あの家に。
分かっている。こんなのはただの自己中心的な我儘でしかない。
それでも……この楽しさに満ちた思い出を得てしまったからこそ、自分以外の何者もいない家に戻ることがひどく辛いこととして思えてならないのだ。
そんな中で浮かび上がってきた、他人に迷惑をかけるだけでしかない考えなど……誰かに傍に居てほしいなどと、身勝手な望みは本来抱いてはならないものだというのに。
「……駄目だな、こんなんじゃ。父さんも母さんも忙しいんだ。俺なんかの我儘で時間を掛けさせる、なんてのは……駄目だろ」
本人達に言えば、きっとそんなことはないと優しく言葉を返してくれるだろう。
両親が誰よりも彰人のことを大切にしてくれているのは彰人自身が何よりも知っていることであるし、そこに対する感謝を忘れたことなど無い。
それゆえに、彰人一人の我儘で時間を取らせることなどあってはならないと思うのは…彼個人の矜持のようなものだ。
…誰かに迷惑を掛けてはいけない。ずっとそうやってきたから…これからもそのスタンスは変えることなく続けていく。
自分が少し耐えればそれで全てが上手くいくのだから、それでいいはずなのだ。
…ある種の強迫観念とすら呼べる思考を脳内で巡らせながら浮き出てしまった本音に蓋をしようとするが……やはり、一度自覚してしまった感情を忘れることは容易ではない。
強く蓋をしようとすればするほどに、彰人の頭は身体が訴えてきている寂寥感を強く訴えてきており……自分の考えと行動が乖離していることに諦めにも近い感情が生まれてくる。
…駄目だ、考えるな、自覚するな。
そう言い聞かせても、全く言う事を聞く様子が無い彰人の紛れもない本音は……どこまでも明確に浮き出てきてしまう。
(……結局、昔から何も変わってないってことか。どこまでいっても俺は、寂しがり屋の子供だったってことだ…)
もはや誤魔化しようも視線を逸らしようもない現実が目の前に突き立てられた彰人は、己の本質を改めて認識させられた。
…とどのつまり、彼は誰かに近くにいてほしかっただけなのだ。
身内でも家族でも友人でも、それこそ心を許せる相手であれば誰だっていい。
…たった一つだけ、誰か一人でも自分の傍に居てほしいのだと願ってきた彰人が帰る場所には……誰の姿もなくて。
それでもいつかこの寂しさには慣れるはずだと、そうやって自分に言い聞かせてきたはずのツケがここで返ってきただけなのだ。
だからもう……こんなことはやめにしよう。
自分はもう子供ではないのだ。己の欲だけを口にしていい時期などとうの昔に過ぎ去っている。
こんな感情を発露させることで今回は航生や健二にも無用な心配を掛けさせてしまっただろうし、今後もそのようなことが続いてしまうというのなら彰人自身もそんなことは望まない。
…ゆえに、無理やりにではあっても自分の心に蓋をする。
もう誰も、自分のせいで迷惑を振りまかないように。
(そうだ、今までと何も変わらない。…しばらくは思い出すかもしれないけど、時間さえ経てばまた慣れるはずだ)
浮かび上がってしまった本音を口にさえしなければ、状況は今までと何も変わらず彰人が慣れるまでの辛抱となる。
…そしてその時期さえ乗り越えてしまえば、またあの家で時間を過ごすことにも何も思わなくなるはずなのだ。
それがずっと続けてきたことで、当たり前のこと。
両親にも友人にも、自分以外の他者にこんな弱いところを見せるわけにはいかないのだと自分を律し続けてきた彼の本質そのもの。
──だからこそ、彼女はそれを見逃してはくれない。
彰人が一人で孤独を味わうことなど見過ごしてなるものかと言うように、彼の隣に立ち続けてきた少女は……そんな彼の意思など全て無視してくるものだから。
「…彰人君、お待たせ………どうかしたの? すごく辛そうな顔をしてるけど…」
「…朱音?」
近くにあった階段から静かな足音と共に、凛とした声を響かせてやってきた少女の姿。
数秒前まで静けさに満ちた空間にあって、冷たい空気に触発された彰人の内心に容易く踏み込んでくるように……再び一人の世界に戻ろうとしていた彼の足を無理やり繋ぎ止めるかのように。
温かく、優しく、マイペースで……でも、誰よりも彰人のことを見続けてくれた。
姿を現した朱音の呼びかけに、彰人の意識はそちらへと向かう。