第一話 眠りの出会い
「結構遅くなっちまったな……早く帰らないと」
次第に身に染みてくる蒸し暑さが増してくる六月の半ば。
そしてそんな何とも言えない空気に包まれた校舎を一人ぼやきながら歩いているのは、現在高校一年真っただ中の少年──黒峰彰人だった。
現在の彼はわずかにその姿を隠し始めている日照りによって徐々に暗くなり始めている校内を進みながら自分の荷物を置いてきた教室へと向かっている最中であり、とっくに放課後の時間帯となったこの場所からは自分以外に誰一人として姿が見えない。
そのことに湧きあがりそうになる本能的な恐怖心もあるが……そこで怯えてばかりというのも何となく情けないので、ぐっとその感情は堪えて廊下に足音を響かせながら早足で進んでいく。
「もうちょい早く帰れると思ってたんだけどな……まぁ仕方ないか。文句を言ったところで意味もないし、とっとと荷物だけ持って帰ろう」
そして思わず口からこぼれ出てきた文句も静かな廊下へと響き渡っていくが、そんなことで状況が改善するわけでもないということは重々承知の上なので苦笑しながらそれ以上の愚痴を言うのは留めておいた。
ちなみに、何故彰人がこんな時間まで学校内に留まっていたかというと別に大した理由があるわけでもない。
ただ最初はホームルームが終わるのと同時に帰ろうかとも思っていたのだが、そこで担任に呼び止められてちょっとした野暮用を頼まれてしまったのでその片付けを手伝っていただけのことだ。
…まぁ、当初はすぐに終わるだろうと高をくくっていたにも関わらず予想以上に時間がかかってしまったのでこんな時間まで残ることになってしまったわけだが、全ては終わったことなので今更とやかく言うつもりはない。
担任からも手伝いをした礼と手を煩わせてしまったお詫びとしてこっそりと菓子の束を賄賂として受け取らされてしまったし、そこまでされたら納得せざるを得ないというものだ。
「…やっと着いた。俺の荷物はどこにやったかな………っと、うん?」
そうこうしている間にも目的地でもあった自分の教室へと到着し、扉を開ければ普段から見慣れている光景が視界に入ってくる。
なので早々に自分の机の上に置いていたはずの鞄だけ手に取ってすぐにでも帰路に着こうとしたのだが……そこで、たった一つだけ予想外の光景が彰人の目に飛び込んできた。
「………すぅ……すぅ……」
「…確か間宮、だったよな。まだ帰ってなかったのか…」
見慣れた教室の隅の一角。
そこにいたのはある意味で慣れた光景の一つであり……また一方では異質な少女だった。
間宮朱音。それが現在も整ったペースで呼吸を繰り返している目の前の少女の名であり、彰人のクラス……いや、この学校でその名を知らぬ者はいないだろうと断言できるほどの有名人。
彼女が有名たる所以は多々あるのだが、まず何よりも真っ先に目に付くのはその整った容姿だろう。
わずかに青みがかった黒髪のショートボブでまとめられた髪型は朱音の少し小柄な体躯に見事にマッチした可愛らしさを醸し出しており、そこに加えるようにして示された顔立ちもまたとんでもない魅力を有している。
こう言っては何だが、クラスの他の女子たちと比較しても戦いにすらならないという言葉すら一部の男子から称されるくらいには朱音という少女は別格の美しさを持っているのだ。
さらにそこに蛇足するとすればプロポーションも当たり前のように抜群のものを持っており、出るところは出ていながら引っ込むところは引っ込んでいるというまさに男子にとっての理想を体現したような美少女だと言えよう。
当然、それだけの魅力に溢れた美少女が傍にいるとなれば男子たちが放っておくわけもない。
彰人はそういった事柄に対して興味もないので普段は傍観に徹しているが、毎度のように彼女へと想いを伝えようとする人物は後を絶たない。
噂によれば既に二桁以上の者が告白をして玉砕をしたなんて話もあるが……そこまでいくと尾ひれでもついたのだろうという疑念すら生じてくる。
まぁ流石にその辺りは少し事実に脚色がされているんだろうが、つまるところ朱音という人間がそれほどまでに飛び抜けた美少女だということさえ知ってもらえれば問題はない。
…そして、だ。
そこまで多くの告白の嵐を受けておきながら、今現在に至るまで朱音が特定の誰かと付き合ったという話は噂すら浮上することが無い。
それは逆に言えば誰一人として想いが成就することはなかったということであり、ならば今度は自分がという流れで更に彼女への熱をぶつける者達は増えていくかと思われたが……時間が経った今、朱音に告白を試みようとする者はほとんどいない。
別にそれは彼女が男嫌いだから近づけなくなっただとか、周囲の男たちに牽制されて告白しにくい雰囲気が形成されているだとかそんなことではなく……単に告白という行為自体に意味がないという事実が知れ渡ったからだ。
そう言われるようになった原因は彼女が普段から取っている行動そのものにある。
…言葉で言ったところで信じてもらえるかどうかも微妙なところだが、朱音は学校で過ごす時間の大半を眠ることに費やしているのだ。
これは誇張でも何でもなく、朝に登校してきてから授業時間、休み時間から午後の授業までひたすらに睡眠時間に当てているという徹底ぶりだ。
一体彼女のどこからそこまでの睡眠に対する執念が湧き上がっているのかと突っ込みたくもなるが、最大の問題点はそこではない。
…授業中だろうと所かまわず眠り続けるのもかなりの問題だとは思わなくもないが、まぁそこは一度置いておこう。
色々な意味で目立ちまくっている朱音であるが……やはりあえて挙げるとするならば、最も目立った問題でもある何があっても目を覚まさないということか。
いや、何があってもというのは流石に言い過ぎた。
正確には自分から意識を覚醒させる以外にはあらゆる手段を用いても起きることはないということであり、それは他人から呼びかけられたり身体を揺さぶられたりしても全くリアクションを返すことがないのだ。
…もう分かっただろう。彼女がこれだけ魅力に溢れているというのに告白を全くと言っていいほどされなくなった理由が。
もし勇気を振り絞って自分の胸の内で高ぶっている想いを伝えようとしたところで、その張本人は意識を夢の中へと飛ばしているためまずコミュニケーションが成り立たない。
仮にそこから何とか目を覚ましてもらおうと苦心したとしても、彼女が自然と起き上がってくるまではどうあっても打つ手がないためどうしようもない。
一応朱音の方も流石に登校してきた瞬間と帰宅する直前には目を覚まして自力で帰っていくので、そこを狙おうとすれば出来なくもないが……過去にそれを実践した勇気ある者の談によればにべもなく断られてしまったらしい。
それを語った者の背には言い表しようもない哀愁が漂っていたようだが、それが事実かどうかは当人たちだけが知るところである。
なんにせよ、どうあっても第三者の介入では目を覚まさない彼女はクラスの中でも浮いている……かと聞かれれば、実際のところはそんなこともない。
むしろどんな時でも眠り続けるという何ともミステリアスな特徴とその見た目も相まってクラス内ではマスコット的な人気を博しており、告白を仕掛けようとする男子が激減した今となっては静かに彼女の動向を見守るのがちょっとした楽しみでもあるなんてやつもいるくらいのものだ。
…そしてそんな有名人が、今彰人の目の前で机に突っ伏しながら睡眠をむさぼっているというわけだ。
(こんな時間まで寝てるとは……間宮のやつもどんだけ眠りを必要としてるんだ?)
少し物音を立てたくらいで彼女が起きるわけがないとは理解しているものの、それでも眼前で気持ちよさそうに眠っている者がいれば無意識の内に余計な音を立てないようにと気を張ってしまう。
彰人も自分の机に置いてあった鞄を手に取りながら未だに夢の世界を漂っているクラスメイトの睡眠欲の強さに少々呆れてしまうが、所詮自分には関係のないことだと考え直して足早に教室を出て行こうとする。
…が、教室と廊下を隔てる扉を潜ろうとする直前で少し引っ掛かる考えが頭に浮かんできてしまった。
(…これ、放っておいても良いやつなのか? もう学校が終わってから大分時間も経ってるし……このままにしておいたら夜になるまで寝てるとか…ないよな?)
気になってしまったことは自分がこのまま何もせずに教室を去ってしまった場合、朱音がたった一人で深夜まで学校に放置されてしまうのではないかという不安。
別に彰人が立ち去ったからと言ってこちらに責任があるわけではないし、眠っているのは他ならぬ朱音自身の責任でもあるので見なかった振りをしたからと言って責められることもないだろうが……一度考えてしまった心配事というのはそう簡単には消えてくれない。
それに今の時期的にも身体が冷えるということはないだろうが、あのままの状態で眠っていれば風邪を引くかもしれないし間接だって痛めてしまうだろう。
そう考え始めてしまえば尽きることの無い不安感が怒涛の如く押し寄せ……余計なお節介だとは分かっていても、どうしても無視していくことが出来なかった。
「はぁ……仕方ないか」
この巡り合わせは単なる偶然に過ぎないだろうが、見てしまった以上は見捨てるというのも後味が悪すぎる。
だったら少しでも自分が納得できる方向で行動した方がまだマシだと考え、秋人は気持ちよさそうに自席で眠り続けている朱音へと声を掛けていくのだった。
また新連載です。
朱音と彰人。二人の物語がどのような展開を巻き起こしていくのか、お楽しみに。




