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常に微睡む彼女は今日も甘えてる  作者: 進道 拓真
第三章

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第百五話 不意なトラブル


 彰人もつつがなく飯盒の見張りという役目を終え、朱音たちの側も一通り大きな作業は済んだのかあとは煮込んでいる鍋の仕上がりを待つだけとのこと。

 徐々に香りが強くなる鍋の中身を想像して無意識に喉が鳴らされそうになるが、それは一旦抑え込んで朱音の方に目をやる。


 そこには先ほどまでと変わりなく機嫌を良さそうにしながら薄く笑みを浮かべ、その笑みによってさらに引き出された魅力によって周囲の注目をかっさらっている朱音の姿がある。

 …張本人は目の前の鍋に集中しているようで辺りの視線などどこ吹く風といった様子だが、これだけの目線に晒されても普段通りの態度を貫けているのは流石といったところだ。


 元々朱音本人がそれほど周りを気にしない性格というのも関係はしていると思うが…それはそれとしても、大した度胸だと思う。


(…朱音もあれでマイペースだからな。そのおかげで自然体でいられるんだから、一長一短ではあるんだろうが…)


 まぁあの場合は度胸というよりも、そもそも数多の視線を意識に入れていないからこそ平静を保てていると表現した方が正しいのだろうがそこはいいだろう。

 どちらにしても結果は同じことなのだから、そこを細かく分類したところで大した意味など無い。


 重要なのは、朱音が今も余計に気負うことなく動けているという一点だけだ。


(ああいうマイペースさは見習いたいところだな……やろうと思って出来るものでもないんだろう、が……?)


 周囲を気にすることなく動くことが出来るというのは、人によっては何とも羨ましいメリットとして映ることだろう。

 彰人からしてもそれは例外ではなく、他の誰よりも距離を近づけた今だからこそ彼女の度胸の強さとも言い換えられる自分の芯を保っている姿勢というのは、見習いたいところであった。


 …が、そこで彰人は奇妙な予感を覚える。


 ふと目を向けた先……その方向はつい先ほどまで向けていた場所と同じだが、意識を向けた場所は全く違う。

 具体的に言ってしまえば朱音のすぐ後ろに位置する背後。そこでこちらと同じように作業をしていた班の動向が目に入ったのだ。


 あの机周りにいるのは男子が三人、女子が三人といったところ。

 見たところ男子側がこの生徒同士で料理を作るという状況に高揚しているのか時折ふざけたようなアクションを見せており、こちらから確認していても危なっかしい印象を受ける。


 その様子を見た女子側が、窘めるように注意をしている姿も見られるが…それも大した効果はないようで、まるで聞くような様子がない。

 …考えすぎかもしれないが、その光景に何か嫌なものを感じた彰人はそちらに足を進めようとして──それよりも前に、嫌な予感が的中する。


「…なぁ、この鍋ってもう具材は煮込めたんじゃないのか?」

「そうかー? だったらお前が確認してみろよ!」

「そうだそうだ! 言い出しっぺがやるべきだろ、こういうのはよ!」

「…ったくしょうがねぇな。見てろよ、なら今この俺が………熱っつ!?」


「──え?」


 …どんな運命の悪戯か、こういった予感というのはことごとく当たっていくものだ。

 今回もその例に漏れず……彰人が嫌な気配を感じた途端に何となくで目を向けていた男子三人組が自分たちの鍋を確認しようとして蓋に手を当てた。


 …が、その際に掌に伝わる熱気というものを考慮していなかったのだろう。

 タオルや手拭いを用いずに触れてしまったことで直に伝導してくる熱量というのは半端なものではなく、触った男子は勢いよく鍋から手を放そうとした。

 しかし…ここでも不運というのは連続する。


 手放そうとした際の勢いというものがあまりにも強すぎたためか、それとも反射的だったために意識せずにそうしてしまったのか………。

 真偽は定かではないが、その男子は手を放す過程で鍋本体の取っ手部分を強く弾いてしまったらしい。


 となれば当然、鍋は中身をこぼしながら倒れてしまう。

 …もっと厳密に言うのであれば、朱音の立っていた方向めがけて倒れてくる。


 それに彼女が気が付いた瞬間にはもう遅い。

 気の抜けた声と共に背後の違和感を鋭敏に察知した朱音であったが……その眼前には激しい湯気を立ち昇らせる熱湯と細かく切り分けられた食材の数々が迫ってきている。


 突発的すぎる事態ゆえにまだ状況の理解すら出来ておらず、避けることなど到底不可能。

 これを全身に被ってしまえば大火傷は免れられず、場合によっては重傷を負ってもおかしくない。


 そんな己の身の危機が近づいてくることを、本能だけは理解しながら呆然と立ち尽くしたまま全身に沸騰した湯を被るという未来が訪れ───


「………っ! …朱音、大丈夫か?」


 ───ない。


 ギリギリのところで彼女の身体を両腕で引っ張ることで何とか最悪の未来だけは回避し、硬質的な音を響かせながら床に転がる鍋を横目に彼女の身体に傷が無いかと言葉を掛ける。


「…火傷とかしてないよな? ギリギリで間に合ったと思うんだが…」

「……は、はぇ? …あ、だ、大丈夫、だと思う……な、何が起こったの…?」

「……隣の班のやつらがトラブル起こして、鍋を引っくり返したんだよ。それに巻き込まれそうになってたんだけど…間に合って良かった」


 自身に訪れかけていた最悪の未来が回避できたことに対して頭が追い付いていないのか、目を丸くしながら眼前の光景について尋ねてきていたが…今はそれどころではない。

 朱音が火傷をしていないか確認し終え、何とか自分の助けが間に合ったことを確認すれば彰人もようやく安堵の息を吐ける。


 …周囲は未だにいきなり甲高い音が響いたこの場所に注目が釘付けであり、一体何が起きたのかと騒然としていたが……何よりも先に、これだけは言っておかなければ。


「……そっちの班の人ら、気を付けてくれ。今回は何も無かったから良かったけど……そっちのミスでうちの班が火傷をするところだったんだぞ」

「…! …わ、悪ぃ……」

「まぁ故意的なものじゃないからまだ良いが……ひとまず、あまりふざけすぎないようにしてくれ」

「あ、あぁ……すまんかった」


 彰人が声を掛けたのは今現在騒動を引き起こした張本人でもある隣の班員。その男子たちだ。

 彼らが引き起こした一部始終は見ていたので何となくの経緯も理解できるが、だとしてもはしゃいでいたから周りの人に怪我をさせました、なんて理屈は通るものではない。


 …今回も、彰人が間に入れたからこそ間に合わせることは出来たが……それだってこちらが気づいていなければ最悪のケースが実現していた可能性だってあるのだ。

 あの瞬間だけは目を付けていたから反応も可能だったが、それ以外の瞬間であったのならばどうなっていたのかは彰人自身にも分からない。



 その後、流石に己の行動に反省したのか隣の班の男子たちから謝罪の言葉を送られ、同じ班の女子たちもあれはマズいと思ったのか、必死に謝り倒されてしまったのでそこは特に何も言わずに許しておいた。


 男子はともかくとして、向こうの女子は騒ぎに何も関与していないのだからそこに言いがかりをつけたところでどうしようもない。

 騒ぎを聞きつけた教師もおおよその事情を把握した後に男子たちを注意していたので、今後はあのような事態が巻き起こされることもなくなるだろう。


 今はそれだけで十分だ。


「…彰人、大丈夫!? すっごい音がしたんだけど…!」

「おいおい……随分また派手に転がったもんだな…二人とも無事か?」

「わ、私は何とか……彰人君が助けてくれたから…」


 そうすれば今まで急展開すぎる流れを呆然と眺めていた航生や優奈もこちらを心配するように声を掛けてくれた。

 彰人が見た限りでは大きな火傷跡もなく危機を回避できた朱音も戸惑うように返事を返しており、その姿を見ればあちらも多少は安心したようだ。


「俺の方も問題ない。特に怪我も……っ!」


 …ただ、皆が皆無事だったかと聞かれれば……そうというわけにもいかない。

 現に今も、朱音に続いて己の無事を報告しようとした彰人が自身の左腕に走った痛みに顔を歪め、パッと見てみればわずかに赤くなった腕があった。


「あぁ……少し湯を被っちまったんだな。しっかり避けたと思ったんだが…ま、このくらいなら放っておけば治るか」


 どうやら自分でも気づかないうちに軽く湯に触れてしまっていたようで、そこまで症状は酷くないものの赤くなった箇所は腫れたような痛みを発している。

 だが、それも軽症であるのなら幸いだ。

 この程度であればこの先の作業でも大した支障はないし、適当に冷やしておけばすぐに治せるだろう。


 なので軽く水で洗い流そうとすれば…それよりも早く、彼の異常に気が付いた少女に手を取られる。


「……彰人君、こっちに来て」

「えっ、朱音? …あ、もしかしてこの腕のことか? 別にこのくらい大したことないって。放っておけば治るものだしそんな気にしなくても…」

「いいから、来て」

「……はい」


 赤くなった部位に触れないようにして腕を取ってきたのは朱音であり、向けられた瞳からは不安そうな色が垣間見える。

 しかし、そんな不安になるほど重症というわけでも無いので特に気にせずとも大丈夫だと伝えたのだが……有無を言わせない彼女の圧力にあっさりと屈し、騒動の件もあって多くの視線の中にある空間から離れていく。


 そんな彼女と向かってきたのは調理スペースの一角に据えられていた救護場所。

 万が一怪我をする生徒が現れた時のためにと用意されていた空間だが……そこで救護担当の先生に話を通すとどこかから袋詰めにされた氷を分けてもらい、それを彰人の腕に優しく押し当ててくれた。


「……もう、彰人君ったら怪我をしてるならちゃんと手当てをしないと駄目なんだよ? これが酷くなっちゃったらどうするの?」

「そう言われてもな……あれくらいならそんな大騒ぎするほどでも無いだろうし、何より朱音が怪我をしてないかどうかの方が心配だったし…」

「そうやって心配してくれるのは嬉しいけど、私にとってもそれは同じなんだよ。…彰人君が火傷をしちゃったならそれは心配だし、ちゃんと治してほしいの」

「……そっか。ありがとな」


 腕から伝わるひんやりとした感触が赤く染まった腕に心地よい冷気を伝えてくれるが、それと同時に彼女から告げられた言葉も同じくらいに嬉しいものであった。

 …言われてみれば、それはそうだ。


 彰人は自分の身よりも朱音の身の心配を最優先にしてしまっていたが、それは彼女のことが大切だからこそ。

 朱音のことが何よりも大切な友人だからこそ、己よりも優先して彼女のことを気にかけていたのだ。


 だが、それは……彰人だけでなく、向こうも同じことでしかない。

 彰人がそう思っていたように、朱音も彰人のことを大切な友人だと思っていたからこそ、彼が傷を負ったのであればそれを放っておく選択肢などあり得ない。


 自分の身の安全よりも、どちらもお互いの安全を優先しようとする様は……ある意味で似た者同士で、どこかくすぐったくもある。


「全く…彰人君は過保護だから困っちゃうよ。これからはちゃんと私の事より、自分のことを心配してあげてよね?」

「……まぁ、善処はするよ」

「そこは確約するところなの。…私のことを考えてくれるのは嬉しいけどね」


 …朱音からはジト目を向けられながら呆れたように言われてしまったが、その提案を飲めるかどうかは彰人自身にさえ断定できぬところである。

 自分よりも朱音のことを優先してしまうのは理性でどうこうできるようなものではないし、半ば無意識的に実行していることなので改善するのは困難を極める。


 ゆえに、返す言葉としてはその場しのぎのようにも捉えられる発言で茶を濁そうと思ったのだが……全く誤魔化されてくれなかった朱音はさらにジト目を深め、溜め息をつきながら彰人の腕を冷やしてくれていた。

 …申し訳ないが、この意識だけは変えられそうにもない。


どっちも相手のことを優先しちゃうのはお互い様ってことです。

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